第1回 戦争なくして平和なし
『世界』2026年1月号の注目記事を特別公開いたします。
平和主義者オバマ
二〇〇九年一〇月九日、ノルウェー・ノーベル委員会はバラク・オバマにノーベル平和賞を授与することを発表した。オバマがアメリカ合衆国の第四四代大統領に就任したのは同年の一月であり、そのわずか数カ月後に、この受賞は決定されたことになる。そんな短い期間に、なにを彼は達成したというのか。
じつは、ノーベル平和賞の授与に値するような実績が具体的にあったわけではない。ただ、しばしば言及されるのは、核兵器の廃絶への意志である。そのうちもっとも有名なスピーチは、就任から三カ月後、チェコの首都プラハにて行なわれた(【引用1】参照)。核を戦争の兵器として使用した歴史をもつ唯一の国家たるアメリカ合衆国は、その廃絶にむけて「行動する道義的な責任」がある、そう明言して彼は喝采を浴びた(1)。
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【引用1】 Barack Obama, “Remarks in Prague,” April 05, 2009. Now, just as we stood for freedom in the 20th century, we must stand together for the right of people everywhere to live free from fear in the 21st century. And as nuclear power—as a nuclear power, as the only nuclear power to have used a nuclear weapon, the United States has a moral responsibility to act. We cannot succeed in this endeavor alone, but we can lead it; we can start it. So today I state clearly and with conviction America's commitment to seek the peace and security of a world without nuclear weapons. I'm not naive. This goal will not be reached quickly, perhaps not in my lifetime. It will take patience and persistence. But now we too must ignore the voices who tell us that the world cannot change. We have to insist, “Yes we can.” 〔訳〕しかし、20世紀のわれわれが自由を支持してきたように、21世紀のわれわれも、あらゆる人びとが恐怖に囚われずに生きる権利を謳歌できるよう一丸とならねばなりません。そして核兵器の――核保有国の、核兵器を使用した唯一の核保有国として、アメリカ合衆国にはアクションを起こす道義的な責任がある。われわれの力だけでこの努力を完遂することはできません。しかし、それを導くことならできる、それを始めることならできるのです。 だからわたしは今日この場で、確信をもってはっきりと述べたいと思います――アメリカは核兵器なき世界の平和と安全にコミットするのだと。わたしはナイーヴではありません。この目標はすぐには達成できないことぐらい承知しています。わたしが生きている間には無理かもしれない。忍耐と根気が必要になります。しかし、われわれはやはり、世界は変わらないのだという声に耳を貸してはならないのです。イエス・ウィー・キャン、そう言わねばならないのです。 演説の名手として知られるオバマ。このスピーチでも多用されている “now” に注目してみよう。nowには間投詞的な用法があり、日本語の「ところで」「さて」に似た話題転換、あるいは「いいですか」「よく聞け」といった注意喚起の機能を持っている(この用法は『ロングマン現代英英辞典』の解説が優れている)。引用の文頭では文脈的に逆接になっているので、「しかし」で訳出した。が、もちろんnowには「いま」という意味があるわけで、こうしてスピーチ内でnowを用いると、話者の思考プロセスに現在進行系で巻き込まれるような効果が発生する。いままさに新しい時代を切り拓いてゆく世界のリーダーとして期待されたオバマにふさわしい、危険な魅力をもった単語だ。ちなみに有名な「イエス・ウィー・キャン」だが、ここでは「変えられない」という否定文に対する否定なので、訳すと「いいや変えられる」となる。 |
だがオバマがこんな短期間でノーベル平和賞を受賞できた主たる理由は、ノーベル賞の公式ホームページにおける情報の配置をみてもわかるように(2)、未来への期待であった。この、ケニア人の父をもち、ハワイ出身で、幼少期をインドネシアで過ごし、「テロとの戦争」の時代にあって「フセイン」というミドル・ネームをもちながら米国史上はじめて大統領となった黒人男性に、ノルウェー・ノーベル委員会は、アメリカ合衆国は、そして世界は、ひょっとすると人類のこれからの「平和」を託してもよいのかもしれないと、そう感じたのだった。
テロリストにつくのか、それともアメリカにつくのかという粗雑な二分法を世界に突きつけた前任者ジョージ・W・ブッシュの愚劣なイメージと強烈な対照をなし、オバマは、知性と情熱とアイデンティティに裏づけられた、多文化主義の精神そのものであった。
その期待をオバマは、受賞レクチャーで裏切ることになる(【引用2】参照)。「われわれは行動することによって、歴史を正義のほうへと捻じ曲げることができるのです」、そのように彼はスピーチを開始した。その「行動」とはなにか? 戦争である。
