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【「虎に翼」主人公の義父】三淵忠彦最高裁長官はいかに誕生したか・補遺2 ――司法行政機構の整備(赤坂幸一)

*NHK朝ドラ「虎に翼」のヒロインのモデル、三淵嘉子の義父・三淵忠彦。小田原に隠棲していた彼がどのような経緯で初代最高裁判所長官に選ばれたのか。三淵邸に眠る貴重な資料をもとに、岩波書店『世界』2024年9月号に掲載された論考では書き切れなかった秘話を二回にわたって公開します。前回はこちら

 「三淵忠彦最高裁長官はいかに誕生したか――日本国憲法の制定と最高裁の始動」(岩波書店『世界』2024年9月号)、及び「三淵忠彦最高裁長官はいかに誕生したか・補遺1」WEB世界(2024年8月8日掲載)では、裁判官を辞めて20年以上、当時すでに隠棲していた三淵忠彦が、なぜ最高裁長官候補として突然浮上し、かつ長官に就任したかを、三淵邸に残された三淵忠彦関係文書(「三淵邸・甘柑荘(かんかんそう)保存会」所蔵、整理中)を活用しつつ実証的に考察した。この三淵長官時代は、行政事件の裁判を含むすべての争訟裁判権、法令等の違憲審査権、規則制定権及び司法行政権を新たに与えられた裁判所が、その運用のあり方を模索した時期にあたる。本稿では、同じく三淵忠彦関係文書を活用しつつ、このうち司法行政権の行使に向けた裁判所の体制整備、すなわち最高裁判所事務総局の設置に関わる背景事情を瞥見してみよう。

1 「三淵忠彦山脈」

 上記「三淵忠彦最高裁長官はいかに誕生したか」で紹介したように、裁判官時代の三淵は、明晰な頭脳と果断な訴訟指揮で法曹関係者にその名を知られ、また、司法省入りを拒否して法廷一筋に打ち込むその姿勢、及び後輩に対する篤心な指導・育成のために、当時の東京地裁の中堅層の大半は「三淵閥」とでも称すべき存在で固められ、三淵が大審院長になるのも時間の問題だと考えられていた。それだけではない。万巻の書に親しみ、かつ深い美術鑑識眼を備えた三淵の豊富な話題は、裁判所の枠を越えて、多くの人々との間に文人的交流の紐帯をもたらした(江橋活郎「三淵前長官を懐う」『自由と正義』2巻9号(1951年)55-56頁)。

 すなわち三淵は、「実務法曹の最高峯」であるにとどまらず、長く民法を講じた慶應義塾における「教員室の談話の中心」であり、バビロン学会(古代学の私的研究会)の主要メンバーにして、長谷川如是閑ら主宰の革新雑誌「我等」に寄稿し、かつ「芸術方面にも広い趣味と交友があった」のであり(小林俊三『私の会った明治の名法曹物語』(日本評論社、1973年)278-292頁)、欧州留学中に親交を深め国民啓蒙の必要性で合意していた吉野作造・佐々木惣一の両氏とともに、1915(大正4)年、University Extensionを目指す「大学普及会」設立の中心となったのも、広く社会問題に関心を持つ三淵の、実務法曹の枠にとどまらない知識人としての幅の広さを示している(太田雅夫「吉野作造と大学普及運動」『キリスト教社会問題研究』16・17号(1970年)123-124頁、同「星島二郎と『大学評論』〔その2〕」『世界と議会』1986年6月号6頁)。

 三淵はまた、1925(大正14)年、原田敬吾(バビロン学会代表)の橋渡しで原嘉道(三井総顧問)の懇請を受け、裁判官を辞して三井信託顧問に就任したが、三淵が就任してからの顧問室は千客万来で、法律家・政治家・評論家・美術家・婦人たちなど、社会のあらゆる分野の人々が三淵の周囲に集ったという(小林・前掲『私の会った明治の名法曹物語』295-297頁)。さらに、中央法律会における学界・政界・法曹界の文化的素養を持った人々との交友も逸することができない。中央法律会とは、星島二郎・片山哲経営の法律事務所が刊行していた「中央法律新報」が関東大震災の余波で廃刊となった後、その関係者が組織したもので、牧野英一・穂積重遠・三淵忠彦・尾佐竹猛・星島二郎・片山哲・草野豹一郎・三輪寿壮・宮崎龍介・飯塚友一郎・高田義一郎・木村久一・中島弘道・長島毅・小松謙助・松永義雄・細野三千雄・鈴木義男・安倍恕といった錚々たるメンバーが集った。これは法律の民衆化・社会化を基軸とする懇談会で、常に会話の中心にいたのが、牧野、三淵、尾佐竹の三者であったという。

