表象はなぜフェミニズムの問題になるのか 小宮友根
はじめに
ツイッターでフェミニズム関連の議論を眺めることを習慣にしていると、次々に女性表象をめぐる「炎上」事件が目に飛び込んでくる。二〇一九年は新年早々、パイを投げつけられた女性の写真に「女の時代、なんていらない?」というコピーをつけた西武・そごうの広告に批判が集まったかと思えば、一月末には「一見仲が良さそうだけれど裏では足を引っ張りあっている女の子たち」を描いたロフトのバレンタイン広告が批判によって取り下げられることになった。昨年はNHKのノーベル賞解説サイトにおけるキズナアイ起用の仕方、一昨年は母親のワンオペ育児を描いたムーニーのCMなどに批判が集まった。自治体のPRや企業広告における、いわゆる「萌え絵」起用も定期的に問題になる。
もちろん表象を作成する側も、望んで「炎上」しているわけではないだろう。にもかかわらず、似たようなことが何度も繰り返されているということは、特定の女性表象を「悪い」と感じて批判する側と表象の作り手とのあいだに、「悪さ」の理解をめぐる何らかの断絶があることを示唆しているように思われる。一方で批判する側は「なぜ何度批判しても同じことが繰り返されるのか」と思っている。他方で作り手が「悪い」と思ったポイントが批判者と異なっていれば(あるいはそもそも作り手が「悪い」と思っていなければ)、批判が次の作品に反映されることはなく、問題は繰り返され、双方が「またか」と思って「断絶」は深くなる、というように。
もし多少なりともこうした事情があるとしたら、表象に対するフェミニズムの批判がどんな「悪さ」を訴えているのかについて考えておくことは意味のないことではないだろう。女性表象の批判は第二波以降のフェミニズムの中では立場の違いを超えてさまざまなかたちでおこなわれてきた。全米女性機構の初代会長としていわゆるリベラル・フェミニズムを牽引したベティ・フリーダンの記念碑的著作『新しい女性の創造』[i]では、当時の女性雑誌に描かれる女性が「幸せな主婦」に偏っていることが問題として取り上げられていた。一九七〇年代には美術史の分野で、芸術作品における女性表象の批判的解釈がさかんにおこなわれるようになる[ii]。一九八〇年代には、キャサリン・マッキノンとアンドレア・ドウォーキンによるポルノグラフィ批判が大きな話題となった[iii]。
この小論の目的は、フェミニズムによる女性表象の批判がいったい何を問題にしてきたのかを考え、表象の「悪さ」をめぐる議論をより有意義なものにしようと試みることである。もちろんそれは私なりのひとつの考え方でしかないが、繰り返される問題への認識を深めるためには、そうした表象の「悪さ」をめぐる議論が必要であると思われる。
「現実への悪影響」が悪いのか
特定の表象は、どのような場合に「悪い」と言えるのだろうか。このことについて考えるとき、おそらく多くの人が真っ先に考えるのは、「現実に悪影響を与えるとき」という理屈だろう。典型的には、子どもが漫画やアニメに描かれた「悪い」行為を真似してしまうことや、そこに表現された価値観を人々がそのまま身につけてしまうといったようなことである。かつて「スカートめくり」が流行ったのは漫画が原因だったと言われているし、そもそも広告などは私たちに特定の商品やライフスタイルの価値を訴えることで購買の動機付けを与えるよう作られたものである。実際、私たちは表象から良かれ悪しかれさまざまな影響を受ける。そのため「悪影響があるから悪い」という考え方はそれなりの説得力を持つ。
他方で同時に、そうした考え方にはどこか平板なところがあるのも確かである。小さな子どもならまだしも、ある程度の年齢になれば表象に接する態度もそれほど単純なものではなくなる。漫画やアニメはもちろん、広告だって私たちはその「作品」としての良し悪しを解釈の対象とするようになる。つまり、私たちは批評的態度を身につける。絵画の鑑賞などは、そもそもそうした批評的態度と強く結びついた活動だろう。そうなると、さまざまな表象を一律に「現実に影響を与えるもの」として捉えることは難しくなる。
