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万博は実験のためにある 大阪・関西万博の建築を考える(市川紘司)

『世界』2025年10月号の記事を特別公開いたします。


「意外とよかった」万博

 大阪・関西万博が四月一三日に開幕してから、本稿を書いている時点で、すでに四カ月が経った。今回の万博では、事業費の妥当性、カジノをふくむ統合型リゾート(IR)開発のからむ跡地利用計画、メタンガスの発生、さらにはそもそも日本でいま万博を開催する大義があるのか……等々の点に対して、さまざまな批判や疑問が投げかけられてきた。開幕したのちも、実験的なトイレが使いづらいとか、ユスリカが大量発生したとか、話題には事欠かない。パビリオン工事費の未払い問題なども気になるところだ。

 しかし着実に好意的な感想も増えている。来場者数も堅調に伸びているようである。

 建築界における評判も同様に変化した。開幕前は東京オリンピックに比べても注目度は低く、無関心さらには批判的な意見が多かった印象がある。しかし開幕後しばらく経つと「行ってみたら意外とよかった」という声をよく聞くようになっている。

建築としての万博

 肯定的な評判が建築界で増えてきたのは、ある意味では当然で、それは今回の万博では建築の存在感がとても強いからだ。

 会場デザインプロデューサーの建築家・藤本壮介が構想した「世界最大の木造建築物」である大屋根リング(前頁写真)は、来場者の動線空間や日除け、展望台といった実質的な機能を超えて、今回の万博そのもののシンボルでありメインビジュアルとなっている。ほかにも、催事場や迎賓館といった基幹施設から、世界各国のパビリオン、落合陽一や宮田裕章ら八名のテーマ事業プロデューサーによるシグネチャーパビリオンまで、伊東豊雄やSANAA(サナア)、隈研吾、ノーマン・フォスターといったトップ建築家が個性的なデザインを手がけた。さらには、会場各地に散らばるトイレや休憩所などの小さな共用施設では、公募型プロポーザルで選ばれた若手建築家二〇組が活躍している。

 開幕前には海外パビリオンを中心に工事遅延も懸念されていたが、最終的には大過なく完成した。日本の建設業の力を改めて示したと言ってよい。

 建築の存在感が強い、ということは、裏を返せば、建築以外のコンテンツの印象が弱い、ということでもある。筆者は建築史・建築論が専門なのでバイアスがかかっているのは承知だが、じっさい展示の多くは映像がメインなので、「いまここ」で絶対に見なければ――という意識にさせる強度は限定的だ。くわえて、すでに口コミでもたいへん不評な予約システムの煩雑さもあり(本当に使いづらい!)、そもそもパビリオンの展示空間内に入ることがむずかしい。「並ばない万博」というスローガンが掲げられた今回の万博であるが、実態はむちゃくちゃ「並ぶ万博」である。

 こうした展示と予約システムの事情もあり、会場現地に行けばともかく外観のデザインを楽しめる建築は自然と存在感を増すことになるのだ。アートの展示もあるにはあるが、残念ながら印象は薄い。

 時間の制約もあり、筆者もあまり多くの展示を見られていないことは正直に告白しておかねばならない。その限定のなかで印象的だった展示を挙げるならば、開発と自然、都市とカントリーサイドの緊張関係を空間的に体感させるカタール館(設計:隈研吾、展示デザイン:AMO、図1)、伝統文化と自然の美しさ、そしてそれらと調和するスマートな現代都市の生活を非常に洗練されたプロパガンダ的映像群で表現した中国館(設計:崔愷)などである。

図1 カタール館(以下、撮影すべて著者)

原初的かつ未来的――大屋根リングがすごい

 万博建築の主役は、とにもかくにも大屋根リングである。外周二キロメートル、高さ二〇メートルというその規模は、建築というよりも土木インフラに近い。内部空間もない。だが、木(集成材)の「貫接合」による柱と梁は、土木的な鉄筋コンクリートや鉄骨に比べればはるかに人間的な寸法感覚で、やはりあくまでも「建築」というべきものに思えるのが興味深い。ここに木そのままのテクスチャーがくわわることで、国家祝祭のモニュメントらしい超人間的な巨大さでありつつも、ソフトで身体的でもあるという、独特な空間体験が生まれている。会場散策に疲れた人が柱に寄りかかって休んでいる場面に何度も遭遇した。こうした場面は土木インフラではそう見られるものではない。

