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気候再生のために

脱炭素化の「コスト」とトランプリスク(江守正多)

『世界』2025年5月号収録の記事を特別公開します。


 日本の気候変動対策目標(NDC)を含む地球温暖化対策計画、エネルギー基本計画ならびにGX2040ビジョンが、パブリックコメントを経て二月に閣議決定され、NDCは国連に提出されました。

 二〇一三年の日本の排出量のピークから二〇五〇年にネットゼロに向かう直線に沿って設定された、今回の二〇三五年度(六〇%削減)、二〇四〇年度(七三%削減)NDCは、日本の先進国としての責任を考慮すると、一・五℃で地球温暖化を止めるために十分な貢献とは言い難いと思います。しかし同時に、今後さらに大きな政策の後押しがなければ実現不可能な目標でもあります。

 審議会におけるNDCの議論の終盤では、政府案の直線的な削減経路に加えて、より早期に削減を深掘りする「下に凸」の経路と、削減の深掘りを先送りする「上に凸」の経路の計三つが提示されました。一部の委員からは、国際的な責任をより大きく果たすのみならず、脱炭素化の投資を世界から呼び込む可能性がある「下に凸」の経路を支持する声も上がりましたが、議論は深まりませんでした。

 「下に凸」の経路が退けられる過程では、対策にかかる「コストが大きい」という理由が強い影響力を持ったようにみえました。しかし、この「コスト」とは一体何を指しているのかが、明らかな形で共有されているようには筆者には感じられませんでした。

 そこで今回は、脱炭素化の「コスト」についての認識を整理してみたいと思います。筆者は経済学が専門ではないので、やや素人臭い筆致になりますがご容赦ください。

対策コストは必要経費

 まず世界全体でマクロに見た場合、脱炭素化を行うと、行わなかった場合に比べて経済成長率が若干鈍化すると期待されることはおそらくそのとおりでしょう。

 ただしこれは、対策技術を導入するのにコストがかかるから、といった単純なことではありません。誰かが払ったコストは誰かが受け取り、経済システムの中で循環するのですから。

 筆者の理解では、脱炭素化を行うと、現在の経済システムで短期的に最もリターンが大きい分野とは違う分野に投資をすることになるため、対策をしなかった場合よりも経済成長率が鈍化するのです。こうして生じた経済価値の差額を、たしかに「コスト」と呼ぶことができるでしょう。

 一方で、脱炭素化の「便益」、つまり、対策により回避できる温暖化被害の経済価値を同時に考え、コストと比較する必要があります。

 便益の見積もりは研究によって大きくばらついていますが、IPCC第六次評価報告書によると、地球温暖化を二℃で止める場合は、ほとんどの条件下で、対策のコストよりも便益の方が大きいと評価されています。

 一・五℃で温暖化を止める場合は、この関係はそれほどはっきりいえません。しかし、これは世界総計の経済価値で比べた場合であり、排出の責任が小さい脆弱な国々での深刻な被害を回避できるといった公平性の観点を考慮に入れれば、一・五℃で温暖化を止めるための対策コストも正当化できると筆者は考えます。

 以上から、マクロに見た場合、脱炭素化のコストとは、将来の被害を回避するための必要経費であると理解することができます。

 なお、現在の経済主体が、この必要経費を確実に支払うよう促すため、経済システムに組み込む方法が「カーボンプライシング」であり、これは経済学で「外部不経済の内部化」と呼ばれることです。

コストのイメージ

 以上に述べた意味で、脱炭素化には確かにコストがかかります。しかし、その意味があまり吟味されることなく、なんとなく悪いイメージのものとしてコストが強調される場面が多いと筆者は感じています。

 カーボンプライシング、特に炭素税の効果は、商品やサービスが高くなるので消費を控える(我慢する)ことによって排出が減るというイメージで捉えられていることが多い気がします。しかし筆者の理解では、低炭素な商品・サービスが高炭素なものよりも相対的に市場で有利になり、投資が低炭素側に流れる効果が、より本質的です。

 そもそも多くの人は、温室効果ガスの排出削減ということに対して、商品・サービスの消費が制限されたり活動が制限されたりする(我慢する)イメージを強く持っているように感じられます。そういう側面がまったく無いとは言いませんが、筆者自身のイメージは、社会システムを脱炭素化してしまえば、基本的に今までと同じように生活していても、温室効果ガスが出なくなる、というものです。

