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午前1時のメディアタイムズ

〈特別公開〉第4回 ニュースをめぐる分断線(若林 恵)

『世界』2025年7月号収録の記事を特別公開します。


 第二次トランプ政権がスタートしてちょうど一〇〇日を迎えた四月二九日に、歴史上初めてポッドキャストのホストやソーシャルメディア・インフルエンサーを迎えてのプレスブリーフィングがホワイトハウスで行なわれた。会見で質問を受けたホワイトハウス報道官のキャロライン・レビットは、この会見の主旨について、「メディア対応をめぐる慣習を、一九二五年のものから、二〇二五年にふさわしいものに、いい加減変えたほうがいいでしょう」と語ったという。

 大手メディアは軒並みトランプ政権の新たな愚策と言わんばかりに報じたが、保守系ポッドキャスト「Undercurrents」をホストする独立系ジャーナリスト/ポッドキャスターのエミリー・ジャシンスキーは、気恥ずかしくなるような場面もあったものの、市民の感覚により近いインフルエンサーやコメンテーターがホワイトハウスと直接対話できるチャンネルが開かれたことを、「歴史的な出来事」だと評した。

 第二次トランプ政権を生んだ大きな要因となったのが、ポッドキャストをはじめとするオルタナティブメディアだったことは、党派を違わず一致した見解となっている。選挙直後に「自分たちのジョー・ローガン・エクスペリエンス(JRE)が必要だ」と声を挙げた民主党寄りのコメンテーターも少なくなかったが、全米最大のフォロワー数を誇るこのポッドキャストのホストを務めるジョー・ローガンが、五年前はバーニー・サンダースの支持者だったことはよく知られる。この番組には過去にバーニー・サンダースが出演して民主党支持者から大顰蹙を買った。昨年の選挙戦終盤にはカマラ・ハリスの出演も囁かれたが実現しなかったのは、ハリス側の意向だったとされる。

 トランプは選挙戦でインターネットを舞台にした新たなメディアエコシステムを巧みに使ったが、トランプ陣営が取り立てて賢かったわけではない。民主党は、新メディアに適応するチャンスをみすみす自らの手で逃したのだった。

 複雑なエコシステム

 「ポッドキャスト」ということばは、当初は音声配信を意味するものだったが、現在では動画と同時配信しているものが多く、ビデオポッドキャストと呼ばれることもある。先にあげたJREもSpotify上で動画とセットで配信されており、YouTubeにもチャンネルがある。あるいはタッカー・カールソンのようにXで配信を行なうケースもあれば、Rumbleのような新興動画プラットフォームを拠点にする者もいる。無料・有料コンテンツを、プラットフォームを変えて出し分けるパターンもある。

 政治ポッドキャストの内容は大きく三つの形式に分けることができる。一、ホストとなるコメンテーターがその日にあったニュースを解説していくモノローグ形式、二、ゲストを迎えてインタビューを行なう対話/インタビュー形式、三、複数のレギュラーホストがその日のニュースに対してガヤガヤとコメントをしていくリアクション形式。とはいえ、それぞれの番組がひとつの形式に必ずしも縛られるわけではなく、これらをハイブリッドしたものも多い。

 これらの形式は、言うまでもなく旧来のテレビから援用されたもので、取り立てて新しいわけではない。一はニュースやトーク番組の看板ホストによる一人語り゠モノローグを踏襲したものだし、三はいわゆるバラエティニュースの手法だ。それがインターネットに移行したことによって何が変わったのかと言えば、誰でも番組をつくることができるようになったこと、あるいは番組の価値がもっぱらホストのパーソナリティに依拠することなどが挙げられるが、とはいえポッドキャスターが政治活動や報道に一度も携わったことのない素人ばかりかと言えば、そんなことはない。

 現カリフォルニア州知事のギャビン・ニューサムやミシェル・オバマなどが自身の番組を立ち上げて最近話題となったが、根強い人気を誇るタッカー・カールソンやメーガン・ケリー、メディ・ハサン、ピアース・モーガン等は、かつて大手テレビの看板キャスターを務めた人物だ。若手でも、先に挙げたエミリー・ジャシンスキーのようにメディア企業でキャリアを積んだ者もいる。自分のポッドキャスト番組をもつことは、既存メディアで下積みを経た若いジャーナリストのキャリアパスになりつつあるようにも見える。

 もちろん、起業家やコメディアン、ゲーム実況者からコメンテーターとして人気になった者もいるが、ポッドキャストは、何らかの理由で既存メディアを離れたジャーナリストや評論家、学者などがひしめく空間であればこそ競争も激しい。ポッと出が人気を博すには、それなりの知見と才覚と個性とを要する。

 先に挙げたJREのホスト、ジョー・ローガンはコメディアンで格闘団体UFCの実況で名をあげた人物だ。男子部員が部室で交わすようなリラックスした会話が売りで、そのノリはラジオの深夜放送に近い。そこで多様なゲストがときに際どい政治談義を繰り広げることになるが、それをもってJREを政治ポッドキャストとみなすかどうかは判断が分かれるところだろう。