 それが太平洋戦争突入後、「ここだけは言論の自由を確保しよう、政府の糾弾も、戦争反対も、信仰の自由論もやろう」ということで、毎月第二火曜日に別途「放談会」(「二火会」)を開くこととなり、そこでは「談論風発、政治経済外交から芸術歴史、…和歌、俳句、川柳狂歌など、…コンなによくも話題が出るものかと思われる程であつた」(片山哲)という。その中心となったのが、ここでも三淵・尾佐竹と、水野広徳(軍事評論家)で、政治・社会・思想の問題が自由に語り合われた(松下芳男「崇敬した三淵忠彦氏」『法曹』129号(1961年)59頁、片山哲「三淵氏の思い出」同前21-22頁)。この中央法律会・二火会での人脈が、戦後の司法府再建や、社会党の政務調査会顧問の人選、ひいては三淵の最高裁長官就任に大きな影響を持ったことに、疑いの余地はないであろう。三淵の最高裁長官就任確実を報ずる読売新聞は、次のように述べている。いわく、裁判官時代の三淵の「明快な審理と名文で鳴る判決をみたものは天馬空をゆく名判官と評している」が、三淵は「単なる法学者でなく、卓越した経世的識見をきくため知名の政治家で氏に師事している者も少なくない」と(昭和22年7月29日付読売新聞)。

 このような幅広い人脈をもった三淵であるがゆえに、三淵に私淑する者も多く、小林俊三はこれを北アルプスに喩えて「三淵忠彦山脈」と呼んだ。小林はその中の一人に三淵の「後輩の判事として戦前から傾倒していた」下飯坂潤夫を挙げているが(小林・前掲『私の会った明治の名法曹物語』321頁)、これが、以下で見る三淵忠彦宛書簡の執筆者、その人である。

 2 可憐な心事

 三淵忠彦が最高裁長官に任命されたのが1947(昭和22)年8月4日、その5日後(8月9日)に小田原の三淵邸を訪れ、最高裁事務局・調査官人事に関する一連の意見具申をした人物がいる。のちの最高裁判事・下飯坂潤夫で、かつて予備判事として三淵の部に短期間所属したことはあるが、三宅正太郎、細川潤一郎、井上登、佐々木良一など三淵と「師弟関係」にある判事たちと比べれば、三淵とは遠い距離にいた。しかし、三淵との談論の「魅力に引かれて、折にふれて、先生の豪快にして談論風発の風貌に接したく、足が自然と渋谷の御宅の方に向かった」という(下飯坂潤夫「霜月雑記」『法曹』218号(1968年)9頁)。そのようにして三淵に私淑していた下飯坂は当時、元大審院判事で、直前まで最高裁判所裁判官代行を務めていた(最高裁の始動が昭和22年5月3日の日本国憲法施行に間に合わなかったための臨時的措置)。その下飯坂が、三淵邸訪問時の談話内容に補足を加えた書簡が、三淵邸に残されている(写真1)。長文なので、冒頭の部分から、数部に分けてこれを紹介してみよう(適宜読点を付したほか、〔 〕は稿者による補足を指す)。

写真1 三淵忠彦宛下飯坂潤夫書簡A(昭和22年8月11日)

拝啓、一昨日は御無禮申上候、久々にて御壮盛を拝し欣快至極に奉存上候扨て其の節申上候件につき誠ニ乍無躾さらに補足申述度

先般諮問委員選挙の際元大審院判事にして島〔保〕判事を一致推擧致候面々約十名程の者の最も危惧致候事は細野〔長良〕博士一派の徒党を葬り候ても最高裁判所判事の顔ぶれ如何により新に一門のラインが結成せらるゝに非ずやという点にて候ひき、そのラインは井上〔登〕岩松〔三郎〕ラインとか或は藤田〔八郎〕ラインとかいうものを想定致し候ものと被存候えどもそれはともかくとして最高裁判所事務局或は調査官が一部最高裁判所判事の好みの一線に沿うて編成せられそれが下級裁判所の末端にまで影響するか如き事有りては至極おもしろからずという空気にて候ひき、愚見を申上候えば新発足の裁判所内に何か一線を脱し難き影を生ずれは其の反動として再び由井正雪組の蹶起を促す事と被考候、丁野〔曉春〕根本〔松男〕松尾〔河本(喜与之)の誤りヵ〕などといふ面々の足跡を多少の同情心をもってみれバ或る既成勢力を破砕せんとしたる謀反組に有之、何かしら幻影を見詰め居り一面可憐な心事を有し在りしやからかとも被存候、部内の状勢再び左様なる輩を誘発するの危険無之と断し難く被存候次第に御座候、左様な懸念よりして又衆智を結集し以て裁判及裁判制度に大なる寄与あらしめ度き念願よりして愚生等は最高裁判所の事務局及ひ調査官には色とりどりの人物を以て御充実被成上度きものと存上候次第に御座候