 大屋根リングを設計したのは藤本壮介。国内外で多くの作品を実現させている近年大活躍中の建築家だ。藤本の建築思想としては、キャリア初期に掲げた「プリミティブ・フューチャー」という言葉がよく知られる。「原初的」であり「未来的」でもあること。藤本はそのような両義的な建築を目指す建築家である。大断面の木角材をシンプルに組み上げる構成でありながら、それをギョッとするほど巨大化することで「見たことのない光景」を生み出す大屋根リングは、とても藤本らしい建築表現と言える。

 「円」というかたちは図形としては単純明快だ。しかし屋根の下では柱の落ち方が、そして屋根の上では地形のようになだらかに床面が変化することで、じっさいの体験としては、意外なほどに多様性に富む。

 会場を訪れたら、まずは「スカイウォーク」と呼ばれる大屋根のうえに登るのがよいだろう(図2)。周囲の山々とともに会場中心部が一望できるのだが、ひしめくパビリオンはそれぞれデザインが個性的であるいっぽう、リングを基準に高さ制限が敷かれたため、統一感と多様性の絶妙にバランスしたスカイラインが楽しめる。それはヨーロッパの歴史都市を塔の上から見下ろすような眼の快楽だ。筆者が訪れた日には、このスカイウォークを使って、盆踊り大会がおこなわれていた。夕暮れ時、数千もの人びとが空中で輪になって盆踊りに興じる。その様子はなかなか現実離れしていた。一九七〇年の大阪万博では中核施設に「お祭り広場」があったが、こちらは「お祭りリング」である。

図2 大屋根リング・スカイウォーク

  「貫」の歴史的木造建造物としては、奈良の東大寺南大門がよく知られている。じっさい、柱と梁が力強く組み上げられる構造表現には、通底するところがある。

 ただ、空間体験のレベルで筆者が想起したのは、隈研吾らが東京オリンピックのために設計した新国立競技場だ。もちろん専門的には、木ルーバーを装飾的に貼る「新国立」と集成材を構造材としてもちいる「大屋根」とでは、位置づけがまったく異なる。しかし、高揚する国家祝祭の舞台装置でありながら木の素朴な質感が前面に出るという、その「非日常性」と「日常性」の独特なバランスは通底するように思うのだ。

会場デザインの象徴性といびつさ

 大屋根リングは出色の出来である。「いのち輝く未来社会のデザイン」という、率直に言って曖昧模糊としたものに過ぎなかった大阪・関西万博のテーマに、目に見えるかたちで説得力を与えることに成功した。

 とはいえ、会場全体のマスタープランからは気になるところもある。たとえば、リングは会場全体を囲っているわけではないので、リングの外に遠く弾かれたことで著しく存在感の薄いエリア(西側など)が生まれている。この点は「円」という図形の象徴性とのトレードオフの関係にあるが、ややいびつな会場構成と言わざるを得ない。サイズ感などを調整することで、もう少しバランスをとることはできなかったか。

 個人的にもっとも引っかかったのは、参加国がナショナルデーのパフォーマンスをおこなう催事場(EXPOナショナルデーホール)の位置だ。

 ナショナルデーは各国の晴れ舞台であり、ホスト国としては客人である参加各国に礼を尽くす意味でも主役級に設えるべきだろう。しかし、やはりリング外の会場の隅っこに追いやられた格好になっている。この配置は、海側から見たらよく目立つ場所ではあり、じっさい建築ファサードもそちらに向いている。だが、観客は地下鉄か車で来るのであって海から来るわけではなく、不自然な建ちかたに思えた。大屋根リングから向かった筆者の体験ベースでは、メインステージがほとんど裏路地の突き当たりにあるような印象で、フォーマルな祝祭性がかなり乏しいのである。ベタではあるが、やはり、一九七〇年の大阪万博(お祭り広場)や直近のドバイ万博(アル・ワスル・プラザ)のように会場中枢に舞台空間を設けたほうが、観客と参加国という二種類の「客」にとっては相応しかったのではないか。

 興味深いのは、代わりに会場の中心に用意されたのが、「静けさの森」と呼ばれる一五〇〇本以上の樹木の植えられた森林空間であることだ。

 リングで囲い、中心に森林をつくる。こうした配置計画は、「多様でありながら、ひとつ」「自然と調和しながら共生する社会」という藤本による会場デザインの理念の表現そのものにほかならない。なるほど、この理念にもとづけば、参加各国が国家と民族を象徴するパフォーマンスを繰り広げる舞台を会場中心に置くのは適切ではなさそうだ。人類全体の共通基盤である「自然」の象徴としての森林こそが、ど真ん中に置かれるべきなのだ。