このように考えると、特定の表象に対して「悪い」と感じる人とそうではない人で評価がわかれるとき、そこにあるのは「現実への影響力」に対する見積もりの違いのように思えるかもしれない。たとえば、フェミニストは女性表象が人々に直接の影響を与えることを懸念するのに対して、そうでない人々は「表象と現実は別もの」だと皆わかってるのだからそれほど影響はないと考えるのだ、というように。実際、こうした見方はフェミニストの批判がフィクションにおける女性表象、特に漫画やアニメにおける女性表象に向けられるときにはよく見られるように思う。「フェミニストはフィクションと現実の区別(あるいは二次元と三次元の区別)がつかない」というわけである。もしそうなら、「炎上」が繰り返されるのはフェミニストが表象の受容に対してナイーブに過ぎるからだ、ということになるかもしれない。
こうした考えは、フェミニズムの批判者にとっては魅力的なものだろう。しかし、この小論で私が提示したいのは別の考え方である。つまり、ここには表象に対するフェミニストのナイーブさとは違った問題があると私は思う。そのことを考えるためには、まずは「表象」と「現実」をそれぞれ独立の存在とみなし、両者の関係を「影響関係の有無」からのみ考えるような「表象」の捉え方を見直さなければならない。
「女性表象」と「女性」はどのような関係にあるのか
フェミニズムにおける表象批判の中で中心的な役割を果たしてきた領域のひとつに、美術史がある。グリゼルダ・ポロックは、すでに一九七七年の論文の中で、「イメージ」と「現実」を対置させ、前者が後者をどの程度反映しているのか考察する問いの立て方を批判していた[iv]。なぜなら、「女性イメージ」と「現実の女性」の対応関係を問うことは、表象の中で女性がどのように意味づけられているのかという問いから目をそらすことになってしまうからである。
ポロックが注意を促しているのは、「表象する」という現実の行為があるという、ある意味で当たり前のことであると思う。アニメであれ広告であれ絵画であれ、それは誰かによって制作されるものである。言い換えれば、女性表象の存在には必ず、女性を「描く」という行為がともなっている。「現実」と「表象」を対置し、両者の対応関係や影響関係だけを考えていると、「描く」というこの行為がどうおこなわれているかという「現実」が見落とされてしまうのである。
パーカーとポロックは、女性に厳格な性道徳が求められた一九世紀以降に逆に女性ヌードが頻繁に描かれるようになったことについて、こう述べている[v]。
ここで必要なのは、絵画とは記号の組織体だという認識である。一枚の絵を組み立てる特定の記号についての知識をもち、かつ文化的・社会的記号について熟知している、この二種類の知識をもって見る者が読んだ場合に、意味を発揮する記号組織が絵画である。
さまざまな女性ヌード画にパーカーとポロックが読み取るのは、「自然」としての女性の身体と、それを芸術作品として絵画にすることで鑑賞/所有しようとする男性との非対称な関係である。女性ヌード画を成立させているのは、女性(の身体)に対して特定の文化的・社会的記号を用いて「意味づけをする」制作行為なのである。パーカーらによると、このことは、しばしば女性アーティストが可視化し抵抗しようと苦心してきたものである。たとえばヌード画のモデルをする中で自らも絵を描き始めたシュザンヌ・バラドンがポスターに描いた『パレットをもつヌード』では、鑑賞の対象としての肉体とはまったく異なった、絵を描く主体として鑑賞者に背を向けたヌードが描かれている。ヌードの女性が主体として描かれることは、翻って、他のヌード画における「描かれた」女性とその作者/鑑賞者としての男性との関係を照らし出すだろう。
バラドンがモデルになったルノワールの『浴女たち』(左)とバラドン自身による『パレットをもつヌード』(右)。
(パーカー&ポロック『女・アート・イデオロギー』189-190 頁)
こうして、「表象を作る」ことが「女性に対する意味づけ」と関わっているのであれば、私たちは「そこでどのような意味づけがおこなわれているか」を考えることができる。そしてそれは、私たちが用いている「文化的・社会的記号」について考えることなのである[vi]。
広告の中の性別
絵画についてポロックたちが主張していたことは、何もフェミニストだけが言っていることではない。社会学において「相互行為」という研究領域を切り拓いたアーヴィング・ゴフマンが同時期に「広告」について述べていたことを見てみよう。ゴフマンは『ジェンダー広告』という著作の中で、五〇〇以上の広告写真を並べながらその中で女性・男性がどのような存在として、また両者がどのような関係にあるものとして呈示されているかを考察している[vii]。
