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スクリーンの前の読書会──映画『君たちはどう生きるか』をめぐって

 ここへ綴ってゆく言葉が、批評と呼ばれるものからなるべく遠ざかってくれることを願っている。『君たちはどう生きるか』の映画評をと話をいただき、大喜びで引き受けておきながら、実のところもうそんなものは生み出されるべきじゃないと思っているのだ。あの作品に限っては、観た者がそのあとすべきことは、評することではないはずだから。
 とはいえ、作品自体が批評的な性格を持っていることは間違いない。特別熱心にジブリ作品を追ってきたわけではない私でさえ、セルフオマージュの数々、過去作品へのツッコミ、これぞジブリと私たちが思っていた―そして愛していた―部分への厳しい自己批判に、気付かないわけにはいかなかった。まさか〝ジブリ飯〟に吐き気を催す日が来るなんて! カリカリといい音をたてて切り分けられるパンやとろけるバター、輝くジャム、幸せそうに頬張る主人公。そういった一つ一つを過剰に表現することであらわになったおぞましさは、ジブリアニメがついてきた「嘘」の自白であり、個人的なことをいえば、それらによって支えられてきた私の子ども時代を傷付けるものでもあった。
 でも、強がりで言うわけではない、そんなことはどうだっていい。たとえ作家があとになって昔の作品を悔やんだとしても、幸か不幸か、もう取り返しがつかないからだ。『となりのトトロ』も『魔女の宅急便』も『天空の城ラピュタ』も、とうに私の血となり肉となっている。ちょっとした傷なんかすぐに塞がる。ここまでなんとかこの名を出さずに粘ってきたが、私たちはちょっと宮﨑駿を気にしすぎだ。彼の意図は、彼の真意は、八十を過ぎて彼が達した境地とは―まるで教祖の扱いだが、宮﨑駿は一人のアニメーション作家である。作家というのは、作品を作る人のことだ。そして作品というのは、作家を映し出したときではない、私を、そしてあなたを映し出したとき、いよいよこの世に生まれ出るのだ。

 その点における素晴らしいお手本が、ちょうどこの映画の中にいる。『君たちはどう生きるか』という本と向き合う、主人公の少年・眞人である。
 大好きな母親を火事で亡くした眞人は、父の早すぎる再婚やその再婚相手であるナツコとのぎくしゃくした関係にも追い打ちをかけられ、深刻な悲しみと苛立ちを抱えている。そんなとき、亡き母からのメッセージが添えられた本、『君たちはどう生きるか』を発見し、その瞬間から夢中になって読み耽る。
 眞人が持っているのは新潮社版の、おそらく一九三七年に出版されたものだが、これが劇中に登場したとき私はかなり驚いてしまった。吉野源三郎によって書かれたその『君たちはどう生きるか』こそが、今回の映画の原作とばかり思っていたからだ。しかしそうではなかった。それはそれとして登場するなら、原作という位置付けは適当ではなくなる。宮﨑駿監督の『君たちはどう生きるか』は、「『君たちはどう生きるか』を下敷きにした話」ではなく、「『君たちはどう生きるか』を読んだ人の話」だったのだ。
 そのことに気付いた瞬間、胸が高鳴った。これは読書会だ。そう思ったのだ。私がスクリーンの前に座っていたとき、そこには吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』の読者が三人も集まっていたのだから―一人は私、一人は眞人、もう一人はもちろん駿。あなたはどう読んだ? 私は内心で眞人に尋ねた。どう読んで、どうしようと思った?
 眞人は答えなかった。言葉では。しかし涙と、その後の行動で答えてくれた。ナツコが姿を消してしまったと聞いて躊躇なく探しにいくのはまさにそれだ。彼女に対するそれまでのよそよそしい態度を思うと、眞人の前のめり気味の使命感はいささか唐突だし、不自然である。でもそれは―あえて排他的な物言いをするが―『君たちはどう生きるか』を読んだことがない人しか抱かない印象だろう。あの本を読んだことがある人なら、初読を終えたばかりの眞人の迷いのない足取りに、むしろ当然の印象を持つはずだ。
 それは改心とは少し違う。心より先に、変わったのはたぶん目だ。ものの見方、世界のとらえ方が変わり、それで自然と心の置き所も変わったのだ。

 びっしりと大地を埋めつくしてつづいている小さな屋根、その数え切れない屋根の下に、みんな何人かの人間が生きている! それは、あたりまえのことでありながら、改めて思いかえすと、恐ろしいような気のすることでした。現在コペル君の眼の下に、しかもコペル君には見えないところに、コペル君の知らない何十万という人間が生きているのです。どんなにいろいろな人間がいることか。こうして見おろしている今、その人たちは何をしているのでしょう。何を考えているのでしょう。それは、コペル君にとって、まるで見とおしもつかない、混沌とした世界でした。