 藤本と忽那裕樹らのランドスケープデザインによる「静けさの森」は、古くからそこにあるようなナチュラルな環境が醸成されており、足元から周囲まで人工物に囲われている万博会場のなかでとくに居心地のよい場所をつくり出していた。個人的には、この森と連続する樹木群と重ね合わせるようにカラフルな構築物をすっくと高く立ち上げた休憩所3(設計:山田紗子、図3)は、「スタンドアローン」になりがちな万博施設のなかで周辺環境とのなだらかな連続性をつくり出している点で特筆しておきたい作品である。

図3 休憩所3

ジョン・レノンのような建築家

 ただ、会場デザインの理念はどうあれ、万博とは本質的に「国家」を単位とし、それらが集まることで開催されるイベントである。歴史的には、列強諸国が帝国主義や植民地主義で簒奪した人とモノを展示する「ディスプレイ」でもあった(吉見俊哉『博覧会の政治学』)。また「国民国家」という近代的な価値観は、まさに現在進行形で、シリアスな事態を引き起こす原因ともなっている。万博がそうした価値観をベースにし、基本的にはそれを追認(強調?)するイベントであるという点は、冷静に押さえておきたい。

 藤本もこうした万博の根幹にかかわる問題について、「万博は時代遅れだという指摘もありますが」と自覚的であることは表明しつつ、しかしこのように述べている。「分断が叫ばれる中、アメリカも中国もイスラエルもパレスチナもここで半年間を共に過ごす。そんなイベントは他にはない。だからこそ、世界はひとつになれるというメッセージを発信することに意味があるんです」(『Casa BRUTUS』二〇二五年六月号)

 理念としてはよく分かる。そうだったらいいなとも思う。しかし現実に、万博会場に一堂に会したからといってイスラエルによるガザ地区へのジェノサイドが止まるわけではないし、米中対立が緩和されるわけでもない。ちなみにイスラエルとパレスチナはそれぞれ別の「コモンズ館」で展示しているが、万博公式ガイドブックではそれぞれの首都を「エルサレム」「東エルサレム」としつつ、補注に「これらの記載は、ホスト国の認識や法的立場を示すものではない」と記すのみで、現状追認の姿勢を表明するのみである。より身近な例で言えば、台湾(中華民国)は国家としての参加はなく、玉山デジタルテックによる民間企業パビリオン(「TECH WORLD」)の体裁で出展している。国際社会における「ひとつの中国」問題を追認するかたちだ。なお一九七〇年の大阪万博では、ぎゃくに国連未加盟だった中華人民共和国のほうが参加できていない。

 むろん、あまりに深刻な国際問題を万博の会場デザインプロデュース業によって解決することなど、どだい無理な話ではある。「世界はひとつ」的なメッセージを込めるくらいが、建築にはちょうどよいのかもしれない。しかしそれでも、そのようなふわふわとした一体感の空間演出が、現実には深刻な分断を生じさせている世界の現状を見えづらくする心地のよいヴェールになってしまうことを、筆者は懸念してしまう。揚げ足をとるつもりはないのだが、藤本のコメント中に、近年最大の国際問題のひとつの当事国であるロシアとウクライナが挙がっていないことには、違和感というか限界を感じずにはいられない。今回の万博ではウクライナが出展するいっぽうで、ロシアは参加を見送った。「ひとつの世界」にロシアはふくまれない……?

 建築評論家の五十嵐太郎は、藤本のコンセプトについて、国境のない世界を夢見たジョン・レノンのようだと評している(「新しい才能が見出される場としての万博」『TECTURE MAG』)。筆者も同感で、言い換えれば、藤本が体現する建築家像とは知識人や思想家というよりは、もっとポピュラーなミュージシャンに近いものなのだ。知識人の真価は言葉と思想の強度によって測られる。しかしミュージシャンの真価は楽曲で示されるのであって、そこに込められたメッセージの内容は二次的なものに過ぎない。

 むしろこう言うべきなのだ。「多様でありながら、ひとつ」といったエモいメッセージを衒いなく打ち出せる点が、「知識人モデル」ではない藤本の建築家としての強さであり、凄みである。開幕後の万博の好評ぶりは、それが「成功」した証でもあろう。万博会期中に東京の森美術館で開催されている大規模個展「藤本壮介の建築:原初・未来・森」も、「建築の楽しさ」に満ち溢れ、大盛況だった。いま求められる建築家像を体現し得ているのかもしれない。しかし筆者は、オールドファッションであっても、エモいメッセージで耳目を効率的に集めるのと同時に、現実に対する敏感で繊細な感性が醸成されるような言葉の構築を、優れた建築家にはやはり望みたいのである。

