気候と社会の悪循環(江守正多)
※『世界』2025年7月号収録の記事を特別公開します。
これまで筆者は、気候変動が社会に与える影響について、それが単なる環境問題ではなく、社会の不安定化を招き、それがさらに気候変動を悪化させる悪循環の可能性を、折に触れて指摘してきました。
異常気象による食料やエネルギーの価格高騰、それが引き起こす社会の分断、さらには政治の混乱といった連鎖は、決して絵空事ではなく、現実味を帯びたリスクに思えます。
最近、国際的な研究コミュニティでも、類似した視点がより体系的に議論されるようになっています。昨年発表された英国のSpaiserらによる論文(注)は、気候変動と社会の相互作用が生み出す「負の社会的ティッピング・ダイナミクス」と題し、気候変動が社会のさまざまな領域で不安定化を引き起こし、それが気候変動対策をさらに困難にする悪循環を、五つのプロセスに整理して示しました。今回は、この論文を手がかりに、このテーマを改めて考えてみたいと思います。
気候システムと社会の「臨界点」
気候変動の議論において、ティッピングポイントという概念は、すでに比較的広く知られるようになっています。日本語では臨界点などと訳され、外部から強制された変化が一定の閾値を超えることで、システムが急激かつ不可逆的な変化を起こす現象を指します。
気候システムでは、グリーンランド氷床や南極氷床の崩壊、アマゾンの熱帯雨林の枯死などが、その代表的な例として知られています。これらは単なる環境の変化ではなく、気候システム自体がこれまでの安定状態を離れて別の安定状態に向けて遷移してしまうことを意味します。
気候変動に関する政府間パネル(IPCC)も、こうしたティッピングポイントへの到達が、気候変動リスクを飛躍的に高めるおそれがあるとして、早くから警鐘を鳴らしてきました。
一方、近年は社会や経済のシステムにおいてのティッピングポイントも注目されています。再生可能エネルギーの急速なコスト低下や普及拡大、電気自動車の市場転換、代替肉の浸透などがそれにあたります。これらは社会の意識変化と技術革新が相乗的に働き、ある転換点を超えると急激に普及が進むという期待の表れです。
筆者もこうした良いティッピングポイントへの期待を抱いてきましたが、今回の論文が注目するのはその対極にある「負の社会的ティッピングポイント」であり、これまで見落とされがちだった重要なリスクです。
負のティッピング・ダイナミクス
気候変動と社会の相互作用が、必ずしも良い方向に働くとは限らないことは、これまでも筆者に限らず多くの人が想像してきたでしょう。しかし、そのメカニズムを系統的に整理し、気候変動が社会の不安定化を招き、その不安定化がさらに気候変動への対応能力を低下させるという悪循環を、具体的なプロセスに分解して示した点が、今回の論文の重要な貢献といえます。論文では、この「負の社会的ティッピング・ダイナミクス」を、五つのプロセスに整理しています。
第一は、アノミー(社会的規範の喪失)です。気候災害が頻発し、社会インフラや経済活動が脅かされると、人々の間で信頼や共有された規範が崩壊し、利己的な行動や短絡的な判断が支配的になります。災害時のパニック買いや暴動、デマの拡散などは、その兆候と言えるでしょう。こうした社会状況では、合理的な気候変動対策の合意形成はますます困難になります。
第二は、過激化と分極化です。社会の不満や不安が蓄積すると、人々は極端な価値観や信念に引き寄せられ、対話や妥協が不可能になります。まさに今、米国のトランプ政権下では、気候変動問題が政治的分断の象徴となり、パリ協定からの離脱が宣言されただけでなく、気候変動対策や気候科学への攻撃が相次いでいます。気候変動対策そのものが「リベラルの陰謀」とされ、政策議論が科学的な事実から乖離してしまっています。
第三は、強制移動です。気候災害や食料不足、資源の枯渇などにより、住む場所を追われる人々が増加すれば、社会の緊張は高まります。欧州では、二〇一一年に勃発したシリア内戦以降の難民流入への反発から、極右ポピュリズム政党の支持が拡大し、気候変動対策への反発と移民排斥が結び付いています。これは、社会が分断され、排外主義や陰謀論が勢いを増す典型的な例です。
第四は、紛争です。水資源や農地、エネルギーを巡る争いが激化すれば、地域は暴力や武力紛争に巻き込まれ、気候変動対策どころではなくなります。アフリカのサヘル地域や中東などでは、気候変動が既存の脆弱な政治・社会構造を崩壊させ、紛争の要因となっていることが報告されています。
