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〈特別公開〉テレビ業界 ふたつの権力(北出真紀恵)

『世界』2025年4月号収録の記事を特別公開します。


 

 二〇二四年末の週刊誌報道に始まった元タレント・中居正広氏、そしてフジテレビをめぐる大騒動は未だ収束の兆しを見せていない。スポンサー企業のCM出稿見合わせが相次ぐなか、中居氏は芸能界を引退、フジテレビの社長・会長は辞任を表明した。

 週刊誌報道では、女性に対する人権侵害の可能性―性暴力があったのではないか、そしてその過程でフジテレビ社員(編成局幹部)が関与していたのではないかとの疑いがもたれている。中居氏と被害に遭った女性との間では守秘義務を課す示談が成立し、詳しくは公表されていないが、問題を知りつつ、組織が何の対応もしてこなかったことは「人権意識の欠如」「ガバナンス不全」が批判されて当然である。

 被害者が問題を報告し、救済を求めていたにもかかわらず、上層部は「プライバシー保護」のためとしてコンプライアンス部門とも共有せず、中居氏の番組は放送され続けた。そのことで、被害者にどれほどの苦痛がもたらされただろう。ここまでテレビ業界が性暴力に鈍感な背景に、業界が(年配の)男性中心社会であることが挙げられる。

 この問題はテレビ業界特有のいびつな権力構造のもとで起こっている。なぜ、女性社員はタレントとそのような問題に巻き込まれ、幹部社員の関わりが取り沙汰されているのか。なぜ、女性社員の意思は一連のプロセスのなかで顧みられなかったのか。それらは、テレビ業界が芸能界に近いという単純な理由では説明できない。

 なお、今回の問題について、 〝女性トラブル〟との報道にも示されるように「個人間のトラブル」とフジテレビ上層部はとらえていたようだが、そうではない。女性は一社員として、所属する組織内の権力構造のもとで組織の秩序を守るよう、暗黙の強いプレッシャーに晒され続け、その結果、今回の事態が起きたと考えられる。

 本稿では、まずテレビ局内部で進行した番組制作をめぐる体制の変化について、「編成主導」と「視聴率至上主義」をキーワードに考察する。テレビ制作の現場において、編成局とタレントに巨大な権力が集中している状況を説明することから議論を始めたい。

「超編成主導体制」へ

 「編成主導」という言葉は、テレビ局内の制作現場において「どのような番組を制作するか」の舵取りの場における「編成」と「制作」の力関係を物語る。

 この「編成主導体制」は一九八〇年代に入ってから登場し、放送産業、とりわけ民間放送事業者が「視聴率至上主義」すなわち商業主義へと舵を切る決定的な仕組みとして機能してきた。

 テレビ制作で最も強い権限をもつのはプロデューサーやディレクターといった制作者をイメージしがちだが、筆者らは現場の制作者たちに対するインタビュー調査を通して、「編成」が強いから「制作」が萎縮する、という文脈で、何度もこの「編成主導」という言葉と出会うことになった。

 まずはこの「編成主導体制」について、松井英光(二〇二〇)に依拠しつつ、説明してみたい。この「編成主導体制」とは「テレビ局内部でも現状を批判的に語る際のキーワード」であり、それは「重要なテレビメディアを動かしているシステム」である一方で、「現行体制の否定にもなるため、声高に語られることはまずない」ものだ(1)

 現在、テレビ局において番組存続の決定権を握っているのは「編成」局である。「編成」局とは番組のタイムテーブルを決定するいわばテレビの司令塔的な部署なのだが、テレビ局の組織構造は、制作局が編成局に吸収される組織体制へと移行してきた。「視聴率至上主義」ともいうべき視聴率の獲得を判断基準とする「編成」がテレビ局内で力を持つ組織体制のことを、テレビ業界では「編成主導型」あるいは「編成主導体制」と呼んでいる(2)