山本理顕による問題提起

 ところで、昨年「建築界のノーベル賞」ことプリツカー賞を受賞した山本理顕は、大阪・関西万博を厳しく批判してきた。その焦点は二点ある。第一に、会場デザインプロデューサーに藤本壮介が就任したプロセスが不透明であること。第二に、プロデューサーである藤本が、大屋根リングを中核とする会場デザインの理念を社会に十分説明していなかったことである。建築における「透明性」を重視してきた建築家の山本らしい問題提起と言える。思想家の東浩紀が創業したゲンロンカフェでは、山本と藤本の直接対話もおこなわれた(「万博と建築――なにをなすべきか」)。

 たしかに大屋根リングの実現までの経緯には少し不思議な点がある。流れを簡単に整理しておこう。プロデューサーに藤本が選ばれたプロセスは、たしかに山本が指摘するとおり透明性が低く、ゲンロンでの藤本自身の発言によれば、万博協会による何名かへの候補者ヒアリングと、安藤忠雄らシニアアドバイザーの判断によるものとされる。そして藤本はプロデューサーとして大屋根リングを中核とする会場デザインを構想。その後、万博協会はリングの「基本設計」の公募型プロポーザルをおこない東畑・梓設計共同企業体を選定した。藤本はこのプロポの審査員を務めている。さらに続く「実施設計・監理」は、一般競争入札(総合評価方式)によって、大林組・清水建設・竹中工務店を中心とする三つの共同企業体(JV)がそれぞれ落札した。これは近年の公共事業の一般的な流れであり、山本が指摘したようにプロポ応募案など情報公開の不足はあるものの、形式的な透明性は担保されている。

プロデューサーか、アーキテクトか

 筆者が驚いたのは万博公式ウェブサイトの大屋根リングのクレジットである。プロポと入札を経て決まった企業群とならんで「基本設計・実施設計・工事監理」として藤本個人がクレジットされているのだ。このようなクレジットの併記は、建築関係者的にはなかなか特殊に映る。とくに基本設計だ。藤本は基本設計のプロポにおいて万博協会に任命されたプロデューサーとして――すなわち発注者側のエージェントとして、審査員を担当した。それゆえ現状のクレジットでは「発注-受注」の関係がうまく整理できなくなってしまう。

 公式サイトの情報である以上、この特殊なクレジットには藤本の意思が反映されていると考えるべきだが、なぜ「プロデュース」などとせず、違和感を生じさせる特殊なクレジット表記を採用したのだろうか。

 藤本に直接聞いたわけではないので、あくまでも筆者の勝手な解釈だが、このクレジット表記は、大屋根リングの「設計者」としての責任をすべて引き受けるという、藤本の建築家としての態度表明なのだと思う。ここでいう「責任」とは、クリエイティブの次元に限るものではない。瑕疵にかんするシリアスな法的責任までを含む。藤本はそのような密な協働体制を、プロポと入札を経て選ばれた組織と協議のうえで組んだのだろう。そしてじっさいに、設計者として、さらには監理者として、汗をかいた。

 藤本のこうした振る舞いをどう捉えるかは、視点によって異なるだろう。一面から捉えれば、それはプロデューサーでもある建築家が自身の構想した建築作品の面倒を見ようと徹頭徹尾努力した結果である。しかしもう一面から捉えれば、一応公正な手続きで選ばれたはずの事業者による設計・監理業務に対する発注者側(のエージェント)の越権行為ともなろう。

 フォーマルに――あるいは常識的に考えれば、正直、後者のような気もする。プロポと入札が実施されたからにはそこで選定された事業者がその業務を果たすべき、というのは一般的な筋だ。でなければ制度が有名無実化してしまう(プロポ制度それ自体が抱える問題はいったんおく)。すでに触れたように、少なくともクレジット上は、発注者側にいるはずのプロデューサーが設計・監理業務をみずから受注したかたちになっている点も、かなり微妙だろう(そのため業務報酬は確実にもらっていないはずだ)。

 しかしながら、建築家による建築設計の実態を想像してみると、前者にならざるを得ないとも思うのだ。仮に「会場デザインプロデュース」業務がパビリオンの配置計画やコンセプト提案にとどまるのであれば、それは「プロデュース」で済ませられよう。だが、その「プロデュース」された会場構成においてなんらかの建築物をつくる必要が生まれるのであれば(巨大な万博会場ではそうならざるを得ないわけだが)、建築家としては当然ながら、建築物の設計を細かく検討し続け、工事が始まってからは現場をチェック(監理)しないことには「会場デザインプロデュース」の業務責任がとれない、と考えるだろう。こうして、「会場デザインプロデュース」とその後の設計・監理業務のあいだには、明確な線を引くことが根本的に難しくなってくる。