ゴフマンが指摘するのは、たとえば次のような特徴である。女性は男性に比べて小さく描かれる、女性は男性よりも手や指でモノや自身の身体を触っていることが多い、専門職あるいは専門的な活動をおこなっているのは男性であることが多い(図2)、家族が描かれるとき父親は少し離れて家族を見守るような位置に描かれることがある、女性や子どもは男性よりもソファーやベッドに寝ていることが多い、等々。
医者は男性、看護師は女性が描かれた広告写真(ゴフマン『ジェンダー広告』32 頁)
ここからゴフマンは、写真にうつる人物の性別が男女どちらであるか、職業が何であるか、何をしているのか、他者に対してどんな役割を負っているのかといったことを、私たちが瞬時に理解するために用いられるある種のふるまいのコードを読み取っている。
ゴフマンによれば、私たちは日常生活の中で他者と居合わせるとき、自分が何者であるかをディスプレイするという相互行為に不可避に携わっており、そのためのふるまいのコードが儀礼のように形式化されている。広告写真においては、誰が何をしているのかが誰にでも瞬時に理解できるよう、日常生活に根を持つそのコードが誇張される(ゴフマンの表現では「超儀礼化される」)かたちで配置されている。広告写真に写っている人物個人がどこの誰であるのかとは無関係に、その人の性別や社会的役割(職業や家族内での地位)を多くの人々が問題なく理解できるようその写真は作られているのである。
ここでもまた、広告写真の作成/理解に用いられているのは、「女性/男性であればどのようなふるまいをするか」「どんな職業に就くか」「家族の中でどんな役割を担うか」といったことがらに関するコードである。そうしたコードにしたがって、広告写真の中の人物は特定の意味を与えられ、また読解される。広告写真の理解がそのようにおこなわれているものであるなら、その理解可能性は、「現実」との対応関係を問うまでもなく、あらかじめ私たちの「現実」の日常生活のうちに根をもっているのである。
こうして、絵画にせよ広告にせよ、そこに特定の対象が描かれるとき、その「描く」という行為のうちには、すでにその対象に対する一定の意味づけが含まれている。この点で、女性表象とは、女性であるとはどのようなことであるのかということの意味が再呈示(re-present)されたものであると考えられるのである。
女性表象の何が悪いのか
表象を作ること自体が表象対象へ意味づけをおこなう行為であるということを考慮に入れると、表象の悪さについて少し考え方を広げることができる。すなわち、「表象が現実に影響を与えるか否か」だけではなく、特定の文化的・社会的記号やふるまいのコードを用いること、また特定の表象を特定の媒体に特定の仕方で配置することそれ自体の「悪さ」について考えることができるようになる。
重要なのは、表象を作成するにあたっておこなわれる女性に対するさまざまな意味づけは、表象の作成以外のさまざまな活動においてもおこなわれているということである。「鑑賞の対象としての女性(の身体)」という意味づけは、女性が頻繁に容姿評価に晒され、女性の化粧がマナーとされ、「美人すぎる○○」が話題になり、ワールドカップで優勝した女子サッカーチームのメンバーに化粧筆が贈られたりする現実の中でもおこなわれている。「ケア労働は女性の仕事」という意味づけは、職場で来客にお茶を出したりゴミを捨てたりといった「職場内家事」が女性の仕事とされ、「赤ちゃんはママがいいに決まっている」という発言を政治家がおこない、サラダを取り分けることが「女子力」と呼ばれる現実の中でもおこなわれている。要するに特定の記号なりコードなりを用いて表象を作ることは、その記号やコードを用いておこなわれるさまざまな現実の活動のうちのひとつなのである。
このように考えると、フェミニズムがなぜ特定の女性表象を「悪い」と思うのかについて、「現実への影響」とは異なった理由を考えることができる。すなわち、女性に対する特定の意味づけを含む表象は、同じような意味づけを含むさまざまな活動のひとつであるがゆえに、そうした意味づけを問題だと感じる者にとっては「ここでもまた」という累積的な問題として経験されると考えられるのである
