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新刊レビュー/W・シュトレーク『資本主義はどう終わるのか』 評=三島憲一

その辺のエコノミストにはまねできない

 

 リーマンショックとユーロ危機、国債というかたちの膨大な借金と福祉の低下、組合組織率の著しい減少と格差拡大、選挙が終われば公約を平気で反故にする嘘つき政治家と彼らの傍若無人ぶり、なによりも、公的機関のサービスより民間の方が有能で便利(どうやら水道の民営化も世界的流行のようだ)という我々もとらわれやすい思い込みの由来、それに巨大化したスポーツ・イベントや娯楽産業、こうした一連の動きを統一的なひとつの流れとして描き出せる人は、そうはいない。

 統一的な流れとは、<民主主義に対する資本主義の完膚なきまでの勝利>、ほとんど逆戻り不可能に見える勝利という道筋である。 

 その道筋を本書の著者シュトレークは、多くのエコノミストと同じに直近のデータを駆使しながら、その辺のエコノミストには絶対にできないこと、つまり、マルクスの資本主義論、デュルケームの社会連帯論、マルセル・モースの社会的事実論、『経済と社会』におけるマクス・ヴェーバーの貨幣論、そしてなによりもポランニーのいう「偽りの商品」論などをすべてこなし、組み込んで描き出している。大規模金融緩和を叫ぶ官邸エコノミストや日銀総裁程度の学力では無理だ。

 なぜ大規模金融緩和になったかをヴェーバーにまで遡り、消費中心主義をモンセンとダウンズの1971年の論文までさかのぼって批判的に解き明かすかと思うと、1933年のヘラーによるカール・シュミット批判からも、オルド資本主義にさかのぼる現在の資本主義の批判的分析を学んでいる。なぜ、現在の政党が、商品を売る企業と同じに世論調査に耽り、マーケティング技術に溺れているのか、一時期イタリア首相を務めたマリオ・モンティがなぜに投資会社の顧問となり、欧州中央銀行総裁のマリオ・ドラギがゴールドマン・サックスの幹部だったのはなぜなのか、そうした行ったり来たりの「回転ドア」はなんのためにあるのか、そうしたことも、長い理論史を繙きながら論じている。

  

金融資本主義に疲弊する世界

 

 シュトレークは、2014年の定年退職までケルンのマクス・プランク社会科学研究所の所長を務めていた。アメリカ生活も長い。一六歳で社民党に入党したそうだが、「大学出の有能な市民には妊娠手当を出すべき」、という党内右派の大物党員による優秀人種育成的な提案に対して彼を除名しない党に激怒して脱退している。

 2016年に翻訳(みすず書房)の出た『時間稼ぎの資本主義』(原著2013年)で日本でもよく知られるようになった。その彼がさまざまな折に書いた論文を集めたのが、センセーショナルなタイトルの本書である。

 戦後の〈黄金の30年〉における資本主義と民主主義の偶然の協力関係が崩壊して現在の金融テクノロジー万能の資本主義に変貌してきたプロセスは前著で巧みに描かれていた。民主主義からの融和的な対応にもかかわらず、社会福祉政策によって資本主義はいずれ食い尽くされることを見抜いていた資本の担い手たちは、資本主義を守るべく、まずは債務拡大とインフレ政策を導入し、やがては拡大しすぎた債務を縮小する財政再建国家体制を打ち立てる。その過程はまた、テクノロジーに裏打ちされた金融資本主義が文字通り世界全体を覆い尽くすに至る歳月だった。

 どこの先進国でも財政再建の名の下に福祉が削られ、格差が拡大している。国家財政に関する政策は、ほとんどが各国政府間の協定で決められる。普通の人には理解できない難しい問題が、普通の人には手の届かない国際機関の閉ざされたドアの向こうの奥の院で決められるようになっている。つまり、民主主義とは無縁だ。