 だからこそ藤本は、特殊なクレジット表記であることは承知で「基本設計・実施設計・工事監理」としたのではないか。そしてこのことは、「プロデュース」という融通無碍な肩書きでみずからの職能上の責任を誤魔化そうとしなかった点で、むしろ誠実な態度であったのではないかと思われるのだ。

丹下健三の場合

 万博という特殊で巨大なプロジェクトにおける「プロデューサー」と「アーキテクト」の分かちがたさを考えるうえで、一九七〇年の大阪万博との比較はよいレファランスとなるだろう。

 よく知られるように、一九七〇年万博で会場デザインを中心的に手がけたのは丹下健三である。丹下は京都大学の建築計画学者・西山夘三から引き継ぐかたちで会場マスタープランを作成すると、次いで「基幹施設プロデューサー」として、大屋根やお祭り広場、美術館、エキスポタワーなどから構成される会場中枢の「シンボルゾーン」の面倒を見た。その際に採用されたのが、一〇組程度の建築家を集めてチームをつくり、ゾーン全体の基本計画から設計までを全員で併走しながら進める、というプロセスだった。結果として、たとえば鋼管のスペースフレームによる巨大な大屋根は都市・建築研究所(URTEC)が、各種イベントをおこなうお祭り広場の諸施設は磯崎新アトリエが、エキスポタワーは菊竹清訓建築設計事務所が……、というような複数の設計チームの協働と分担がおこなわれた。

 当時の建築雑誌を読んでみると、丹下が、プロデューサーは全体のコーディネーション、アーキテクトは個別の建築設計、というかたちでふたつの役割を厳密に区分していたことがうかがえる(丹下健三・川添登「日本万国博覧会のもたらすもの」『新建築』一九七〇年五月号)。こうした意識は設計クレジットにも反映されており、最大規模の大屋根の設計者欄には「基幹施設プロデューサー」として丹下の個人名とともに、URTECが併記されている。

 しかしこの棲み分けはあくまでも形式的なものに過ぎない。URTECは神谷宏治が代表取締役を務める設計事務所だが、その創設者でありトップであるのは丹下だ(丹下は国立大学教員のため民間企業を代表できない)。それゆえ大屋根は実質的には「丹下(事務所)の作品」である。つまり役割分担は形式上のものであって、実態としては藤本と同様、「プロデューサー゠アーキテクト」だったのだ。

 ちなみに、万博協会を代表するエージェントである丹下が自身のURTECに大屋根の設計業務を任せる、というかたちで確保した形式的な整合性は、一九七〇年万博において「テーマ展示プロデューサー」である岡本太郎が、「制作費三〇億円」という太陽の塔を自身のアトリエ(現代芸術研究所)に発注したことと同型である(小松左京『やぶれかぶれ青春記』)。

問題の所在――もしも透明性を確保しようとするならば

 一九七〇年万博の丹下健三が、形式的にでも会場デザイン業務上のプロデューサー業とアーキテクト業を分けたのに対して、二〇二五年万博の藤本壮介はあくまでもアーキテクトとして全体の責任をとることを前面に出したと言える。しかし繰り返しになるが、両者とも実態は変わらない。「会場デザインをプロデュースする」ことと「会場中核施設を設計する」ことは、建築家がその役割を担うかぎりは不可分であると考えたほうがよい。

 二人に違いがあるとすれば、丹下が「東京計画1960」や「広島平和公園計画」に象徴されるように建築デザインのみならず都市デザインでも卓越していたのに対して、藤本のキャリアにはそうした「都市デザイナー」的側面が希薄なことだろう。この点は、大屋根リングという実質的には藤本の建築作品が「一人勝ち」している今回の会場構成のアンバランスさに反映されているようにも思う。

 ともあれ、建築家の職能上、「会場デザインプロデュース」とその後の設計・監理業務が癒着せざるを得ないのだとすれば、問題は、基本設計フェーズで公募型プロポーザルを実施することでそのふたつを無理矢理引き剥がそうとした点となる。結果として、特殊なクレジット表記が生まれてしまった。また先述のとおり、この形式ではプロデューサーである藤本は設計・監理報酬を受け取りようがない。しかし実態としては、「プロデューサー」というふわっとした肩書きには不釣り合いな重たい設計業務や監理業務をボランティアで遂行しているものと推測される。美談で済ませてよい問題でもあるまい。

