WEB世界

雑誌『世界』のWebマガジン

MENU

怒っているのだ

 袴田さんと同じ浜松出身である筆者は、ボクシングにも精通している記者の方の紹介で昨年春にお宅にお邪魔をして、将棋を数局指すことになった。
 袴田さんが大の将棋ファンと聞きこのチャンスを逃してなるものかと思ったのだ。
 当日、ご本人にお会いすることはできたのだが、数日前に起きたちょっとしたことで袴田さんのご機嫌がいまいちとなり対局はかなわなかった。
 しかし、「これはいかがですか」とそれほど難しくない詰将棋を出題したところ、「馬鹿にするな」という感じで一瞬で正解され、さすがと感心した。
 
 また袴田さん本人とお姉さん、ともにとても元気な様子だったのが嬉しかったものだ。
 
 昨年秋に有楽町で行われた支援集会では、プロボクシング団体の方々や国際人権団体の方々など実に多方面の様々な人間が袴田さんの無罪を信じ、支えようとの気概にあふれているのを見て、「これは大丈夫」と安心した。
 
 
輪をかけた悪手
 
 それだけに、今回の決定にははらわたが煮えくり返る思いである。
 DNA鑑定については正直よくわからない。
 あるいは、このことのみにおいては検察の言うことが正しいのかもしれない。
 しかし、おかしな点はそれだけではない。
 約50年前に行われた、一日平均12時間最高17時間という、拷問に近い、いや拷問そのものといえる炎天下での取り調べ。
 一年後に偶然見つかったとかの、袴田さんがどうやっても着ようのない、犯行時着用とされるサイズの小さなパジャマ。
 さらに、そのズボンに書かれた“B”の表示はサイズを表すと言い張り、製造業者の方がそれは色だと証言しても自らの主張を押し通したことなどなど——。
 警察と検察が積み上げた証拠がまるで出鱈目と言うことは、誰の目にも明らかなのに……。
 
 それらを無視して東京高裁は再審を認めなかった。
 警察、検察が悪手に悪手を重ねてきたことを、遅すぎるけれど正すチャンスを投げ捨てたわけであるから、さらに輪をかけた悪手といえよう。
 
 それでも袴田さんを再収監しなかったのは、自分の決定に後ろめたい気持ちのあることを示す証拠と言えよう。
 検察、裁判所の考えていることなど手に取るように分かる。
 この後、最高裁で仮に再審が認められたとしても、そこに至るまでには何年もの歳月を費やす。
 再審が始まって無罪判決が出たとしても、それにも数年。
 無罪判決に控訴すれば、またそこから数年。
 それに負けてもさらに上告すれば、それにも数年。
 この年月の間には袴田さんもお姉さんも、いつまでも元気というわけにはいくまい。
 時間とともに事件も徐々に風化。
 最後の最高裁でどんな判決が出たとしても、自分がその場にいなければ関係がない。
 
 筆者が将棋のプロだからこうした成り行きが読めると言うことではない。
 このくらいの読みは、普通の頭があれば、誰にでもできることだろう。
 この国では、自分が責任を取りさえしなければそれでいいという連中が、権力者面をして高給をとっているのだ。
 
*     *     *
 
 最後に少々物騒なことを書く。
 高裁決定を聞いた後、心に決めたことがある。
 それは、今後警察、検察、裁判所からどんなことを頼まれても絶対に協力はしないということ。
 仮に重大事件の解決に関することだとしてもだ。
 細かいことだが、運転免許の更新時に頼まれる交通安全協会への寄付も、これからは死ぬまでしない。
 袴田さんを50年苦しめ、今もそれを続けている奴らへの、小さな小さな抵抗である。
 このようなことは正しくないかもしれない。
 筆者は悪人になるのかもしれない。
 しかし決めた。
 そのくらい怒っているのだ。

著者略歴

  1. 神谷広志

    棋士。1961年静岡県浜松市生まれ。

閉じる