  これは片山内閣期の第2次諮問委員会のときの裁判官互選枠4名の選挙のことを指しているが、最終的には島保、垂水克己、藤田八郎、岩松三郎が選ばれた。その間、細野長良・元大審院長の一派と司法省主流派との間に熾烈な選挙戦が展開されたことは周知の通りであるが、ここでは次の3点を指摘しておきたい。

 第1に、下飯坂が細野派の策動を、葬るべき「徒党」行動として捉えていた点である。実際、例えば裁判所法立案時の司法法制審議会の裁判官メンバーは、すべて細野派で固められ、「当時司法部内に異様な感を与え」た(五鬼上堅磐「最高裁判所の成立前後」『法の支配』18号(1969年)34頁)ほか、後に初代司法研修所長となる前沢忠成の証言に依れば、「新聞で知ったのですが、最高裁判事の候補者十名足らずの顔触れが発表されたことがあり、細野派で決定されたものと察せられましたが、全部同派の大審院判事と東京控訴院判事でした。全国に千二百名の判事がおるのに、全部東京在住のしかも一派の者ばかりとは全く驚き入りました。全国の裁判官をからかったのではないかと思われた程でした」というのが実情であった(「あの人この人訪問記――前沢忠成さん」『法曹』250号(1971年)13頁)。もう一つ例を挙げよう。第2次諮問委員会が30名の候補者を確定した(昭和22年7月28日)後、一人の候補者も残せなかった細野派は、「このうち19名が司法大臣と結託して裁判所を弱体化させるweaken courtことを企図しており、その真の性格は官僚・ファシストであって裁判官ではない(Their real characters are bureaucrats, fascists, and not judges.)」とするメモをGHQに提出している〔GHQ/SCAP, LS-10319-11697〕。この資料をみたダネルスキーは、その内容を次のように伝えた。 

諮問委員会の、30名の被指名者の名簿のさまざまな分析が連合国最高司令官のファイルの中にある。一つは、細野派のだれかの手に成るもののようだが、それは、19人が司法大臣と結託して最高裁判所を弱体化させようと謀ったことを示す図解と称するものである。「大正6年組」――大正6年(1917年)東京帝国大学を卒業したグループ――が「共同謀議」の中心に書かれている。二人の裁判官――井上〔登〕と佐々木〔良一〕――が「最大ボス」と呼ばれ、おのおの「閥」を率いており、子分の名が付記されている。このグループには、ほかに岩田、藤田、島、中島〔登喜治〕、齋藤〔悠輔〕、細川〔潤一郎〕がいる。細川は「元判事、三井財閥顧問」と記されている。これら全員「三井財閥最高顧問」三淵忠彦の弟子と書かれている。この三淵が、内閣によって最高裁判所長官に選ばれたのである。ほかに「共同謀議」の一味には、元裁判官2名霜山と草野〔豹一郎〕、現職裁判官2名森田〔豊次郎〕と垂水〔克己〕行政裁判所長官沢田、弁護士5名庄野〔理一〕、塚崎〔直義〕、長谷川、真野、小谷〔勝重〕がいることになっている(D・J・ダネルスキー/早川武夫訳「最高裁判所の生誕」『法学セミナー増刊 今日の最高裁判所』(日本評論社、1988年)212-213頁)。

 互選に敗れた細野派が、最高裁長官及び最高裁判事の候補者について、GHQに偏った情報をインプットしようとした経緯がよく了解されよう。まさしく「執ようなまでの表、裏面の運動」(畔上英治「裁判所法等制定当時の思い出」『自由と正義』37巻8号(1986年)46頁)、徒党的な人事策動であり、これに対して、司法省内外の人々が反・徒党的人事という一点で結集したのである(それゆえ「細野対抗軍にリーダーなるものなし」(前沢・前掲「あの人この人訪問記」12-18頁)というのが実情であった)。そのことはまた、他方で、「一部最高裁判所判事の好みの一線」に沿った新たな「一門のライン」結成に対する警戒へとつながる。ただし、下飯坂を含む多くの推薦者は、島保判事とともに岩松三郎判事をも推薦していたのであって(内藤頼博『終戦後の司法制度改革の経過(第5分冊)』(1961年)136-137頁。なお、対立する細野派の宮城実の推薦文は、丁野暁春「先人を憶う 宮城実氏のこと」『時の法令』294号(1958年)36-37頁に紹介されている)、とくに島保の非党派性に期待した、という趣旨の下飯坂の叙述は、割り引いて考える必要があるだろう。