 今回の大阪・関西万博には総勢一一名のプロデューサーがいる。藤本は会場デザインプロデューサーで、落合陽一らがテーマ事業プロデューサーだ。名目上彼らは並列関係にあるが、テーマ事業によるシグネチャーパビリオンが民間企業の協賛が入っているのに対して、大屋根リングをふくむ会場建設の主たる財源は国と大阪府・市の公的資金のはずのため、性質がじっさいには異なると考えたほうがよい。前者ではプロデューサーと設計者が自由にタッグを組んでも問題ないが、後者にかんしては、昨今の公共建築の通例として、どこかのタイミングで透明性と公平性のある選定プロセスを挟まざるを得ないからだ。基本設計で公募型プロポがおこなわれたのはそのためだろう。

 しかし前述してきた事情を踏まえると、透明性の確保は基本設計ではなく、その手前のプロデューサー選定のタイミングでおこなわれていたほうが、問題は少なかったのではないか。テーマ事業と会場デザインでプロデューサー選定の方法論がズレることにはなる。が、法的責任までを背負う建築設計から現場監理までと実質的には不可分な「会場デザイン」と、もう少しコンセプチュアルな「テーマ事業」とでは、おのずから業務内容が異なるので、両者の選定方法は安直に揃えることなくそれぞれの実態に相応しいかたちで調整したほうが健全ではなかったかと思われるのだ。そして会場デザインプロデューサーに選ばれた建築家は、少なくとも基本設計までは一貫して引き受ける。そうすれば業務内容の実態とも最低限整合する。

 こうならなかったのは、煎じ詰めれば、会場デザインや建築設計、あるいは建築家という(特殊な?)専門家の職能への理解が十分ではなかったためだろう。これは建築界や建築メディアの問題にほかならず、将来の国家プロジェクトで同種の問題が起きないように、社会に対してもっと建築設計や建築家の実態を伝え、それに相応しい制度上の役割が与えられるように説明を尽くしていくべきだ。本稿でくどくどと書いてきたのもそのためである。

SDGs時代の万博建築

 万博は、限られた期間にだけ立ち現れる祝祭空間である。建築カルチャーにとってその最大の意義は、通常のプロジェクトでは許されない「実験」を可能にする点にある。だからこそ、一八五一年ロンドン万博のクリスタルパレス、 一八八九年パリ万博のエッフェル塔と機械館、さらには戦後の一九六七年モントリオール万博におけるバックミンスター・フラーのジオデシックドーム(アメリカ館)など、数々の万博建築が近代以降の建築史を形づくってきた。

 大阪・関西万博でも、さまざまな「建築的実験」がおこなわれている。大屋根リングはじめ、多くの施設が木造・木質建築として建てられているのは、サステイナブルな建材として木材が世界的に注目され、日本でも「都市木造」の推進が謳われている時代の反映だ。

 また、古材を利活用したり、万博閉幕後の移築・転用を見据えて設計したりと、建築のフォーカスを万博会場での利用に絞り切ることなく長いスパンで「循環」させようとする建築家の取り組みが多い点も、社会と環境の持続可能性が問われる「SDGsの時代」らしさの反映と言ってよい。二〇二一年ドバイ万博の日本館を再利用し、さらに二〇二七年の横浜国際園芸博覧会でも再再利用されるウーマンズパビリオン(設計:永山祐子ら、図4)や、奈良と京都の廃校舎三棟を解体・移築・再構成した河瀨直美のシグネチャーパビリオン「Dialogue Theater」(設計:周防貴之)がなかでも白眉の作品である。

図4 ウーマンズパビリオン

 筆者と同世代の若手建築家二〇組が手がけた共用施設でも、こうした循環的な発想は鮮明である。たとえば、大西麻貴+百田有希が手がけた休憩所1(図5)は鮮やかな色彩のデッドストック布で屋根を覆い、小林広美+大野宏+竹村優里佳によるトイレ2は大阪城再建に使われなかった歴史的な「残念石」を転用した。米澤隆による「二億円トイレ」ことトイレ5は、万博後の解体や輸送を前提に積み木のようなポップなデザインをとる。

図5 休憩所1

その実験はどこまで実験的か

 筆者自身、昨年出版した『建築をあたらしくする言葉』(連勇太朗との共編著)において「持続可能性」や「循環」といったキーワードを重視した。それゆえこうした実践には共感を覚える。