 電力に関していえば、再生可能エネルギー(主に太陽光発電・風力発電)と蓄電池がさらに安価になりながら大量に導入され、地域分散型電源に適した送配電網の構築が進み(このためには過渡的に大きな投資が必要です)、電力の需給調整を助けるデマンドレスポンス等の制度整備が進むことにより、最終的には現在よりも低コストの電力システムに到達できる可能性もあると想像しています。

 日本国内にスコープを限定すれば、資金が域内に留まることも重要です。つまり、日本人が払ったコストをなるべく日本人が受け取りたいわけです。その意味で、現状で年間二〇兆円前後に上る化石燃料輸入コストを脱炭素化により減らしていける日本は、脱炭素化が経済的に有利に働く側面を持っています。

 一方、燃料やマテリアルの分野に関しては、再エネ由来などの水素や合成燃料で化石燃料を置き換えることは、構造的な高コスト化を意味すると思われます。この点で、この分野の産業界の方々がコストを強調するのは理解できます。これを軽減するため、燃料利用を減らすための電化やマテリアル利用を減らすためのリースやシェアリングを進めるなど社会システムを変えていくことも重要でしょう。

 また、低所得者などの社会的弱者にコスト負担のしわ寄せが行かないための、再配分政策なども併せて必要かもしれません。

 もう一つ重要なのは、気候変動対策の副次的な便益を認識することです。化石燃料の削減で大気汚染が減ること、高断熱住宅の普及で健康が増進すること、自宅の太陽光発電が非常時の電源になりレジリエンスが向上することなどです。

 このように考えると、脱炭素化のコストは、我慢して受け入れなければならない理不尽なものではなく、将来の被害を回避するために社会を造り変えるのに必要な経費であり、メリットも活かしながら社会全体でうまく受け入れていくもの、と捉えられないでしょうか。

トランプリスク

 しかし、実はここにひとつ、大きな問題が横たわっています。

 気候変動問題における一つの難しい点は、自国の排出削減と自国の被害軽減が対応しないことです。つまり、日本が脱炭素化すれば日本の被害が回避できるのではなく、世界が脱炭素化して初めて日本の被害も回避できるのであり、日本も世界の一部であるから脱炭素化する、という考え方になります。

 したがって、ここまで説明したコストの受け入れが合理性を持つためには、世界全体で脱炭素化に向かうという国際的な合意と、実際そうなるはずだという期待が維持されることが本質的に重要となります。

 その意味で、一月に発足した米国の第二次トランプ政権が、気候変動問題があたかも存在しないかのように振舞う態度は、人類にとって極めて危険といえます。米国では、環境規制の撤廃、パリ協定離脱の決定、資金拠出の停止、政府機関の縮減等がすごいスピードで起き、気候変動対策や気候変動研究に直接的な打撃を与えています。

 今のところ同調する国はアルゼンチンくらいにみえますが、ヨーロッパ諸国でも気候変動対策に否定的な極右政党が力を持ってきていますし、米国の資金が来なければ脱炭素化の取組を放棄する発展途上国が出てくる可能性があるなど、不穏な空気が漂います。

 もしも気候変動を無視する政治勢力が各国で次々に権力を握るようなことが起きれば、世界が協力して気候変動を止めるという期待が消失し、各国で「コスト」をかけて対策を行う動機が合理性を失ってしまうかもしれません。

 世界が脱炭素化に向かうのをやめてしまうと、来世紀にかけて地球温暖化は四℃上昇に達し、海面は数メートル上昇し、低緯度を中心とした広い地域が高温と高湿で人間の生存に適さない気候になるでしょう。そうなれば、世界中で進む気候変動被害の激甚化の中で、自国のみの生き残りを賭けて各国が争うサバイバルゲームが始まるのではないでしょうか。これが現代文明崩壊の一つのシナリオであったとしても少しも不思議ではありません。

 このことを認識する人たちを増やしていく必要がありますし、その人たちが団結して、一部の国の一時的な乱調があったとしても、世界全体としては気候変動を止めるという明確な合意を揺るぎなく持ち続けることが、文明の存続にとって極めて重要だと思います。

 そのために、気候変動対策を支持する政治勢力が選挙で勝つことも大事ですが、同時に、社会の分断をこれ以上深めないための、制度設計やコミュニケーションの配慮も必要ではないでしょうか。

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著者略歴

  1. 江守正多

    東京大学未来ビジョン研究センター教授。IPCC第5次及び第6次評価報告書主執筆者。

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