 第2に、下飯坂が、そのような徒党的行動が司法部の独立の実現という「一面可憐な心事」に支えられていた、と分析していることである。すなわち、司法の独立を高調する細野派は、司法省による統制に対抗して法廷第一主義を唱える点で、それ自体正当な主張を含んでいた。ただし、これら細野派の大審院判事の間には、「昭和初期頃以来、司法省による官僚的統制に反発し、裁判所自体による司法行政、とくに人事における司法省勤務経験者及び検事の優位的処遇に対する不満がうっ積し、司法省からの完全独立を期する気運が満ちて」おり、かかる「大審院一派の被害者意識とも受取られそうな反司法省感情」が、司法の独立を錦の御旗として先鋭化し、急進的・排他的な表裏の策動を伴う強硬な主張となったことは否めない(畔上・前掲「裁判所法等制定当時の思い出」46-47頁)。先鋭的少数派である自分たちの主張を通すため、GHQが絶対的権力者として君臨している間に、その後ろ盾を得て、最高裁判所以下の枢要ポストを獲得したい、という理念と権勢欲のアマルガムは、細野派の弱さと焦りを示すものでもあるだろう(近藤完爾『民事訴訟法論考〔第3巻〕』(判例タイムズ社、1978年)357頁、小野純一郎「初代最高裁判所長官が決まるまで」『東北学院大学法学政治学研究所紀要』31号(2023年)76-77, 83-89, 115-118頁)。「何かしら幻影を見詰め居り一面可憐な心事を有し在りしやから」という下飯坂の評価は、いわく言い難いニュアンスを含んでいる。

 3 最高裁判所事務(総)局の整備――人事の多様化

 第3に、以上の経緯に照らし、下飯坂は、だからこそ多様な人材の積極的登用が必要だと考えた、という点である。党派的人事を排し、公平な観点からバランスの取れた人事をするために、下飯坂は、具体的に二人の人物の名を挙げ、その簡抜(=抜擢)を進言する。書簡の続きを見てみよう。 

 【三淵忠彦宛下飯坂潤夫書簡B(Aの続き)】

過日の御話に依れば、少壮有為の猛者達を勅任級人事に御簡抜被遊義ニ拝承候、誠ニ結構の事と存上候、乍併、御抜擢に過きられ候ても徒に部内若手を刺戟し好ましからさる空気を産し出すべく想察被致候、此点、愚見として申上度

尚荒くれ男との御構想も至極結構の事と存上候、顧而、此の際、元大審院判事石坂修一、大野璋五などをも御簡抜相成り一部長の席をは與え被下候ては如何のものに候哉と愚按仕候次第ニ御座候、本人ども聊か役不足を申立て候はむも両氏とも淡々として無色透明些かの党派心も無之、又、事務的才能も有之、事務総長〔本間喜一〕殿の補佐役として、又、百般猛者達えの鎮静剤として絶好の人柄かと被存候又右両氏の如き人物を御起用被下候事は事務局の形を整えられ候上においても諸方面ニ快き響を与うべく被考候次第ニて乍失禮御研究願上度人事として特に申上候次第に御座候

愚生は最高裁判所事務局の編制が最近如何様に変化致候哉存じ不申、従て以下述候事は或は現実の豫算面と離れ候迂濶の事も可有之被存候、所詮は思ひ付きの域を出て不申、御笑覧被下候はゞ望外の仕合せに存上可申候、なお横田正俊氏傘下の旧企画部員数名の内の大部分は規則案作成上不可欠の人物かと被考候儘、御採用可然く被存候

私学出身者には一、二の外思ひ付き不申候えども此方面よりの御採否如何は影響至大なるへく被存候間、全国的ニも御物色願上け度きものと存念罷在候

 本記述の背景について付言すれば、1947(昭和22)年8月4日の任命式及び認証式の後、最高裁の裁判官会議が開かれ、三淵は誰にも諮らず、かつての腹心の部下、本間喜一を事務総長に任命することで押し切った。司法省の司法行政担当者を推す声も強かったが、司法大臣顧問としての三淵が鈴木義男司法大臣に宛てた意見書にあるように、最高裁長官と事務総長は一体たるべきことを持論とする三淵にとって、「三淵忠彦山脈」の2,500m級の山とされる本間喜一、「三淵門下でもっとも信頼され、また自分も三淵さんをこの上なく敬愛した」本間喜一を傍らに置くことは、譲れない一線であった(小林・前掲『私の会った明治の名法曹物語』320-321頁。本間の側でも、三淵の名前「忠彦」を自分の長男につけるほど、三淵忠彦を敬愛していた(殿岡晟子「私の父 本間喜一を語る」『オープン・リサーチ・センター年報』5号(2011年)114-115頁))。