第五は、金融不安定化です。気候災害やエネルギー危機は金融市場に波及し、資産価格の下落や信用不安を招きます。これにより脱炭素投資が滞り、対策が遅れることでさらに気候変動が悪化する悪循環に陥ります。ロシアのウクライナ侵攻によって深刻化した二〇二二年以降の世界的エネルギー危機も、こうした兆候を示しています。
これら五つのプロセスは、互いに独立しているのではなく、連鎖的かつ相互に強化し合います。たとえば、気候災害が強制移動を生み、移民流入への反発が分極化を強め、分極化した社会が紛争に突き進み、紛争が金融不安を招くといった具合です。このような複合的な悪循環は、気候変動対策の実行力を急速に損ない、最終的には社会の崩壊を招く危険性すらあります。
筆者がこの論文を読んで感じたのは、こうした負の社会的ティッピング・ダイナミクスが、すでに私たちの現実世界の中で進行し始めているということです。米国や欧州に限らず、世界各地で社会の分断や排外主義、気候変動否定、科学への不信が顕在化しつつあることを、多くの人が実感しているのではないでしょうか。私たちが想定していたよりも速く、気候変動は社会に対して破壊的な影響を及ぼし始めているように思えます。
日本社会に迫る負の連鎖の兆候
負の社会的ティッピング・ダイナミクスは、世界各地でその兆候が現れ始めていますが、日本社会においても無関係ではありません。近年の異常気象の頻発は、すでに私たちの暮らしに不安と緊張をもたらしています。
豪雨や猛暑、台風被害が相次ぐなか、被災地ではコミュニティの結束が弱まり、復興が進まない地域では、住民間の不満や不信が蓄積しています。災害発生後に、SNSを通じたデマや陰謀論が拡散され、地域社会の分断や不安を助長する事例も出てきています。
また、エネルギー価格の高騰は、家計や企業の経済的不安を高め、脱炭素投資の停滞や気候変動政策への国民の支持の退潮を招いています。ロシアによるウクライナ侵攻以降、日本でも電気代やガス代が大きく上昇し、再生可能エネルギーの固定価格買取制度に伴う賦課金などが「負担」として語られる傾向が強まりました。
その結果、脱炭素化への理解や支持が揺らぎ、短期的な経済安定や既存産業の保護が優先される場面が増えています。こうした傾向は、社会の閉塞感を助長し、変革への意欲を削ぐことにつながりかねません。
さらに、日本では少子高齢化が進み、社会全体の活力が低下しつつあります。こうした構造的な脆弱性のなかで、気候変動がもたらす圧力は、排外的な言説や陰謀論的な主張が浸透しやすい土壌を作ります。災害時に広まる外国人犯罪デマや、気候変動をめぐる誤情報の拡散は、すでに深刻な社会的課題として現れています。
これらの現象は、気候変動によって生じるストレスが、社会の内側から分断と不信を拡大させる力を持っていることを示しているようにみえます。
希望への道筋を描く
こうした負の連鎖を断ち切るために、筆者が何よりもまず重要だと考えるのは、「世界が協力して脱炭素化に向かうことが、文明が破綻しないために不可欠である」という共通認識を、社会全体で維持し続けることです。
社会のさまざまな変動に伴い、一時的な揺り戻しや綻びが生じることは避けがたいにしても、世界には根本的に脱炭素の方向性に対する合意があるというナラティブを崩さないことが、社会の行動意欲を支える基盤になります。
このナラティブを維持するには、科学的な知見だけでなく、人々の心に届く物語が必要です。「なぜ脱炭素が必要なのか」を論理で説明するだけでなく、「どんな未来を共に目指すのか」を描き出す力が問われています。教育やメディアは、事実を伝えるだけでなく、共感を育む語り方を模索すべき時に来ているのかもしれません。
そして私たちは、負の連鎖の恐怖に突き動かされるだけではなく、希望を描くことで前に進むべきです。脱炭素化を「負担」として捉えるのではなく、「よりよい社会への投資」として提示し、再生可能エネルギーや持続可能な暮らしがもたらす恩恵を可視化することが、分断の克服と社会の再構築にとって不可欠です。
危機に直面するからこそ、私たちは協力し、共感を育み、多様な声を包み込む社会を選び取っていく必要があります。
注
Spaiser et al. (2024) Negative social tipping dynamics resulting from and reinforcing Earth system destabilization. Earth System Dynamics.