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【引用2】 Barack Obama, “A Just and Lasting Peace,” December 10, 2009. I make this statement mindful of what Martin Luther King Jr. said in this same ceremony years ago: “Violence never brings permanent peace. It solves no social problem: it merely creates new and more complicated ones.” As someone who stands here as a direct consequence of Dr. King’s life work, I am living testimony to the moral force of non-violence. I know there’s nothing weak – nothing passive – nothing naïve – in the creed and lives of Gandhi and King. But as a head of state sworn to protect and defend my nation, I cannot be guided by their examples alone. I face the world as it is, and cannot stand idle in the face of threats to the American people. For make no mistake: Evil does exist in the world. A non-violent movement could not have halted Hitler’s armies. Negotiations cannot convince al Qaeda’s leaders to lay down their arms. To say that force may sometimes be necessary is not a call to cynicism – it is a recognition of history; the imperfections of man and the limits of reason. 〔訳〕こう言いながらわたしが念頭に置いているのは、かつてマーティン・ルーサー・キングがこの授賞式で言ったことです――「暴力が恒久的な平和をもたらすことなどありえない。暴力が解決できる社会問題など皆無である――もっと複雑な問題をあらたに作り出すだけなのだ」。キングが人生を賭けて成した偉業のおかげでここに立てている人間であるわたしは、非暴力がもつ道義的な力というものの生きた証人であります。ガンジーやキングの信条と人生には、弱さも、消極性も、ナイーヴさもいっさいないのは、もちろんのことです。 しかし、自国を守護し防衛することを誓った国家元首として、わたしは彼らだけを模範とするわけにはいかないのです。わたしは現在あるがままの世界に相対しており、アメリカ国民にたいする脅威を目の前にして、手を拱いているわけにはいきません。よろしいでしょうか――この世に悪は存在する、これは揺らぐことのない事実であります。非暴力の運動では、ヒトラーの軍隊を止めることはできなかったでしょう。交渉ではアルカイダの指導者に武器を放棄させることはできないでしょう。武力行使が必要な時もあるということは、シニシズムではありません。それは歴史を理解するということです。人間の不完全さと、理性の限界とを認めることなのです。 とくべつに注意して読まずとも、オバマの主張が「非暴力よりも戦争を選ぶ」ということであることは明らかであるだろう。プラハでは “the world cannot change” という主張に “Yes we can” を突きつけねばならないと高らかに宣言していたはずのオバマが、まさしく “the world as it is” を見つめることのリアリズムに立てば戦争という現実を止めることはできないと述べている。ちなみに “For make no mistake” のforは本来不要。“Make no mistake:” と直後にコロンを置いて、「そう思っていない人もいるようだが、コロン以下のことは間違いないとわたしは個人的に確信している」という警告的なニュアンスで使うことが多く、「いいか」と威圧的に訳すとハマりやすい。 |
じじつ、この“A Just and Lasting Peace” すなわち「長続きする正義の平和」というタイトルのスピーチにおいて、彼はほとんどの言葉を、平和ではなく戦争を語ることに費やした。もっかイラクとアフガニスタンで戦争を遂行している国家の大統領がこんなところで話すことじたいおかしなことであり、じっさい「今日は戦争という問題の決定的な解決策をもちあわせてはおりません」。まあ、それはいいとしよう。
だがレクチャーの内容はつぎのように展開してゆく。われわれは正戦(just war)についての、つまり正しい戦争についての、新しい考えかたを手に入れる必要がある。いつの時代も純粋な悪はこの世に存在するのであって、ヒトラーもアルカイダも暴力なしでは打倒しえなかった。われわれがよくよく考えねばならないのは、いかに戦争を終わらせるかよりも、「いかに戦うか」であり、そして、どのような状況下においてなら武力行使が「必要であるだけでなく倫理的に正当化されるのか」である。