 第2に、三淵は20年以上、本間は25年以上前に裁判官を辞しており、近年の裁判所の事情には疎く、息子の三淵乾太郎から一定の情報を得ていたとはいえ(三淵乾太郎「父・三淵忠彦を語る〔3・完〕」『判例時報』341号(1963年)5頁)、当時1200名以上の裁判官人事を適切に行うには限界があった。そのため、実質的には、三淵から抜擢された最高裁秘書課長の内藤頼博、司法省秘書課長の五鬼上堅磐、及び同人事課長の石田和外を中心に、最高裁事務局人事、及び全国の裁判官人事を進めることとなったが(五鬼上堅磐ほか「最高裁判所発足当時を語る(2)」『法曹』189号(1971年)13-15頁)、その一番早い段階で、後に見るような機微に触れる人事情報をもたらしたのが、下飯坂であった。

 第3に、下飯坂は人事リストの作成に際して、党派心なき無色透明性とともに、事務的才能、及び最高裁判所規則立案上の対処能力を重視している。司法省から独立し、新たに司法行政権及び規則制定権を与えられた司法府にとって、この権限を適切に行使するための司法行政機構の整備及び人選は、喫緊の重要課題であった。下飯坂が最も重視した石坂修一・大野璋五は、1895(明治28)年生まれの元大審院判事で、第2次諮問委員会の互選時には下飯坂等とともに島保・藤田八郎らを推薦した同志である。石坂は河合栄治郎の出版法違反事件で気骨の無罪判決を出したことで知られ、のちに名古屋・大阪高裁長官等を経て最高裁判事、大野は広島・東京高裁長官を経て高千穂商科大学学長を務めており、結果としていずれも事務局入りはしなかったものの、下飯坂の目に狂いはなかったと言えよう。

 また、内藤、五鬼上、石田らによって事務局体制の整備が急がれたが、昭和22年度本予算の裁判所経費は甚だ僅少で、追加予算の要求中であったこともあり、昭和22年8月22日の裁判官会議で「最高裁判所事務分掌暫行内規」(7課制)を定め、暫定的に次の7課制が採用されている(カッコ内は前職)。

 人事課長 石田和外(司法省人事課長)
 民事課長 関根小郷(司法省民事局第一課長)
 法務課長 角村克己(東京地方裁判所判事)
 秘書課長 内藤頼博(司法省民事局第三課長)
 刑事課長 岸 盛一(東京地方裁判所判事)
 渉外課長 樋口 勝(司法大臣官房終戦連絡部次長)
 会計課長 吉田 豊(司法省会計課)

 書簡後続部分(後掲C)と見比べるとき、この全てが下飯坂の推薦リスト上に見出され、その推薦理由ともよく符合する。衆目一致する人物も多いが、公平に見て、下飯坂の人物眼には相当なものがあったと言うべきだろう。まもなく、昭和22年12月1日最高裁規程第5号「最高裁判所事務局分課規程」で4部5課制となり、昭和23年には事務局が事務総局に、各部が各局に改められた。その人選は、例えば潮見俊隆編『岩波講座 現代法6 現代の法律家』(岩波書店、1966年)71頁以下〔潮見俊隆執筆〕に詳しいが、7課制時代の主要人事はそのまま引き継がれている。以下、同年8月11日段階で下飯坂が構想した事務局の陣容を見てみよう。赤字(以下書き起こしでは●)は鉛筆で後から書き込まれたものである(写真2)。

写真2 三淵忠彦宛下飯坂潤夫書簡C(Bの続き) 