 「編成主導体制」の先鞭をつけたのは一九八〇年代のフジテレビであった(ちなみに八〇年代のフジテレビの編成局を率いたのは、現在のフジ・メディアHDおよびフジテレビ取締役相談役の日枝久氏である。制作会社スタッフの社員化や女性アナウンサーの社員化など、次々と社内改革を実行し、八〇年代におけるフジテレビの黄金時代を築くこととなった)。

 それは制作部門を編成部門に統合したいわば「大編成局」を創設し、機能性の高い中央集権的な番組体制を形成するものであって、この時期のフジテレビでは、編成サイドがグランドデザインの提示をするが、個々の番組制作に関しては「つくり手」(プロデューサー・ディレクター)の「自律性」は確保されているものであった(3)。こうしてフジテレビによって導入された「編成主導体制」はそれまで停滞していた制作現場を復興させた新しいシステムとして注目されることとなる(4)

 民間放送事業者にとって、視聴率の数値はダイレクトに収入に結び付く。広告収入にはタイムセールスとスポットセールスがあり、広告収入の多くを占めるスポットセールスは視聴率によって料金が決まる仕組みである。テレビ局にとって視聴率はイコール収入である。

 一九九〇年代に入り、視聴率競争の覇者はフジテレビから日本テレビに替わる。日本テレビはフジテレビの組織改革を模倣し、自らの組織も「編成主導体制」に移行させ、視聴率獲得に特化した「編成主導」の「中央集権的」「官僚的」な体制を構築した。この日本テレビの体制はマーケティング理論に基づく手法を取り入れた個々の番組の「視聴率評価」に特化した、いうならば「ミクロな編成」(一秒ごとのマーケティング)であった(5)

 こうした「編成主導体制」は二〇一〇年以降、編成部門が以前よりさらに強力な決定権を持つ「超編成主導型モデル」となってきており、今や民放キー局はそろってこの体制であるという。その結果何が起こっているかというと、「編成主導による『最大公約数』的な企画やキャスティングが横行」することで特定の有名タレントに出演依頼が集中することになり、「同じような出演者、似たような番組」といった多様性に欠けた番組編成状況となっている(6)。一方、「タレント」ありきの番組企画は、多くの場合、制作者たちの創造力を抑え込むことになり、現場のモチベーションを低下させている。

 「編成主導」によって「数字を取るタレント」や「数字を取る企画」が並べられ、瞬間の数字を取ることに一喜一憂する「視聴率至上主義」という〝病〟は、こうしてテレビ制作の現場に蔓延しているというわけだ。

「雲の上の存在」―視聴率をもつタレント

 二〇二三年に英国BBCがドキュメンタリーを放映したことで改めて明るみに出たジャニーズ性加害問題においては、芸能事務所に忖度した「メディアの沈黙」が激しく批判された。

 「編成主導体制」による「視聴率至上主義」と並行して進行したのがタレントおよび芸能事務所の権力の肥大化である。〝病〟の蔓延は、一方でタレント・芸能事務所とテレビ局との権力関係が、いびつで不均衡なものとなって立ちあらわれている。

 知られるようにテレビ制作の現場は「多重下請け構造」になっているのだが、最も上位にいるテレビ局がお伺いを立てて発注しなければならないところにタレントが君臨する構図になる。

 タレントという職業はテレビメディアが創出し、育ててきた職業である。芸能人はテレビに出演することによって視聴者に広く知られ、有名性を獲得し、タレントと呼ばれるようになった。テレビメディアの発展とともにタレントは国民的スターとしてつくりあげられてきたのであり、中居氏はまさにそういった国民的スターの一人であった。彼らは視聴者にとっては親しみやすい存在だが、制作現場においては「雲の上の存在」(7)として祭り上げられる。

 近年、松本人志氏による性加害疑惑をはじめ、芸能人による性暴力報道が相次いでいるが、それらはすべて強者による弱者に対する性的搾取にほかならない。権力構造の頂点に君臨する者には、相手の「同意」が必要なことなど考えも及ばない。