ではどのような状況下なのか? その決定権を握るべきは、アメリカ合衆国にほかならない――「それがアメリカと敵とをわかつものであります。それこそがアメリカの力の源泉なのであります(3)」。このように一年目の任期を開始したオバマは、八年後、平均で一日に七一個の爆弾を世界に投下しつづけた大統領として任期を終えることになった(4)。
戦争と平和の一〇〇年
ノーベル平和賞がアメリカ合衆国の大統領に授与されたのは、オバマが三人目である。ひとりめはセオドア・ローズベルト(一九〇六年)、ふたりめはウッドロウ・ウィルソン(一九一九年)。オバマのほぼ一〇〇年前に、第二六代と第二八代の大統領があいついで受賞しているのだ。受賞理由としては、それぞれ日露戦争の講和、そして国際連盟の創設、これらへの貢献が挙げられている。
「でかい棒をかついで穏やかに話せば大丈夫」という「棍棒外交」で知られるローズベルトに、もともと平和主義者のイメージは薄いだろう。だが「一四か条の平和原則」で知られ、プリンストン大学の学長も務めたインテリでもあるウィルソンは、じつのところ第一次世界大戦への参戦を決定した大統領にほかならず、その理想と現実の乖離は、オバマのそれによく似ている。
ウィルソンの任期は一九一三年に始まるが、彼が一六年に再選を果たすことができたのは、一四年から始まっていたヨーロッパでの大戦争にアメリカが巻き込まれることの回避――つまり平和主義――が評価されてのことだった。
だが第二期がはじまるやいなや、彼はドイツによる無制限潜水艦作戦の宣言をうけて議会に参戦を提案することになる(【引用3】参照)。ドイツの行為は「全国家に対する戦争」なのであって、アメリカは「世界に平和と安全をもたらし自由にす」べく、ぜひとも戦わねばならない(5)。このロジックは、国際連盟の前身となる団体の名称がThe League to Enforce Peace、すなわち平和強制連盟であったことを知る者にとっては、驚くに値しないであろう。
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【引用3】 Woodrow Wilson, “Joint Address to Congress Leading to a Declaration of War Against Germany,” April 2, 1917. We are accepting this challenge of hostile purpose because we know that in such a Government, following such methods, we can never have a friend; and that in the presence of its organized power, always lying in wait to accomplish we know not what purpose, there can be no assured security for the democratic Governments of the world. We are now about to accept gauge of battle with this natural foe to liberty and shall, if necessary, spend the whole force of the nation to check and nullify its pretensions and its power. We are glad, now that we see the facts with no veil of false pretense about them to fight thus for the ultimate peace of the world and for the liberation of its peoples, the German peoples included: for the rights of nations great and small and the privilege of men everywhere to choose their way of life and of obedience. The world must be made safe for democracy. Its peace must be planted upon the tested foundations of political liberty. We have no selfish ends to serve. 〔訳〕われわれがこの敵意からの挑戦を受けて立たんとするのは、そのような方途に訴えるそのような政府とはいっさいの友好関係を結びえないからであります。なんどき、いかなる目的でいかなることをしでかすかわからない組織的な権力が存在するかぎり、この世界において民主的な政府の安全は保証されえないからであります。 いまわれわれは、自由の生来の敵からの挑戦状を受けて立たんとし、そしてもし必要とあらば、わが国の総力を尽くして、かの虚栄と武力とを抑え込み無へと帰せしめるでありましょう。そして虚栄のヴェールを剥ぎ取ったありのままの事実を目の当たりにしたいま、世界の究極の平和のために、ドイツの民をも含めた世界の人民の解放のために、そして大小のあらゆる国家の権利のために、さらに、どのように生きどのように従うかを選択する万人の特権のために、われわれは喜んで戦うのであります。民主主義が安全である世界にせねばなりません。世界の平和は、政治的自由の裏打ちされた基礎のうえに据えられねばなりません。 われわれは、いかなる利己的な目的も持ち合わせてはいないのです。 挿入句や並列を多用した長いセンテンスに、短いパンチラインがつづく一節である。「この戦争は敵国民のためでもある」という利他のロジックは超頻出。“we know not” という箇所があるが、これは現代の文法では “we do not know” で、否定のnotが裸で(doなしで)一般動詞のうしろに置かれるパターンなのだが、knowで見かける場合がほとんどなので、このまま覚えておくといい。“We are now about to accept” のbe about to doは「今まさにdoしようとする」という、be going to do よりも差し迫った感じが出る用法で、aboutという前置詞の意味を「だいたい」ではなく「近接」のニュアンスで理解するのに便利な熟語。有名な “The world must be made safe for democracy” は受動態でmakeの主語が曖昧になっていることに注目したい。じっさいはアメリカが戦争によって世界を変えるのである。 |