 しかしいっぽうでは複雑な気持ちになる。万博の本質は短期間で「建てて壊す」祝祭であり、即物的には到底サスティナブルとは言いがたい。巨大な会場における小規模な「循環」の実験は、よく言えば「孤軍奮闘」だが、悪く言えば資源を浪費する「時代遅れ」の国家祝祭をSDGs対応に仕立てる「アリバイ」になりかねない。じっさい建築メディアは、建築家たちの意欲的な試みを「おすすめ万博建築ベスト3」的な企画で積極的に取り上げる結果、万博全体に対する専門的な論評や吟味で後手に回っている印象がある――もちろんこれは、建築家側というよりも近年の建築評論・メディア側の欠陥と言うべきなのだが。

 万博建築は建築基準法が一部適用外となる仮設建築物である。そのため、閉幕後に別の場所に移築して別の用途に転用するためには、技術的にも法的にも越えるべきハードルがある。場合によっては新築以上のコストもかかる。若手が設計した共用施設のリユース先は公募されたものの、その大半が見つからなかったとの報道もあったが、それはこのためだ。大屋根リングも一部を「展望台」として保存するにとどめ、大部分は解体方針と決まっている。巨体の木造仮設建築の扱いのむずかしさを思えば妥当だろう。ドバイ・大阪・横浜の三つの博覧会を渡り歩くウーマンズパビリオンは、関係者の能力と熱意によってはじめて実現した特殊解と見なしたほうがよい。

 国家祝祭である万博に心情的には反発しながら、しかしお祭り広場の設計者として一九七〇年の大阪万博に関わった磯崎新は、「実験という言葉の響き」の誘惑に抗えなかったのだと述懐したことがある(磯崎新『反回想Ⅰ』)。普段は不可能な「実験」ができる万博は、なるほど建築家にとっては魅惑的なチャンスだろう。しかしそうして出来上がった一九七〇年万博の建築群は、たんなる賑やかな造形のパレードに陥った側面もあった。美術批評家の椹木野衣は、当時の前衛建築家たちによる前衛性のスポイルされた万博建築を指して「奇矯」と評した(椹木野衣『戦争と万博』)。

 伊東豊雄や隈研吾など、若かりし頃に一九七〇年万博に期待し、しかしその「未来」の空虚さに失望した建築家は少なくない。「実験」に誘惑された磯崎も、矛盾に耐えきれずに体調をくずし、万博後には師であり万博建築の中心にいた丹下健三とは異なる建築家像を模索していく。こうして大阪万博は、一種の「反面教師」として、日本の戦後建築史のターニングポイントになった。

 大阪・関西万博は今後、建築史のなかでいかに評価されていくだろうか。SDGs時代を「反映」する建築はたくさんつくられた。しかしそれらが建築の未来を切り開く真の意味での「実験」であったかどうか。今回の万博建築における実験がどこまで実験的であったのかは、閉幕後にどれほどのリユースがじっさいに実現するのか、あるいは今回の仮設建築で得られた知見や技術がその後のプロジェクトにどれほど具体的に展開されるのか、といった観点から事後的にしか定まりようがない。「奇矯」との評価を受けた一九七〇年万博のように、ネガティブな意味で歴史的画期となる可能性もある。いまは会期中で盛り上がっているので見えづらいが、当然ながら万博から意識的に距離をとった建築家も少なくない。彼/彼女たちをふくめた総合的な回顧が今後必要だ。

「炎上」を超えて――SNS時代のありえたかもしれない実験

 現在はSDGsの時代であると同時にSNSの時代でもある。大阪・関西万博の建築も、大屋根リングから「二億円トイレ」まで、いくつかの「炎上」を経験した。今後も大規模プロジェクトにおいて同様のリスクは避けがたい。SNS時代の建築にとって「炎上対策」は必須ともいえ、ますます重要となるだろう。

 そのためには建築家が真摯に説明に努めることが案外有効だということも、今回の万博では示された。大屋根リングの藤本壮介や「二億円トイレ」の米澤隆がX(旧Twitter)でコストや設計趣旨をていねいに説明し始めてから、誤解にもとづく批判はかなり沈静化した印象がある。ザハ・ハディドの設計案がキャンセルされた「新国立競技場問題」と比べれば、この点は素直に喜ぶべきことだろう。

 いっぽう、SNS時代の建築が取り組むべきことは炎上対策に尽きるわけでもない。SNS時代とはそもそも、コミュニケーションが高度に開放された時代である。そのような時代に開催された万博においては、情報とコミュニケーションを主題とする建築の実験がもっとあってよかったのかもしれない。さかのぼれば、誘致時点の今回の万博は、モノと情報、フィジカルとデジタルが重なる「コモングラウンド」の実験をテーマともしていた。このアイデアに建築家として中心的にかかわった豊田啓介は、落合陽一のシグネチャーパビリオン「null2(ヌルヌル)」(図6)を設計している。