たとえば、ケア労働が女性に割り当てられていることが公的領域における男女の不平等を維持させている大きな要因であることは、第二波以降のフェミニズムの重要な洞察だった。また、女性がもっぱら性的な対象として道具的に扱われることは、セクシュアル・ハラスメントや性暴力の問題と深く繫がった問題である。そうした問題の中で女性に与えられている意味づけが、広告やアニメのような身の周りの表象の中でおこなわれていたら―たとえば家事をしているのがいつも女性だったり、大した必要性もないのに女性の身体が性的に描かれたり単なるアイキャッチとして使われたりしていたら―そうした問題を抑圧的に感じている者にとっては、それらは同種の抑圧として経験されうるだろう。そこでは表象の理解は、ケア労働やセクハラの問題と意味的に繫がった経験となるのである[viii]。
他方、そうした意味的繫がりを感じない人にとっては、表象は「ただの絵」「ただの写真」としか理解されないし、「ちょっとステレオタイプだな」くらいに思っても、ケア労働の問題やセクシュアル・ハラスメントの問題において感じられるのと同種の抑圧がそこで累積されているとは感じないだろう。もしそうなら、特定の表象に対するフェミニズムの批判を真剣に検討するには、その表象が特定の意味的連関のもとでもつ意味を考えなければならない。
認識的不正義
ミランダ・フリッカーというフェミニスト哲学者は、マイノリティが被る不正義の一種として、近年「認識的不正義」という概念を提案している[ix]。これは大まかに言えば、マイノリティの抑圧的経験を表現するための資源が社会の中に不足していることから生じるタイプの不正義である。
たとえば、「女性のNOはYESを意味する」とか「男性の部屋に女性が一人で行くことは性交への同意を意味する」といった考えが広まっている社会では、性暴力被害者の女性は自分の被害を十分認識してもらうことができないことがある。同様に「セクシュアル・ハラスメント」という概念が生まれる前は、女性は職場で性的な扱いをされることで不利益を被っていても、それが「悪いことである」という認識を十分に持つことができなかった。そうした状況は、直接暴力を振るわれたり差別的取り扱いをされたりする「不正義」とは違うが、しかしそれらの被害をそもそも被害として認識することが難しくなっているという「不正義」の状況である。
先に述べた累積的問題という女性表象の経験は、おそらくこの認識論的不正義の問題と関わりがある。女性とケア労働を結びつけたり、女性の身体をもっぱら性的な対象として扱ったりすることは、性別分業やセクシュアル・ハラスメントの問題を成立させている「女性の意味づけ」でもあるがゆえに、その同じ意味づけが表象の中で「ここでもまた」繰り返されていると感じることは、そうした問題を問題として認識するための資源の不足として感じられるだろう。女性に対する同じような意味づけばかりが溢れていることは、そのこと自体が「認識的不正義」の状況として理解されうるのである。
こう考えると、表象の「悪さ」はもはや「何が描かれているか」だけを見て考えられるものではなくなる。それはむしろ、歴史的・社会的に女性が置かれてきた/置かれている状況との関連ぬきには考察することができないものである。女性表象の「悪さ」について考えることは、表象を理解可能にする記号やコードが女性をどのように意味づけているかを読み解くと同時に、賃金差別や進学・就職における差別、DVやケア労働負担のような私的領域における不平等、痴漢やセクハラやAV強要のような性暴力といった現象の中で起こる同種の意味づけとの関連においてその記号やコードを考察することでなくてはならない。「現実への影響」という単純な見方から離れてこうした作業をおこなうことはそれなりに大変で複雑だし、結論も一意に定まるようなものではないだろうが、それ抜きに女性表象をめぐる議論をしてもおそらく実りあるものとはならないだろう[x]。
フリッカーはスーザン・ブラウンミラーの著書から、女性運動に初めて参加したある女性の経験を紹介している。そこでは性のことや育児のことを女性たちがおおっぴらに議論していた。そこで彼女は、これまで自分個人の欠陥だと思ってきた問題が、実はそうではなかったと気づく。その気づきは、彼女を「永遠にフェミニストに」した瞬間だった、と。このエピソードはとても示唆的である。自分の経験が新たな意味連関のもとで新たな理解可能性に開かれるとき、これまで当たり前だと思って気にもとめなかったことのうちに、次々に「同種の」問題が見えてくる。表象がフェミニズムの問題になるのは、そこが女性に対する抑圧的な意味づけがおこなわれる現実の場のひとつだからであり、同じことがおこなわれる場が私たちの社会に他にもたくさんあるからなのである。
おわりに