 二〇二五年にトランプを勝利へと導いたポッドキャストの世界は、有象無象が群居するカオスな世界でありつつも、党派問わず大量のプロが既存メディアから亡命してきたことで、複雑なグラデーションをもつ情報エコシステムを形成するにいたった。ユーザーはそこで、噓か本当かわからない情報に晒されもするが、ひとつのニュースをめぐる見解の多様性とニュアンスの豊かさは、旧メディアの体制ではとうてい実現できなかったものでもある。

 「専門家」は必要か

 こうした新しいメディア環境をめぐっては、当然懐疑的な声もある。四月一〇日配信のJREに、英国の右派ジャーナリスト、ダグラス・マレーと、コメディアンでリバタリアンの政治ポッドキャスターのデイブ・スミスがゲスト出演した回は、ニューメディアの問題を露わにしたことで大きな話題を呼んだ。

 開始早々から番組が不穏な空気に包まれたのは、ダグラス・マレーがのっけからジョー・ローガンに食ってかかったからだった。JREのゲストの選定にはバイアスがある。反イスラエル、反ウクライナのゲストばかりだ。歴史修正主義者でホロコースト否定論者と言ってもいいような素人歴史学者に噓八百を話す機会を与えている。対するローガンは「自分が話したいと思うゲストを呼んでいるだけだけど」と答えるが、マレーは執拗に追及する。

 「いわゆるニューメディアの問題はこれですよ。なんの専門性ももたない人が、生半可な知識を披露して、誤りを指摘されると、自分はジャーナリストでも学者でもない、ただのコメディアンだと言って逃げる。こんなことが罷り通るのはおかしいでしょう」

 マレーのコメントは、コメディアンでもあるローガン、スミスへのあてこすりだったが、「じゃあ、どうすればいいわけ?」とローガンが問うと、マレーは「もっと専門家を呼びなさい」と言った。

 この調子でマレーはポッドキャストの信頼性を三時間にわたって攻撃し続けたが、ハイライトは、イスラエル/ガザの話題になった際に、マレーがスミスに「最後にイスラエルに行ったのはいつ?」と問い、スミスが「一度も行ったことないよ」と返した場面だった。マレーは大げさな身振りで「一度も行ったことないのにこれまで散々イスラエルを批判してたわけ?」と蔑むように言い、スミスは「それの何が問題? おれは自分が言いたいことを喋るよ」と答えた。

 案の定、番組後のコメント欄は大いに荒れた。JREファンがコメントの大半を占めていたがゆえ、マレーを非難する声で溢れかえることとなったが、とりわけ多くの視聴者が反発したのは「専門家」の語だった。この語は、多くのリスナーがJREのようなポッドキャストに惹かれていったそもそもの理由と大きく関わっている。

 「専門家を呼びなさい」とのマレーの言葉から、多くのリスナーが想起したのは、たとえばコロナ禍における、マスメディアや〝専門家たち〟による「科学を信じろ」の掛け声だった。そこには、マスクやワクチンの義務化やロックダウンへの疑義の声が、陰謀論者や非国民のレッテルをもって封殺された恨みが、いまもわだかまっている。

 「ちゃんとした専門家」をいうなら、学歴も業績も申し分のない研究者のなかにも、ロックダウンやマスクの義務化に反対していた者はいたはずだが、主流メディアが黙殺したため、その声に耳を傾けようと思えばインターネットに探すしかなかったという記憶も生々しい。

 既存メディアの恣意性に気づいた視聴者がネットへと流れるという構図は、大統領選をめぐるロシアゲート騒動でも、ウクライナの紛争でも、イスラエル/ガザの紛争でも繰り返された。ポッドキャストの隆盛は、一夜のうちに起きたことではない。

 マスメディアが仕立てあげた「専門家」は信用する気になれない。メディア企業が語る「客観性」や「中立性」はまやかしである。良きにつけ悪しきにつけ、それがポッドキャストの世界へと導かれたリスナーのおよその総意だった。であればこそ、わざわざJREで「専門家」の語を盾にポッドキャスト自体を毀損しようとしたマレーが旧体制側に寝返った裏切り者に見えたのも当然だった(マレーのオックスフォード大学での専攻が英文学であること、さらにマレーがイスラエル政府と近しいジャーナリストであることから、その中東報道の「専門性」や「中立性」を疑う声も噴出した)。とはいえ、マレーがニューメディアの痛いところを突いたのもまた事実ではある。