図6 シグネチャーパビリオン「null²(ヌルヌル)」

 たとえば、建築の設計プロセスを徹底的に透明化してみる。大屋根リングを題材にしてもよいだろう。国家規模の公共事業である万博は、突き詰めれば、税金を納める国民と大阪府民・市民がクライアントである。納税者である「みんな」がこの国家モニュメントの当事者となり、それが生まれ出る瞬間に付き添い、SNSをつうじて対話し、ときに設計提案さえする。「パブリックコメント」の超拡大版のようなものだ。二〇一一年の東日本大震災以降、建築界では被災者や市民とのワークショップをつうじて建築を協働設計する取り組みが活発化したが、その延長線上に位置づけることもできるだろう。「円」という原初的なかたちも、建築の専門家(建築家)とそうではない人びとのコミュニケーションの素地としては好適だ。

 もちろん、建築設計は高度に専門的な作業であるから、寄せられる意見には有用なものもあれば頓珍漢なものもあるだろう。ゆえに建築家はそのすべてに従う必要はない。それらの意見を踏まえつつ、しかし最終的なジャッジを専門家として下せばよい。このあたりの事情は、現実の公共施設の計画・設計プロセスで実施されているワークショップと基本的に同じである。理論的には、大衆の欲望や無意識をニコニコ生放送の「弾幕」のようなかたちで可視化することで政治家の独断に「制約」をかけるという、東浩紀『一般意志2.0』が展開したアイデアが参考になるだろう。 

 発達した情報環境を背景に、建築家が無数の人びとと対話をしながら、設計を進める。このようなアイデアはなにも新しいものではない。磯崎新はすでに一九九七年の「海市」展で、中国のユートピア的都市計画を題材に、本格的に普及し始めたインターネットを介して不特定多数の観客を計画に参加させようとした。建築や都市計画の専門家ではない人びとによる種種雑多な意見をつうじて、「建築」や「計画」といった概念を脱構築すること。それは一九七〇年万博の前後から「建築の解体」を首唱した前衛建築家である磯崎らしい、じつにラディカルな実験だった。

コミュニケーションのレッスンとしての万博

 建築とインターネットをめぐる「海市」展の先駆的と言うべき実験だが、その成果は芳しいものではなかった。メールや掲示板など意見収集のためのプラットフォームも未熟だったし、扱える情報量もごく小さかったから無理はない。

 だが、扱える情報量が飛躍的に増大し、さらには不毛な議論と炎上を回避しながら合意形成へといたる「デジタル民主主義」のテクノロジーも進歩しつつある近年であれば、より生産的な着地点が見つけられる可能性はないか。(オードリー・タンのような?)デジタルエンジニアのサポートを受けながら、建築家が無数の人びととデザインやプランにかんする論点を対話し、対立軸や共通点を見出し、そのうえで建築をまとめ上げていく。そのプロセスは前衛的な「建築の解体」というよりは、もっと単純でポジティブな意味での「建築の解放」と呼ぶべきものだ。

 建築が、建築家が独断的に創造する作品から、もっと多くの人びとに開かれた社会的な事物へと「解放」される。その解放のプロセスをつうじて、建築設計という専門的な作業がどのようなものであるか、そしてその作業において建築家が発揮する専門性がどのようなものであるかが、少なからず社会的に共有されることにもなるだろう。そこで社会的に培われた経験が、今後の公共建築や都市開発における私たちの不毛な対立や分断の回避に少しでも役立つようだったら、半年で終わる国家祝祭における仮設建築としては十分すぎる成果ではないか。

 そんな建築をめぐる社会的コミュニケーションのレッスンが、SNS時代の万博建築で実験されていたらよかったなあと思うのである。

 無責任に極論を言えば、そうした建築家と人びと、モノと情報の対話の結果、建てるべき建築のデザインや計画が部分的に破綻してもよいのだ。じっさい、一九七〇年の大阪万博では、丹下健三の大屋根を岡本太郎の太陽の塔が暴力的に貫くという「破綻」のダイナミズムこそがモニュメントとして記憶された。私たちの日常において建築はむろん失敗が許されない。しかし仮設の祝祭空間である万博の価値は「実験」にこそある。多少の破綻が傷跡のように残ったとしても、それは多様なコミュニケーションが取り交わされたことを証明する誇るべき痕跡である。

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著者略歴

  1. 市川絋司

    建築史家。一九八五年生まれ。東北大学大学院工学研究科都市・建築学専攻助教。著書に『天安門広場——中国国民広場の空間史』(筑摩書房、二〇二二年日本建築学会著作賞)。共訳書に王澍『家をつくる』(みすず書房)など。

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