 そして、まさに格差の拡大が消費を止め、生産を低下させ、経済成長を止めていると著者は論じる。これは重要な指摘だ。

 だが肝は、そんなことは投資家には何の関係もない。成長は選挙用の標語で、実際にはもう必要ないらしい、というところにある。金儲けの方法はいくらでもある。たとえば緊縮予算と民営化である。国営が不能率だからというよりも、累進課税をやめたことによる国家財政の弱体化が民営化を余儀なくさせたのだ。そして国債の発行である。大量の国債をまたしても金持ちに儲けさせるために順調に償還させねばならない。

 「政府は、均衡予算や財政黒字は金融投資家から政府が独立するための一時的手段にすぎないと市民に説明するだろう。しかし実際には均衡予算や財政黒字の直接的な目的は、国債への投資が安全で、いつでも好きな時点で返済されることを保証し、貸し手を安心させることである」。

 

理論による脱出の希望

 

 こうしたポスト資本主義の荒涼たる風景が描かれる。

 そこでは、多くの消費者、特に中産階級は、個人の好みに合わせてカスタマイズされた新商品の購入を続けられれば、そしてスポーツ・イベントに狂っていれば、政治参加などはどうでもよくなり、「必然の王国から自由の王国」への移行、個人の自発的な実現が可能な社会になりつつあるという錯覚にとらわれる。ブランド商品を買い、美味しい料理を食べに行く人々は自分で「選んでいる」と思っているが、実はそのように操られていて、これほどくだらないことはない、というブルデューの分析も隠し味にはいっている。末端の人々は、死にもの狂いに働き続けながら、芸能産業の振りまく夢に満足している。

 この永続的な危機、つまり資本主義の終焉の期間は近未来にわたって続き、それへの対処の方法はほとんどない、しかも社会科学にはまずなにもできない、とシュトレークは自分の専門にも懐疑的だ。こうした諦念は『否定弁証法』(アドルノ)の暗い面を引き継いでいる。

 しかし、最も読み応えのあるのは「社会学の公共的使命」を論じた最終章である。戦後の社会学はパーソンズによる社会学と経済学の「相互不可侵条約」以降、経済の問題を扱わなくなってしまった。それはハーバーマスによる貨幣メディア論の中立性でも同じだ。そして社会学は今では、性行為の頻度の研究にうつつを抜かしたり、見通しのつかない社会に見通しをつけるために「まずは基礎データを」などと無意味なことを口にしているだけだ。

 なによりも経済学をもう一度取り入れよう、ということは、マルクスとヴェーバーの伝統に戻ってポスト資本主義の閉塞感の先を見ようではないか、と主張する。これは『否定弁証法』の行間に漂っている「理論による脱出の希望」でもある。閉塞感と希望の両者が揺れ動いているところが、本書の魅力である。

 それに比べると行き詰まったユーロへの処方箋として、銀行間取引でユーロが使われながら、日常では各国通貨が通用していた時期、つまりバスケット方式でユーロが決められていた時期に戻れないだろうか、という提案は学殖のわりに、ただの思いつきに過ぎない。上から目線の経済政策を批判しながら、本人もそれをしているのは、経済を論じる人間の宿痾のようだ。

 宿痾といえば、戦後の福祉国家から現在の福祉切り捨て、金持ちの消費資本主義への変化の道が、必然性の相で描かれていることだ。これも、近代資本主義の誕生を論じたマルクスの遺産に寄りかかる人々の宿痾かもしれない。

 しかし、個人史と同じに歴史は常に、他の道が可能だったという視線は欠かせないはずだ。資本の論理がどこか陰謀理論めかして描かれている(「彼らは次の手を考えた」)のもそのせいかもしれない。

 こうした理論的欠陥はあるものの、現在の荒野の地図を描いた読み応えのある一冊だ。さらには、日本の今の政治が安倍とその一味のゆえだけではなく、部分的にはグローバルな流れで理解せねばならないことも教えてくれる。

 公約無視と権力の恣意的行動はもはや日本だけではない。

 

著者

W・シュトレーク

訳:村澤 真保呂信友 建志

版元 河出書房新社
価格 4536円(税込)
発売日 2017年11月24日
判型 四六判
製本 上製
頁数 362頁
ISBN 9784309248318

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著者略歴

  1. 三島憲一

    大阪大学名誉教授、ベルリン自由大学名誉博士。

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