 このように制作現場における権力のありかを眺めてみると、テレビ局内部においては編成幹部という上役の存在や、組織が崇め奉る有名タレントとの関係はこのいびつな権力関係にあり、この二者は、組織の構成員にとっては今後のキャリアを左右しかねない、非常に気を遣うものである。

〝商品〟にされる痛み

 フジテレビ問題を皮切りに、業界全体の性暴力を軽んじる風土に対しても激しい批判の声があがっている。こちらもまた、テレビ業界に蔓延する深刻な〝病〟である。

テレビ業界における性暴力で最も象徴的なのは、女性アナウンサーをタレントのように扱う〝女子アナブーム〟であろう。このブームは一九八〇年代後半に登場して以降、テレビ局が若い女性アナウンサーを自社の都合のよい「タレント」として使ってきたもので、週刊誌メディアなどとの共犯関係のなかで〝女子アナ〟を商品化し続けてきた。

 馬場伸彦(二〇一二) は、ある語が風俗的現象としてメディアをにぎわせているときには、しばしば語義を逸脱して隠喩的な意味づけがなされると指摘している。「ある現象は常に文化的・社会的な意味の体系によって構成され、理解される」。馬場はかつてブームとなった女子高生や女子大生を例にとって、それらは「他者である男性が記号として意味づけた身勝手な幻想」であり、「商品として流通」したと述べている(8)。その文脈で換言するならば、〝女子アナ〟もまた男性の「身勝手な幻想」が付与された「男性にとって都合のいい隠喩」的な意味づけがなされた「記号」に他ならないといえよう。

 そもそも女性アナウンサーたちはテレビ局という組織の会社員で、社命を受けて会社のために〝女子アナ〟の役割を演じている。ニュースキャスターとして報道番組でアンカーを務める女性アナウンサーのことを〝女子アナ〟とは呼ばないように、〝女子アナ〟とは、情報番組やバラエティ番組の控えめな司会進行役や著名タレントのアシスタントとして重宝される存在をいう。つまり、〝女子アナ〟とは、画面に出てはいるのだが、決して出しゃばらず、共演者に気を遣い、時にはメイン司会者のフォローもし、そして、テレビ局として伝えなければならない情報を伝える役どころであり、番組に〝彩り〟を添える役割さえ担う。これほど古典的にジェンダー化された職業があるだろうか。問題は、〝女子アナ〟が果たすアシスタント的な役割は番組進行上不可欠なものであるにもかかわらず、その業務に必要な技能が軽視される点にある。ことさら容姿が注目される〝女子アナ〟業務は、代替性が高いかのように考えられているのだ(9)

 彼女たちは、〝商品〟のように陳列され、「取り換え可能」であるというまなざしを浴び、起用される機会をひたすら待ち、ひとたび選ばれると好意をもたれ続けなければならず、笑みを絶やすことがないよう期待される。彼女たちは常に露骨な、同時に柔らかな性暴力にさらされ、自分の本当の声を発することなどできないのである。

 この〝商品〟を値踏みしているのは一体誰か。私たちは彼女たちの痛みを理解しようとしてきただろうか。彼女たちの声にならない声を聴こうとしてきただろうか。

 最近のことだが、BPO(放送倫理・番組向上機構)で審議された「ローカル深夜番組女性出演者からの申立て」(二〇二三年七月一八日通知・公表)は、ローカル局の深夜バラエティ番組に出演していた女性フリーアナウンサーが、番組内で他の出演者(ベテラン芸能タレントを含む)から度重なる性的な言動を受けていたことに対して人権侵害の救済を申し立てたものであった。

