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昭和オッサン映画?!  『新聞記者』に見る日本の「リベラル」の闇

映画『新聞記者』全国イオンシネマ系で公開中 公式サイト
 
リベラル層は大絶賛だけれど……

 話題の映画『新聞記者』を封切り日6月28日に劇場に見に行きました。2019年7月22日までに累計で観客動員数33万人、興行収入4億円を突破し、絶好調だとか。

 この映画は、東京新聞記者・望月衣塑子さんの著書『新聞記者』に着想を得てつくられたとの触れ込みで、宣伝には「「権力とメディア」「組織と個人」のせめぎ合いを真正面から描く衝撃のエンタテインメント」とあります。ネットの予告編を開けば、ページのど真ん中に、田原総一郎さんの「面白い!!よくぞ作った!」という言葉が流れるし、朝日新聞も「日本映画の変化の第一歩」、毎日新聞は「果敢な挑戦」など、リベラル側では政治映画として殿堂入り間違いなしの絶賛モードが続いています。

 さあ、困った。というのも、リベラルを応援する私ではありますが、この映画にはぜんぜんノレなかった。むしろ、怒りさえ覚えました。しかし、私の意見はどうやら多数派ではないようで、実はこの点にもっとも落胆しています。リベラルの同志よ、いったいどうしちゃったの。

行き場のない不満を、リベラルの総本山『世界』本誌の若き編集者さんに訴えて、『世界』本誌掲載に動いてもらったものの、結局、編集会議ではスペースの都合ということで却下の憂き目に。ネット掲載ならどうぞ、ということで、しぶしぶこの「ウェブ世界」に登場しているわけです。ほんとうは、学生時代から紙の『世界』を定期購読してる固定読者層に向けて発信したかったんだけどな。理由はこれからお話することと関係があります。

スクリーンにあふれる昭和臭

 さて、映画館の会場に行って驚いたのは、観客が私を含めてほとんどが白髪(苦笑)。まあ、「新聞記者」っていうタイトルからして、これはしょうがないのか。でも、肝心なメディアの描写も、やたらと「高齢者仕様」が目につくんです。

 まず、映画が始まると、暗いオフィスでナゾのファックス(!)受信。そして、驚いたことに、なんとこのファックスの紙が、最重要アイテムとして全編を貫いている。とにかく新聞社が舞台になると、情報テクノロジーの水準がいっぺんに1970年代に戻っちゃうようで、そのことはたとえば、こっそり携帯で撮影して入手したはずの政府の機密文書がいつのまにかぜんぶ耳そろえてプリントアウトされて紙で出て来たりとか、内閣情報調査室の悪役は、紙の新聞と紙の週刊誌のプリントアウト原稿をもってワナワナと怒りに震えていらっしゃったりとか。そうそう、ニュースのデジタル・ファースト(紙の印刷の前にデジタル版でスクープを出すこと)っていう概念もなかった。スクープとなると「新聞一面をみて驚愕する」という設定。どれもこれも、山場はみんな紙なんです。

 これとは対照的なのが、ネットメディアの描写。有害ネット情報の製造元は、くらーくて無機質な内調(内閣調査室)。そこでパソコンに向かっているツイート部隊とおぼしきヤツらは、顔も声も出さずにカチャカチャとキーボードを叩きながら、陰で世論操作を企てている(らしい)。こういう場面が繰り返されるため、特段のセリフはなくても、「ネトウヨ」ってこういう人たちですよ、ツイッターとか怖いですよ、信じちゃいけませんよというメッセージが画面から溢れ出しちゃっていて、ああもういい加減にしてよっていう感じです。

それと、この映画では、デジタルはオタクだけでなく、女こどもとの連絡にも使われます。たとえば、松坂桃李さん扮するエリート官僚・杉原拓海が、本田翼さん演じるかわいらしい身重の妻・奈津美との連絡にはラインが使われてましたっけ。「社会の木鐸」系は紙、「オタク」「女子ども」系はデジタルって、わかりやすすぎですよね。

 主人公が追いかけていたスキャンダルが一面の記事になったクライマックスも、凄かったです。ドラマチックに輪転機が回転し出して、刷り上がった新聞が印刷所から販売所に輸送され、夜明けにオートバイで配達員によって各戸のポストに入れられるシーンが長尺で挿入されます。ここで映画は最高潮に達するわけです。このあたり、少し前に公開されたメリル・ストリープとトム・ハンクス共演の「ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書」という映画のクライマックスと重なりますが、なにしろあちらは約半世紀前の1971年の事件ですからね。

正義のシンボルとして繰り返し「紙」をたたえながら、ネットをさげすむ。結局これ、デジタルについていけない昭和のオッサンの欲望表現なんでしょうか。でもね、10代の一日平均新聞接触時間は、0.3分(平成30年版情報通信白書より)。そろそろ偏見を捨てないと、自分たちが捨てられます。

出た! オットを支える献身妻!