アメリカは世界平和のために、不本意ながら正義の戦争を戦わねばならない――これが、アメリカの大統領たちが驚くべき歴史的一貫性をもって主張しつづけてきた物語である。その歴史的な系譜は、すでに言及したローズベルトはもちろん、「キューバに平和と繁栄をもたらさんとする無私なる願い」(6)を掲げながらアメリカ初の海外植民地の獲得に至った第二五代ウィリアム・マッキンリーの米西戦争にも、あのオバマが引用した“a just and lasting peace” の確立を謳い、勝利の暁には「自由の新たな誕生」(7)を約束した第一六代エイブラハム・リンカンの南北戦争にも、「メキシコとの和平を確立せんとする強い願い」(8)から広大な地域を割譲させた第一一代ジェイムズ・ポークの米墨戦争にも、先住民の強制移住が連邦政府と州政府の「あらゆる衝突の可能性を排除する」(9)がゆえにそれは先住民のためにもなるのだとして残虐のかぎりをつくした第七代アンドリュー・ジャクソンにも、「平和の維持という切実な意向」(10)を表明しながら地中海に派兵しアメリカ軍事史上初となる海外戦争を敢行した第三代トマス・ジェファソンにも、「平和を維持するための最良の方法のひとつは、戦争に備えることである」(11)という初代大統領にふさわしい定式化を行ったジョージ・ワシントンにも、遡ることができる。
本連載ではその長い歴史のうち、第一次世界大戦から「テロとの戦争」まで、ウィルソンからオバマまでの約一〇〇年を、およそ一〇回にわたって素描してみたい。戦争国家アメリカの平和。その歴史を知るとき、あなたは、安倍晋三が、イスラエルが、パキスタンが、そしてカンボジアが、ドナルド・トランプをノーベル平和賞に推薦したというニュースを、もはや笑うことはできなくなるだろう。
文化を学ぶ意味
本連載の特徴と方針について、いくつか付言しておきたい。まず本連載は、すでに誌面を見てわかるように、大統領のスピーチを本文とは別枠のコラムで掲げ、長めに英語の原文を引用し、翻訳とコメントをつけている。これによって、第一に大統領の生の英語をすこしばかり味わってもらうとともに、第二に英語の学習者には学校の授業などで教わりにくい語学や翻訳のポイントを仕入れてもらい、そして第三に歴史の学習者には、こうした一次資料のテクストからどのように自分なりの着眼点で「論」を立てるのか、そのプロセスに触れてもらうことを目論んでいる。これらの点において本連載は、おもに高校生から大学院生までの若い読者を念頭に置きながら、教育的な機能を果たすことを目指している。
つぎに、妙なタイミングで自己紹介をはじめて恐縮だが、わたしは「文化史」の専門家を名乗っている研究者である。つまり文化についての歴史家、英語でいうとcultural historianで、ピンとこないかもしれないが、たぶんあなたも世界史の教科書で各章のおわりに画家や小説家などの記述が申し訳程度にポツンと置かれていたことを覚えているだろう。あれである。あのように、文化の歴史というものは歴史のメインストリームをなす政治史のストーリーにうまく組み込まれておらず、文化を「歴史」の一部として有機的に理解するチャンスは、現在の学習環境において限られている。
だが政治や経済や社会と同様、当然ながら文化も歴史の一部なのであり、文化は歴史のなかで生まれると同時に、文化が歴史をつくってもいる。そのことが理解されないと、いかにわれわれが、そして世界が文化によって動かされているかを見過ごし、たとえば独裁者が文化をまっさきに弾圧することの意味も、オバマを平和主義者であると勘違いしてしまうことの危険も、あなたが戦争映画を観て感動することの問題も、まともに考えられなくなってしまう。
そこで本連載では「文化史」という日本の教育・研究の現場でまだ定着していない用語をあえて前面に出しながら、文化を歴史の一部として学ぶとはどういうことなのか、そして歴史を文化の一部として学ぶとはどういうことなのかを知ってもらうきっかけをつくりたいと考えている。
本連載はいわば、あなたが「歴史」だと思っているものと「文化」だと思っているものと「戦争」だと思っているもの、そのすべてをひとつのテーブルに並べて論じようとする試みである。そこから、いわゆる「人文学」という学問分野がなにをやっているのか、そのことについてのイメージをいささかなりとも刷新できれば本望である。
この「文化と戦争」というテーマでアメリカの歴史を論じていくにあたり、次回の連載からは原則として、スピーチ、写真、映画という三点を各回で扱うことにする。われわれは大統領のスピーチを聞き、時代を象徴する――それこそ世界史の教科書に載っているような――写真やポスターなどのイメージを眺め、そして戦争とハリウッドの国たるアメリカの文化史において最重要ジャンルをなす戦争映画を観ることで、そこから「物語」を受けとり、歴史を、戦争を知る。
そうしてわれわれが知る「歴史」は、たとえば「オバマは平和主義者だった」というイメージのように、もちろん偏っている。だが、ここでもっとも重要なことは、この「偏り」を矯正することではない。なるべく偏りを矯正したいのは当然のこととして、真に重要なのは、われわれはそうした偏った「物語」をつうじてしか「歴史」を知ることはできない、と知ることなのだ。