 テレビ局側はこうした性的な言動が「本人が望まない」ことにまったく気がついておらず、放送人権委員会内では非常に悪質だという意見があったものの、「表現の自由」に鑑みた総合的な判断として「人権侵害は認められず、放送倫理上も問題があったとまでは言えない」とされた。女性フリーアナウンサーは長年にわたってテレビ局に苦痛を訴えてきたが、彼女の声は届かなかった。フジテレビの事例でも女性社員の声は届かず、置き去りにされた。

なぜアップデートできないのか

 性暴力は言うまでもなく人権を侵害する行為である。そして、それが非対称な権力関係のもとで起きる点が重要である。現在、フジテレビ以外のテレビ局でも不適切な食事会や接待がなかったかの調査が続いている。

 二〇一七年のハリウッドに始まる#MeToo運動は、セクシュアル・ハラスメントを性暴力としてとらえ、「個人間のトラブル」から「組織の構造的な問題」へととらえ返す契機となり、世界的に大きなうねりを見せることになった。また、二〇二三年のジャニーズ性加害問題では、長年にわたる人権の侵害に対して沈黙してきたテレビ業界も大きな批判を浴びた。これらの問題は、性暴力を見逃し、沈黙することも、看過できない人権侵害であるということを世に知らしめることになった。

 二〇二〇年代以降、性暴力をめぐる社会の価値観は大きく変化している。にもかかわらず、テレビ業界では若手女性社員や若手外注スタッフに対する性暴力はあとを絶たず、軽視され続けている。こうした問題の背景には、述べてきたとおりテレビ業界内部のジェンダー不平等がある。フジテレビ記者会見の場に立った経営陣の姿が象徴するように、意思決定層の多様化ができていないことで時代遅れの価値観や感覚から抜け出せずにいるとして、女性役員の比率を三割にすることを求める署名活動が始まっている。

 他方、ここまで性暴力が問題化されてきたにもかかわらず、被害者に対するバッシングもあとを絶たない。とくにインターネット空間ではオンライン・ハラスメントといえる女性に対する攻撃が執拗になされ、「デジタル性暴力」が渦巻いている。考えてみれば、 〝女子アナ〟を消費することも、会食に同行させられることで感じるちょっとした違和感も、それらはすべて私たちの身近にある柔らかな性暴力ではないか。

 テレビは性暴力を報じる一方で、自分たちの内部の問題に対してあまりにも鈍感であった。もしも誰かを踏みつけにしていることに気がついたら、その足をどかすことから始めてほしい。声にならない声に耳を澄ませ、その痛みを理解してほしい。それらは、私たちの社会が性暴力に向きあうための第一歩である。

 

 

(1)松井英光『新テレビ学講義――もっと面白くするための理論と実践』(河出書房新社 2020年)17頁。

(2)北出真紀恵・国広陽子「制作会社の誕生と展開――テレビ制作の現場で」林香里・四方由美・北出真紀恵編『テレビ番組制作会社のリアリティ』(大月書店 2022年)37-82頁参照。

(3)松井・前掲書 213-257頁。

(4)ちなみにアナウンサーを管理するアナウンス部・アナウンス室といった部署は多くのテレビ局の組織図において、編成局(あるいはコンテンツ戦略局)の下部に置かれている。

(5)松井・前掲書 260-311頁。

(6)松井・前掲書 354-368頁。

(7)石山玲子・花野泰子「制作現場の日常風景」林・四方・北出編前掲書92-94頁。ADのあやかさんは芸能人のメイン司会者は「雲の上の人」と述べている。 

(8)馬場伸彦・池田太臣編著『「女子」の時代!』(青弓社 2012年)9-16頁。

(9)北出真紀恵「女性アナウンサーの八〇年代――『アナウンサーらしさ』の改革のあとで」『東海学園 言語・文学・文化』第14号 (2015年)9-18頁参照。

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著者略歴

  1. 北出 真紀恵

    東海学園大学人文学部教授、元フリーアナウンサー。著書に『「声」とメディアの社会学』、共著に『ジェンダーで学ぶメディア論』ほか。

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