本稿では女性表象がなぜフェミニズムにとって問題となるのかについて、簡単にではあるがひとつの考え方を示した。女性表象を作ることは女性を一定の仕方で意味づけることであり、それは女性が歴史的・社会的に被ってきたさまざまな抑圧における女性の意味づけとの関連のもとで、同種の累積的問題として理解される。
他方、本稿では紙幅の都合で論じることができなかったけれど、表象がフェミニズムにとって重要な問題となるもう一つの理由がある。それは、表象が世界の新しい理解可能性を拓くものでもあるということだ。世界的な広告賞であるカンヌライオンズでジェンダー平等をテーマにした広告が表彰されていること[xi]、『アナと雪の女王』『モアナと伝説の海』といった作品でディズニーが従来のプリンセス観を打ち破ろうとしていること[xii]などからは、認識的不正義の維持に貢献することをよしとせず、女性たちが自らの経験を理解するための新たな資源を提供しようとする表象制作者の気概を感じることができる。実際、九〇年代に「第三波」フェミニズムと呼ばれる潮流が登場して以降、ポピュラーカルチャーはフェミニズムにとって重要な活動の場になっている。
こうして、私たちは「表象」をめぐる議論をいまの世界にある不正義を認識する機会にし、より平等な新たな世界を構想する機会にすることができる。「炎上」に対して「不快にさせたことへのお詫び」が繰り返されるのではなく、「表象を作ること」が持つ意味をめぐる議論が深まることを期待したい。
(初出『世界』2019年5月号)
[i]ベティ・フリーダン(三浦冨美子訳)『新しい女性の創造 改訂版』大和書房、二〇〇四年。
[ii]ロジカ・パーカー、グリゼルダ・ポロック(萩原弘子訳)『女・アート・イデオロギー』新水社、一九九二年。
[iii]キャサリン・A・マッキノン(奥田暁子ほか訳)『フェミニズムと表現の自由』明石書店、一九九三年。
[iv]G . Pollock, “What,s Wrong with Images of Women? ,”ScreenEducation24: 25-34, 1977.
[v]ロジカ・パーカー、グリゼルダ・ポロック、前掲書。
[vi]日本におけるフェミニズムの視点からの美術研究としてはまず若桑みどりの一連の著作を参照のこと。また「イメージ&ジェンダー研究会」の継続的な取り組みの成果である『イメージ&ジェンダー』は、Women,s Action Network のウェブサイトにて一〜一〇号をすべて読むことができる。
[vii]E. Goffman, Gender Advertisement, Harper & Row, 1976.
[viii]このように考えるならば「二次元か三次元か」という、しばしば見られる区別は、フェミニズムによる表象批判とはあまり関係がないことがわかる。むしろ絵画であれ漫画であれ、「絵」のほうがより記号的な特徴が強調されている場合もあるだろう。問題は、「ただの絵だから被害者はいない」といわれるとき、「絵」の「悪さ」についてとても狭い考え方が採用されていることのほうなのである。
[ix]M . Fricker, Epistemic Injustice: Power & the Ethics of Knowing,Oxford University Press, 2007.
[x]その意味では、こうした議論は「法規制の是非」という論点とは相性が悪い。特定の歴史的・社会的文脈の中で表象がもつ意味は、具体的な権利や法益の侵害という形で定式化することが難しい場合が多いからだ。しかし他方で、表象の良し悪しは法規制の是非とは異なる平面で論じることができるし、そのような場合にこそ市民による表象批判は重要な意味を持つのだから、フェミニズムによる表象批判を「表現の自由」との関連でのみ考察するのは視野が狭いと言わざるをえない。「表現の自由」という論点設定の陥穽については以前フェミニズムによるポルノグラフィ批判を主題に書いたことがあるので参照してほしい(小宮友根『実践の中のジェンダー』新曜社、二〇一一年、7章)。
[xi]広告におけるジェンダー平等をめぐる現状については最近出版された治部れんげ『炎上しない企業情報発信―ジェンダーはビジネスの新教養である』(日本経済新聞出版社、二〇一八年)を参照のこと。
[xii]ディズニーがプリンセス観の刷新に意図的に取り組んでいることについてはバズフィードの以下の記事が参考になる(BuzzFeed「自立していて勇敢。なぜディズニーは魅力的な女性像を生み出せるのか」)。