事務局
1、総務部
  長、石坂修一 或 石田和外
   部員  磯部 靖(文書課長として最適任)
       樋口 勝(《現在終連〔司法大臣官房終戦連絡部〕に在り〔次長〕渉外主任として最適任》)
       ●服部高顯(同上の地位に在り〔司法大臣官房終戦連絡部主務連絡官〕、樋口の補佐役)
       ●新関勝芳(《満洲がえり、重厚の人物、労組係官として絶好と被考候》)
       安村和雄(《東京地民事部在勤温厚穏健、新関と共に情報係を担任せしめ度
長嶋毅氏〔元大審院長〕女婿の由》)
2、人事部
  長、石田和外 或 大野璋五
   部員  中島一郎(《東京 地 民 在勤 中島弘道氏長男の由》)
       ●真野英一(東京 地 刑、俊才の由)
       ●吉澤潤三(《同上、重厚 将来性有り》)
       以上の外二名
3、経理部
  長、関根小郷(《民事局 第一課長 元満洲国官吏 人柄申分無き由》)
   部員 ✕恒田文次(《東京地民、破産係の故(〔古ママ〕)参判事、厚生係主任として最適任》)
       柳川真佐夫(《丁野派の穏健分子東京地民在勤》)
       ●吉田 豊(《永年本省会計課に在り、判事出身、本部に不可欠の人物と思料候》)
       ●満田文彦(《本省会計課嘱託 判事、吉田氏の補佐役たるべき人物》)
       浜口清六郎(《私大出身 頑健 使ヒ走りに絶好、東京地刑在勤》)
4、調査部
  長、赤木暁 或 小澤文雄
   部員
    課長a 小澤文雄 或 村上朝一
        (《村上氏出色の人材なるも聊か弱体、曽つて民事局に在り、東京高裁判事》)
     〃b 川喜多正時
        (《企画部の先任部員 判事出身 事務局整備の為不可欠と思料候》)
     〃c 野木新一 或ハ 土肥三郎
         (《野木氏は刑事局第一課長 土肥氏は元満洲国□□〔司法部理事官、民事司第二課長〕東京地刑在勤》)
     〃d 内藤頼博
   部員(《調査官中より数名本部の部員を兼務致させ度存候》)
   兼務者
       ●尾後貫荘太郎(《英法の第一人者 刑事法》)
       ●坂野英雄(《英法研究者として名あり民事法》)
       ●鈴木忠一
        松田二郎
       ●高田義文(《出色の秀才ノ由 刑事法専門、島氏女婿》)
   専務者
       ●中野次雄(《刑事局事務官俊才ノ由》)
       ●青山義武(《曽テ民事局に在り逸材と思料候》)
       川島二郎(民事局事務官)
       ●脇田 忠(東京地 刑 在勤)
       ●荒川省三(同上)
       ●位野木益雄(調査局事務官)
      外ニ元、企画部員数名
   調査官
       浜田潔夫(《東京高裁民在勤、実務の練達さ其の右に出るもの無之》)
       奥田嘉治(《東京高裁民在勤 温厚実直、俳人として名あり》)
       角村克己(《東京地民在勤 満洲国商法起草者》)
       尾後貫荘太郎(英法(刑事法)に通暁)
       ●岩田 誠(《東京高裁 刑 在勤 元、指導官なりし人》)
       谷本仙一郎(実務堪能、私大出身の逸材)
       松田二郎
       岡咲恕一(《元、秘書課長、この人物不遇ニて気毒に存居候》)
      以上は制度改正の暁直ちに敕任調査官ニ御抜擢可然ものと思料候
       鈴木忠一
       ●山下朝一(丁野派の異色ある人物)
       坂野英雄
       ●近藤完爾
       長谷部茂吉(《我妻氏の高弟にて俊才なりといふ》)
       ●三宅富士郎(東京地刑在勤 人格良)
       □□□  (《元、企画部員 刑事調査官としても適任》)
       岸 盛一
       八田卯一郎(《満洲国に在り、現在大阪地裁在勤》)
       ●長尾 章(《東京地民在勤 論客 所謂さつき組か》)
       高田義文
      或ハ青山義武も可
   研修所
    所長、石坂修一
       大野璋五
       田中治彦(《此方面に経験有り 適任と被考候》)
      の内より御起用相成可然被存候

4 裁判所の理想像を求めて

 この推薦リストは、発足当時の最高裁事務局人事、ひいては裁判所人事一般に関わる機微な内容を含んでいるが、下飯坂が精確な人物鑑識眼を備えていただけに、一層重要である。このリストや推薦理由、その後の各裁判官の履歴を跡づけることは、それ自体大変興味深い作業であるが、ここでは、下飯坂が特に重視したであろう「総務部」人事に着目しつつ、異能の裁判官・横川敏雄の述懐を補助線として、草創期の最高裁及び最高裁事務総局の姿を振り返ってみたい。