 昭和のオッサンの欲望といえば、やはり献身妻に尽きるのかもしれません。なによりもこの映画のジェンダー観にはさらに目を見張るものがありました。実は、ここからがこの原稿の本題です。

 まず、この映画の主人公も同僚も上司も、そしてほかに出てくる官僚も、みんな働き方改革とは無縁のモーレツ深夜残業中。これは現実がそうなんだからしょうがないんじゃ、となるのでしょうか。

 そういう「アンチ・働き方改革」派映画に出てくるのは、案の定、献身的な妻たち。この妻たちは、おそらくは(専業)主婦という設定で、登場シーンはほとんど家庭の中。夫を支え子を育て、泣けてくるほど献身的でやさしい、まさに「自民党議員推奨」妻。エリート官僚の杉原なんか、忙しくて出産にも立ち会えないわけだけど、かわいらしい若妻に病室で「忙しいんだからいいのよ」って言われてた。まあ、好きにしてください。

 では、肝心の主人公はどうでしょうか。シム・ウンギョンさんという韓国の俳優さんが演じる主人公の名は、吉岡エリカ。吉岡記者は、アメリカ育ちで、ものごとを考えるのは英語。そして父親は日本人で往年の大記者。母親は韓国人という設定。せっかく韓国出身の俳優さんが演じてるのに、なぜかアメリカ育ちばかり強調されて、韓国とつながるエピソードはまったくない。これは昭和オッサンどころか、明治的脱亜入欧魂の名残か。不思議でした。

 吉岡記者は、物静かで、頭の中では英語で考え、メモも英語でとり、日本語のせりふもたどたどしい人。つまり、ふつうの日本人記者ではありません。こんな人、今のドメスティック体質の日本の新聞社じゃ、いじめられるか、本人自身がいやになるかですぐに退社しちゃうんじゃないかな。望月さんのように記者会見で官房長官と丁々発止やり合うタイプの人ではありませんでした。

 しかも彼女は、突撃記者でスクープをとるというより、亡くなった父のカタキを取る人として、生い立ちを回想しながら事件を追ってゆく。つまり、新聞記者としての功績は最後まであいまいなまま、ストーリーが展開していくのです。少なくとも私には彼女が記者の力量でスクープを勝ちとったというふうには見えませんでした。

 さらに、吉岡エリカは、いつも職場か、あるいはパソコン一台しかない自宅(?)の机に向かって事件を追っている。趣味ナシオトコナシ遊びナシの生活感ゼロ人間。孤独(両親も死亡。友だちゼロというか、登場しない)で、まるで、新聞社という試験管で純粋培養された娘のような純潔さと透明さをもつヒロイン。そういう人が、巨大な権力に立ち向う。こうして、あの望月さんは、劇中ではこの社会で完全なる「他者=よそもの」という設定になっていたのでした。

吉岡記者はまた、自分が普段は上司に言いたくても言えないことを、ズバッと言ってくれる架空のヒーローでもあります。これは「半沢直樹」にも通底する、サラリーマンのカタルシスを得る反逆エンタテインメントに欠かせない存在なのかもしれません。半沢とちがうのは、彼女は女。だからなるべく女性臭を消しておきたかったのかなと勘ぐっています。

 それにしても、製作者は、なぜこんなマイノリティの女性に、言えないこと、言いにくいこと、面倒くさいことをぜんぶ押し付けてるのでしょうか。その傍らで、映画を観たオッサンたちは、オレたちもがんばっているんだ。日本の言論の自由も不滅だ、ついでに女性活躍もさせてやっていると気勢をあげている。この構図はどこかいまの日本の現実を反映しているように思います。一方でトリックスター(道場破り)に拍手喝采しながら、他方で自分たちとは違う人だと線引きをして突き放し、特権は絶対に手放さない。これは、そういうニッポンのオッサンたちの習性と欲望がぎっしりと詰まった映画だと受け止めました。

「望月記者」の何を見ていたのか

 まとめれば、残念ながら、全体のストーリーは、能力ある女性記者の活躍の話ではありませんでした。もし、この映画にこうした期待を持っていたら見ないほうがいいので注意してください。

 むしろそれとは真逆の、めくるめくオトコ主流ニッポン社会の承認、往年の大新聞社へのオマージュ。そういう類のエンタテインメントがあってもよいとは思いますが、だとしたら、製作者たちは、なぜわざわざ望月衣塑子という記者をモチーフにしたのか。彼女をなぜあそこまで徹底的に「他者」に蒸留して描かなくてはならなかったのか。言論の自由とのひきかえに、「他者」を殉教者として差し出す日本社会の閉鎖性(あるいは暴力性とさえ思います)について、なぜ思い至らないのか。それを思うと、日本のメディア、そして社会に絶望的な気持ちになります。