たとえば、戦争映画はフィクションだから偏っていて、歴史の教科書の記述はニュートラルである、という考えは誤りであると本連載は考える。われわれが知ることのできる「歴史」はすべてが偏っているのであり、偏っていない歴史記述など、どこにも存在しないのだ。
報道写真だろうと小説だろうとスピーチだろうと教科書だろうと、それらはすべて、それぞれの立場からそれぞれの見方にもとづいて世界についてのひとつの「物語」を語っているにすぎない。だがそうした偏りは、それらの「物語」を無価値にするのではない。そうした偏った「物語」が歴史というものを知るための唯一の方法なのだとまずは知り、そのうえでそれらの「物語」を吟味できるようになることが重要なのである。
報道もスピーチも映画も、それらがこの世界においてわれわれの歴史観にどのような影響を及ぼすかという点においてはひとしく分析に値するのであり、そうした立場をとることを可能にするのが、文化史という学問なのだ。
平和のための戦争?
近年、ある大統領は次のように述べた。二〇〇〇年から二〇〇五年にかけて、われわれはテロリストに対して軍隊を動員してきた。二〇一五年、やはり我が国への侵攻を防ぐべく、われわれは武力を行使せざるをえなかった。そして現在、また同じことが起こっている――「祖国と国民とを防衛するにあたって、このような武力に訴えるよう、やつらがわれわれを追い込んだのであります」(12)。
こう述べた大統領は、ブッシュでもオバマでもトランプでもバイデンでもない。ウクライナに侵攻したウラジーミル・プーチンである。
戦争を仕掛けるとき、「悪いということはわかっていますが、それでも攻撃します」と宣言する国はまずない。アメリカも、ロシアも、イスラエルも、そして日本も、ぎょっとするほど似通った凡庸なレトリックとロジックで自国の武力行使がいかに正当であるのかを熱弁してきた。それはいつだって平和のためであり、自由のためであり、正義のためであり、世界のためなのだ。
ただ、その似通った物語がリベラルなイメージを纏ったアメリカの大統領によって語られるときと、独裁者のイメージを纏ったロシアの大統領によって語られるときで、われわれはその戦争行為の善悪について、まったく異なる印象を受け、まったく異なる判断をくだす。
そうした先入観を排除して、「平和のための戦争」という欺瞞の物語があらゆる戦争につきまとっていること、そしてそのレトリックを自力で見破るための批判的な読解力を身につけることが、本連載の目標である。
たくみに語られたストーリーに、われわれはいとも簡単に説得されてしまう。しかし、それを見破る方法は、じつは簡単なのだ――それが暴力を肯定するために語られているかどうか、それだけを見ればよいのである。
注
(1)Barack Obama, “Remarks in Prague,” April 5, 2009, American Presidency Project.
(2) “Barack H. Obama – Facts,” 2009, Nobel Prize Outreach.
(3)“Barack H. Obama – Nobel Lecture,” December 10, 2009, Nobel Prize Outreach.
(4)David Vine, The United States of War: A Global History of America’s Endless Conflicts, from Columbus to the Islamic State (Oakland: University of California Press, 2020), 314.
(5)Woodrow Wilson, “Address to a Joint Session of Congress Requesting a Declaration of War Against Germany,” April 2, 1917, American Presidency Project.
(6)William McKinley, “Message to Congress Requesting a Declaration of War with Spain,” April 11, 1898, American Presidency Project.
(7)Abraham Lincoln, “Address at the Dedication of the National Cemetery at Gettysburg, Pennsylvania,” November 19, 1863, American Presidency Project.
(8)James K. Polk, “Special Message to Congress on Mexican Relations,” May 11, 1846, American Presidency Project.
(9)Andrew Jackson, “Second Annual Message,” December 6, 1830, American Presidency Project.
(10)Thomas Jefferson, “First Annual Message,” December 8, 1801, American Presidency Project.
(11)George Washington, “First Annual Address to Congress,” January 8, 1790, American Presidency Project.
(12) “Full Text of Vladimir Putin’s Speech Announcing ‘Special Military Operation’ in Ukraine,” The Print, February 24.