 横川は若き頃より、運命・愛・永遠、自由主義・人道主義・民主主義の関係などに惹かれ、人権思想の根底にある「自他の人格の尊厳・尊重を基調とする真の個人主義」に着眼しつつ、ヒューマニズムに基づく法適用・法運用と、それを担う第一線の裁判官の重要性、またそれに奉仕すべき事務局のあり方を問い続けた(横川敏雄『裁判と裁判官』(有斐閣、1973年)220-237頁、同『ジャスティス』(日本評論社、1980年)61, 125, 143-165頁)。その横川が、想像していた以上に理想家肌の三淵忠彦長官と、それ以上に理想家肌の内藤頼博秘書課長について語るとき(横川敏雄『総てをわが心の糧に』(日本評論社、1987年)86-87, 99頁)、法廷第一主義と、それに仕えるべき司法行政が念頭に置かれている。横川は、岸盛一の懇請で最高裁の草創期に事務総局刑事局の二課長をつとめたが(昭和25年8月〜昭和32年7月の7年間)、当時、法廷第一主義は真野毅、小林俊三、栗山茂、藤田八郎らの最高裁判事の立場で、最高裁主流の考え方だったという。裁判官時代の三淵が司法省入りを拒否して法廷一筋に打ち込んだことは上に見たが、その点では細野派とも基本的な立場を共有していた。また、横川が刑事局二課長を務めた当時、最高裁の機構改革問題がクローズアップされ、最高裁判事の大幅増員も唱えられたが、最高裁刑事局は第一審強化こそが重要だとして、最高裁判事のみの安易な増員策には反対の立場を貫いた(横川・前掲『総てをわが心の糧に』83-99頁)。このように、岸と横川は刑事裁判の第一審審理の重要性・特異性を重視する立場を同じくし、集中審理方式を理論化した『事実審理――集中審理と交互尋問の技術』(有斐閣、1960年、新版1983年)も岸と横川の共著であった。

 この岸盛一・横川敏雄と並ぶ「新刑訴派」とされるのが、下飯坂が嘱望した樋口勝で、かの木谷明が「生涯の師」として私淑した人物である(木谷明『刑事裁判の心〔新版〕』(法律文化社、2004年)14-18頁、同『「無罪」を見抜く――裁判官・木谷明の生き方』(岩波書店、2013年)61-64頁)。刑事局長時代の樋口は「事前準備に関する刑事訴訟規則」を立案し、のち、東京地裁で集中審理を実践した。かつて刑事局長時代の岸が集中審理方式を提唱し、それを東京地裁で実践、続いて横川敏雄も東京地裁に戻り同様の試みをしたが、樋口はこれを引き継いだものと言えよう(横川・前掲『総てをわが心の糧に』101-107頁)。

 同じく新関勝芳(1906〜1994)も、満洲国司法部官房参事官として民籍法制定を主導したのち(遠藤正敬「満洲国における身分証明と『日本臣民』」『アジア研究』56巻3号(2010年))、終戦後、東京地裁判事、東京高裁判事等をへて1970年に大阪高裁長官となった人物であるが(ちなみに、1971年の退官後は弁護士登録し、ロッキード事件で田中角栄の弁護団長を務めている)、東京地裁判時代には刑事裁判のあり方に心を砕いた(新関勝芳「わが法廷4-6」『判例時報』139-141号(1958年)、同「訴訟指揮について」『判例時報』56号(1955年)など)。

 この点は、下飯坂が「新関と共に情報係を担任せしめ度」とした安村和雄(1920-1995)も同様で、斉藤寿郎と共に編んだ『判例刑事訴訟法』上・中・下巻は、版を改めつつ長く実務法曹の間で活用された。安村は1935年に司法官試補となり、東京地裁判事、1968年宇都宮地・家裁所長、1970年最高裁首席調査官を経て、1971年10月から東京地裁所長、1973年2月に最高裁事務総長、1974年12月に東京高裁長官に就任した学級肌の裁判官で、その経歴を見る限り、下飯坂の人物鑑識眼は極めて精確であったことが了解されよう。

 『刑事上訴審の研究』(一粒社、1970年)を著した「俊才」真野英一や、後に第一線の刑事裁判官から最高裁入りした岩田誠も含め、ここに、下飯坂が構想した草創期の最高裁事務(総)局の特質の一つが明瞭に浮かび上がってくるだろう。実際、最高裁発足時には、事務総局の人々が、第一線の裁判官を重視した創造・建設の作業をした若々しい情熱があったと、横川は回顧している(横川・前掲『裁判と裁判官』227頁)。いわゆる「裁判所の春」の時代である。

 最後に、書簡の後続部分を掲載しておこう。下飯坂の重視した最高裁判事の「実力」主義人事や、当初、法曹資格が不要とされ2級官への任命資格又は司法試験の合格のみが要件とされた最高裁調査官制度の問題(中野次雄「最高裁判所調査官制度のこと」『法学セミナー増刊 最高裁判所』(日本評論社、1977年)72-73頁)が、よく示されている。実は、ここに出てくる最高裁判事や最高裁長官についての元大審院判事たちの詮議が、三淵忠彦をめぐる下飯坂の「深刻な思い出話」につながるのであるが(「三淵先生は最高裁判所長官になられた途端急激に変って仕舞われ、もはや野にある好々爺ではなくなっておられた。…今迄の三淵先生には到底認めることの出来なかった傲然たるものが認められたのは私だけであったろうか」。下飯坂・前掲「霜月雑記」9-15頁)、ここでは立ち入らない。ただ、「人事をきびしく情実や縁故に捉われず一歩も仮借しない」という三淵の決意が、最高裁誤判事件に際して三淵が示した「峻厳で容赦しない責任感」につながるものであることだけを、指摘しておきたい。