 映画では、伊藤詩織さんを想起させる事件の記者会見やメディアの取り上げ方、あるいは自殺した上司の葬儀会場でのメディアスクラムについても批判的に問題提起しているし、前川前事務次官も登場して、彼の「出会い系バー通いスキャンダル」を大きく掲載した読売新聞への批判も出ています。それらは確かに日本のマスコミ批判と呼ぶに値するし、日本の映画としては勇気あることだったのだろうと思います。

 でも、そこまでするのだったら、こんな「多元的アイデンティティ」(パンフレットの宣伝文)をもつ主人公を登場させた以上、彼女自身の生き方について、もっと真剣に考えるべきだったと思います。この映画では、そんなことより、オレたちの優先順位はあくまでも巨大政治権力とメディアなんだ。女性とか外国人とかは、とりあえず好みのタイプに仕立てとこう。「権力批判」っていうテーマに集中しようじゃないか。そんな声が聞こえてきそうです。

 望月さんの役を引き受ける女優さんがいなかった、などいろいろ事情があったということもネット上で見たことがあります。政治権力との関係でいろいろな事情や困難もあったのだと思います。アンタみたいなお気楽な研究者は、権力と真剣に対峙した経験がないからそんなのんきな批判を言えるんだって思われるかもしれません。でも、そういうプライオリティのつけ方、おかしくないですか。

私が推測するには、製作側は、おそらく望月さんの華やかな女性性には興味はあったのだろうけど、彼女の話題性がどこから来たのかを最後までは追求しなかった。彼女の女性という立場は彼女の記者会見の一連の行動とどう関係するのか、官邸記者クラブで起こった問題の根っこにはこうした問いが関わっていると思いますが、この点を考えようとする意志は微塵も感じられませんでした。というのも、この作品では、女性には、つまるところ、「娘」か「妻」か「母」という役割しか与えていないからです。

 もっとマジメに考えて

 もし、私が望月さんの生き方から着想を得て映画企画をするなら(まあ、そんなことはだれにも頼まれないわけですが)、望月さんみたいな記者が、儀式化している官邸記者会見を政治スペクタクルに仕立てちゃったこと、それによって政治が動いたこと、その際、世間からの誹謗中傷や批判、社内での軋轢、記者同士の議論などたくさんの苦悩と摩擦があったこと。でもまわりの友人や同僚や家族に支えられてがんばっていること。そして、彼女の勇気が予想以上に政治と社会にインパクトを与えたこと。伊藤詩織さん事件も扱っているわけなので、最近の#MeToo運動に絡めて、女性記者たちが企業を超えて連帯し立ち上がっていったことなども交えた、21世紀の働く女性たちに勇気を与えてくれるドラマにしてくださいとお願いすると思います。

 しかし、この映画は、女性記者のエンパワーメントどころか、記者にチクれば左遷か自殺、とお先真っ暗。携帯やネットも危ない情報ツールで、結局、今の時代、確かなのは紙と官僚と自民党ですよという後味の悪さが残ります。

 さいごに、繰り返しになるのですが、この映画を激賞している「リベラルな人たち」へ(この中には、私の友人もたくさんいます)。

 久しぶりの政治映画で、しかも人気が出たのはよかった。日本社会の閉塞感にも応える映画だったのだと思います。それもこれも、そもそもは望月さんの華やかなパーソナリティが注目を集めたからだと思うのです。そうであるならなおさら、彼女がなぜ話題になったかを、リベラルの間でもう一度考えてみませんか。正面から女性や外国人を差別することは言語道断だけど、この映画の女性描写、外国人描写も、好意的に描写しているようでいて、実は深いところで彼らを線引きし、差別しているように思います。この映画が安倍政権批判をしていることは確かですが、そうした政権を選んでいる、日本社会の根深い差別意識についても真剣に意識しなくてはいけないと思います。大きな政治批判をすることは大切ですが、批判は、私たち自身が当事者である身の回りの問題に接続して考えなければ、虚しさばかりで発展もありません。気がつけば、いつのまにかリベラルの重要なアジェンダは保守の側に私物化され、人気取りの方便として利用される有様です。安倍政権の女性活躍推進や移民政策を見れば、私の危機感を共有してもらえるのではと願っています。

 


『新聞記者』
2019年製作/113分/G/日本
配給:スターサンズ、イオンエンターテイメント
監督:藤井道人 /原案:望月衣塑子 河村光庸 /脚本:詩森ろば 高石明彦 藤井道人 
2019年6月28日(土)より丸ノ内ピカデリー、新宿ピカデリーほか全国で現在も上映中。
 

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著者略歴

  1. 林香里

    1963年名古屋市生まれ。ロイター通信東京支局記者、東京大学社会情報研究所助手、ドイツ、バンベルク大学客員研究員(フンボルト財団)を経て、現在東京大学大学院情報学環教授。

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