 小説『君たちはどう生きるか』の主人公・コペル君がデパートの屋上で得たこのひらめきは、このあと「人間は分子みたいなもの」とか「天動説から地動説へ」といった、据わりがよく理解しやすい表現に落ち着いてゆく。でもコペル君の身の上に起きたこと―そして、それを通して眞人の身の上にもまた起きたこと―を一番誠実に表しているのは、まだそこに至らない時点の、このまどろっこしい、長々とした、言葉を探す言葉の連なりではないだろうか。コペル君の心と眞人の体を力強く駆動させたのは、手持ちの語彙では語り尽くすことのできない感動、センス・オブ・ワンダーの衝撃だったはずだから。
 何しろ彼らの世界はこのとき、初めて空高く舞い上がったのだ。屋上から下界を見下ろすコペル君の視界を「鳥瞰」と言い表せることと、眞人の冒険にたくさんの鳥たちが―多くは克服すべき存在として―関わってくることは、果たして偶然だろうか。特に、物語序盤から登場するトリックスター的存在のアオサギが、敵とも味方ともつかない態度で眞人をおおいに翻弄したのち彼の友となっていく過程は、眞人がこの新しい視点を自らの力で獲得していく過程にもなっている。
『君たちはどう生きるか』を読んだ者の応答として、眞人のこの学びは実にこの上ないものだ。

 読書会のいま一人の参加者、宮﨑駿の読解は、言うまでもなくこの映画全体に表れている。先述した自省的な姿勢、あちこちに配置された彼岸のイメージ、母との対話、矛盾しながら共存する正義と悪―それらの鍵をたどっていけば、より詳しい読み解きを試みることもできるだろう。でも何より重要なのは、観る側がそれほどまでに積極的な構えを取らなければ読み取れない情報が多い、という事実である。
 少し前の「排他的な物言い」を繰り返すことになるが、この映画は、吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』を読んでいないと理解しづらいことがたびたび起きる。映画というのは一般的に、もとになる作品が別にあっても独立したものとして鑑賞できる作りになっているものだが、これはまったくそうではないのだ。そしてそのこと、多くの人に理解され、受け入れられることをそもそも目指していないところに、宮﨑駿が正面から『君たちはどう生きるか』と向き合っていることの証がある。
 彼は映画を観る人のことも、吉野源三郎という作家のことも気にしていない。宮﨑駿はただ一人の読者として『君たちはどう生きるか』を読んでいる。そして一人の人間として、「君たちはどう生きるか」という問いにごく正直に答えているのである。

 ここまで書いた今、冒頭で打ち明けたことをあらためて思う。映画のほうにしろ、小説のほうにしろ、私たちはもう『君たちはどう生きるか』を評するべきではない。SNSというお手軽な批評装置が身近になってからこのかた、他者に対して寝転びながらでも「あなたはこう生きるべきだ」と断ずることができるようになった私たちは、その無責任な正義感で何人も傷付け、殺してさえおきながら、まだその手の放言を続けている。ただでさえそんな状態にいる。そのうえ「君たちはどう生きるか」という一直線な問いさえ批評対象と見なすのなら、コペル君が発見し、眞人もまた手に入れた視点から世界を眺めるとき、その中のいったいどこに自分自身を存在させられるというのだろう。
 眞人も宮﨑駿監督も答えた問いに、だから私も答えようと思う。答え続けていこうと思う。映画とともに始まった読書会は、そうしてようやく成り立っていくのだろう。

 小説『君たちはどう生きるか』の終盤、コペル君は、これまで多くのことを教えてくれた叔父さんにあてて文章を書き始める。「誰に聞いてもらおうというのでもなく、ただ自分の声を自分で楽しみながら、うれしそうに歌っている」うぐいすに誘われるようにして綴られたその文章の中から、特に心強い言葉を記して、筆をおこうと思う。

 叔父さんのいうように、僕は、消費専門家で、なに一つ生産していません。浦川君なんかとちがって、僕には、いま何か生産しようと思っても、なんにも出来ません。しかし、僕は、いい人間になることは出来ます。自分がいい人間になって、いい人間を一人この世に生み出すことは、僕にでも出来るのです。

 

古谷田奈月
こやた・なつき 作家。二〇一三年、「今年の贈り物」(のちに『星の民のクリスマス』と改題)で第二五回日本ファンタジーノベル大賞を受賞しデビュー。著書に『神前酔狂宴』(野間文芸新人賞受賞)、『フィールダー』(渡辺淳一文学賞受賞)など。

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