【三淵忠彦宛下飯坂潤夫書簡D(Cの続き)】 

以上小生他日の愚案を申上候ものに有之、差し障りも可有之被存候間、堅く御伏せおき被下度御願申上候、なお、余事に候えとも、舌序、一言申上度事有之、先般元、大審院判事約十名参集し最高裁判所判事として現職判事中如何なる人物を適当とするやを論議し島諮問委員に其の推挙方を願出候事有之候、其の節、刑事部判事側より宮城実、吉田常次郎二氏を是非共推擧致し度き旨の強硬なる申出有之、民事側より種々異論も有之候も結局両氏の実力、人気等よりして可然事として一同同調致候次第ニ御座候尤も後に告発事件勃発し宮城氏推輓の事は立消えと相成り候、其の節、一座を支配致し候空気を端的に申上候えば、判事の評価は先以実力(判決を手際よく書くという事にて候)に拠るべしという議論が圧倒的にて候ひき判事のよしあしが判決文を巧に書くという点にのみ可有に非さる事は申す迄も無之、人品人格(島諮問委員は特に此の点を重視せられ在り候)固より大事の事と被存候えとも、永年実務の第一線に在るものにとりては判決文をよくし得ぬ判事には軽侮の念禁じ得ぬものの如くて判決の作成にのみ苦労し能ハサルものには夫れも無理からぬ考え方と被存候、此の度の判事選擧においては人格主義が勝を制し候ものの如く之に依って我々元大審院判事の考が僅なりとも被考、反省を余儀なくせられ在り候えども、愚観するに全国千名に余る判事の風上たる多数分子はやハり仕事の出来る判事に傾倒し在るものと被存候、最高裁判所は当局が此後人事を押し進められ候上において右の点、特に御留意を賜り度きものと念願罷在り、もし人品人格にのみ御着眼相成り御抜擢等事有之候ては、全国多数判事の士気を阻喪せしめ影響する所甚大なるべく愚考仕候次第に御座候

なお以上の外申上度き事は山々有之、又特に莭操なき日和見主義者達に対する愚見なども御聴取願上け度、又、先般、我々より島諮問委員に提供致候意見書の事より井上〔登〕さんの立腹を買い我々数名ひどく叱り飛ばされ候挿話なども有之候も何れ機会をいたゞき候て相尋□□□申上度存居候、

小生事此の度 郷里に初孫を得候為め初対面を致し度、二、三日中に帰省、四、五日滞留の上、帰宅の心算ニ御座候、其の上にて又御邪魔申上度存念罷在候

残暑愈々きびしく相成候折柄 御老体御無理被下間敷く御大事の上にも御大事に被遊候ように奉祈念候


乍末筆、御奥様、乾太郎様えもよろしく御鳳聲の程奉希上候
乱筆粗墨にて恐入申候、御判読を賜り度御願申上候
      一書拝具
        潤夫 拝
  八月十一日
 三淵先生
   高台

追白、

伝聞に候えども、在野法曹は二級調査官に不安を感じ居る由に御座候、尤もの次第と存候、調査官を二級官にとじめ候事が元々無理に御座候、丁野藤江などという愚かなる輩が調査官裁判に成るとかいう理論に捉はれ品よからぬ含みを以て考案致候事に有之候 此の際至急法律改正方の御手当可然被存候、然らば全国に散在する有能の所長及判事を調査官として網羅し得へく被考、人事の御取扱におゆとりをも生すべく被存候

なお調査官の数も不足にて最高裁判所のみにても最少三十名は必要かと被考候、最初の案が夫れにて判事一人に一人の秘・(補入点ノミアリテ字ナシ。当補書。)官役たる調査官を専属せしむべき仕組なりしやに記憶致居候

           以上  

 

※書簡の発掘及び翻刻に際しては、三淵忠彦関係文書研究会の皆様、とりわけ本橋由紀氏(三淵忠彦曽孫)、及び出口雄一氏(慶應義塾大学)から極めて有益なご教示を受けた。また翻刻面では九州大学の同僚の山口道弘氏の詳細なご教示に与った。改めて厚く御礼申し上げたい。もちろん、ありうべき翻刻の過誤等は、すべて筆者の責任である。

※本稿で用いた三淵忠彦関係文書(整理中)は、「三淵邸・甘柑荘保存会」の所蔵である。

 

 

 

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