メディアの恣意性

 先述した通り、ポッドキャスターは実際のところ「コメンテーター」であることが多い。「ジャーナリスト」をどう定義するかにもよるが、現場に行って取材することを重視するなら、ポッドキャスターは必ずしもジャーナリストではない。その意味で、政治ポッドキャスターとニュースの関係は、ゲーム実況者とゲームの関係に近い。ゲーム制作者がいなければゲーム配信ができないように、ニュース制作者がいなければリアクションも考察もできない。その意味で配信者゠コメンテーターは、ニュース制作者の尻馬に乗っかって実況しているだけと言ってしまえば、確かにその通りだ。マレーは、政治ポッドキャストはただの二次創作に過ぎないと指摘したのだとも言える。

 とはいえ、コメンテーターの存在がニュースの価値を左右するようになったのは、決して最近のことではない。アメリカでは古くからエド・マローやウォルター・クロンカイトといった名キャスターのコメントが世論を左右してきたし、日本でもNHKの「ニュースセンター9時」、久米宏の「ニュースステーション」、筑紫哲也の「NEWS 23」といった「キャスターショー型」が一般化したことで、ニュース番組はニュースそれ自体よりも「誰のコメントとともに受容するか」が重要になっていった。さらにそれがバラエティ番組とハイブリッドされることで、ニュースは、視聴者の感覚に近いとされる、必ずしも専門家ではない誰かのコメントを通してコンテクスト化され、リアルタイムで共感や怒りを呼び覚ますものとなっていった。その延長にポッドキャストがあるのだとすれば、コメンテーターの非専門性をポッドキャストに限ってあげつらうのはフェアとは言えない。ちなみにアメリカのトークバラエティ番組では、ウーピー・ゴールドバーグがホスト/コメンテーターとして日々トランプ批判を繰り広げている。

 また、ニュースには必ずアグリゲーション゠編成という行為が伴う。世界で起きたすべての出来事を番組や紙面で取り上げることは不可能であるため、どうしたって取捨選択が行なわれる。そこには当然恣意性が入り込む。報道の客観性や中立性といった言葉が、およそ理念であって現実の描写でないのは、新聞が一面で取り上げるニュースが各社によって異なることからも明らかだ。そこには当然各社の主観が反映される。番組や紙面に招く専門家の選定にしても、誰が相応しいのかを決めるのは各社の主観だ。「客観的に正しい専門家」を客観的に測定できるような機構はこの世に存在しない。

 さらに、メディアの恣意性の問題は、「戦場を体験しなければ戦争を語ることはできない」という、マレーが指摘した論点にもついて回る。マレーが語ったような現場至上主義は長らく報道を支える信念となってきたものだが、ここには、現場に近づけば近づくほど主観性が作動してしまうという矛盾もある。現場のどこに立ち、どこに目線を向け、どこを切り取るのかを選んだ時点で恣意性は発動する。当事者が出来事をより正確に語ることができるわけではないことは、マレー自身が別のポッドキャストで認めていたことでもある。

 これは必ずしもメディアに対する批判ではない。メディア情報は、それがどんなプロセスを経たものであれ、人が加工する以上、恣意性から逃れることはできない。それは旧メディアであってもポッドキャストであっても同じだ。メディア情報というもののなかには「その情報の見方」が、常にセットで含まれている。そして一視聴者として我が身を振り返っても、少なからぬ場合、情報そのものよりも、その「見方」のほうこそがよほど大事だったりするのだ。

「オーセンティシティ」とは

 よく語られることだが、ポッドキャストの価値は、必ずしも情報の正確性や中立性に依拠しているわけではない。むしろ重要なのは「オーセンティシティ」であると言われる。ここでいう「オーセンティシティ」は辞書の最初に挙がる「信憑性」「信頼性」の意であるよりは、「真率さ」や「噓偽りのなさ」の意に近い。語る内容に誤りがあろうが、賛成できない意見を述べていようが、その人が「本気でそう思っている」と感じられることこそが重要だという意味だ。

 トランプが二〇一五年に大統領選への出馬を表明し、あれよあれよという間に支持を広げていった際、当惑したリベラルメディアは、トランプの集会に出向いて支持者たちをインタビューし、その心根を推し量ろうとした。そうしたなかコラムニストのサリーナ・ズィトが「The Atlantic」の記事のなかで下した結論は、トランプ人気の秘密を言い当てていると支持者の間でも大きな話題となった(Salena Zito, "Taking Trump Seriously, Not Literally")。

 メディアはトランプの言うことを字義通りに受け取り、真剣には受け止めない。トランプ支持者は、トランプの言うことを真剣に受け止め、字義通りには受け取らない。

  いまなお議論を呼ぶこの意味深な一節は、ポッドキャストという文脈で語られる「オーセンティシティ」がどういうものであるかだけでなく、ニュースというもの、さらには「真実」というものとどう向き合うのかをめぐる大きな分断線をも明らかにしている。

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著者略歴

  1. 若林 恵

    編集者・黒鳥社コンテンツ・ディレクター。著書に『会社と社会の読書会』(共著)、『さよなら未来』ほか。

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