日本の「野心度」は誰が決めるのか(江守正多)
※『世界』2025年2月号収録の記事を特別公開します。
昨年一一月にアゼルバイジャンのバクーで国連気候変動枠組条約第二九回締約国会議(COP29)が開催されました。同条約のパリ協定に基づいて、各国は今年二月までに、二〇三五年までの温室効果ガスの排出削減目標(国が決定する貢献、NDC)を提出する必要があります。
今回は、COP29の結果を簡単に振り返った後、日本のNDC決定プロセスについて論じてみます。例によって、筆者はCOP29にも今回のNDCの審議会にも参加しておらず、どちらにも参加されている高村さんのお話を伺いたいところですが、今回は筆者が外側からの視点を提供したいと思います。
「資金のCOP」の結果
COP29の最大の議題は、先進国から途上国への二〇二五年以降の資金提供目標額の決定でした。これまでは、二〇二〇年までに年間一〇〇〇億ドルを提供する約束であり、この目標は二〇二二年に遅れて達成されました。今回は、途上国側は年間一兆三〇〇〇億ドルの必要性を掲げましたが、先進国側と折り合わず、夜を徹した交渉の末、二〇三五年までに年間三〇〇〇億ドルを提供することで決着しました。また、民間資金等を含めたあらゆる努力を合わせて、年間一兆三〇〇〇億ドルを目指すことになりました。
この結果に対して、途上国側からは不満が表明されています。先進国はこれまでに起きた気候変動の原因に大きな責任があります。また、世界全体で温室効果ガスの排出量を実質ゼロにする脱炭素化を目指すためには、今後エネルギー需要が増加する途上国が、二酸化炭素を出さないエネルギーを使って発展していく必要があり、そのために先進国の資金的・技術的な協力が必要なのは明らかです。
しかし、先進国側にも大きな資金を簡単に約束できる余裕はありません。財源があるとすれば、間接的なものも含めて世界で年間七兆ドルに達するという化石燃料補助金があげられるでしょう。これを、エネルギーの安定供給をうまく維持しながら、途上国への支援を含む脱炭素へ向けた投資に組み替えていくことが急務に見えます。
COP29ではその他に、パリ協定のルールで積み残しになっていた、温室効果ガスの排出削減量や除去量を国家間で移転する市場メカニズムに関する、六条が合意されました。これが、先進国が自国内の脱炭素化の手を緩めることではなく、先進国と途上国の真の協力による脱炭素化の進展につながることを願います。
一・五度目標と整合するNDC
COP29では、いくつかの国が二〇三五年のNDCを早々と発表しました。英国は一九九〇年比八一%削減、来年のCOP開催国であるブラジルは二〇〇五年比五九〜六七%削減を発表し、各国に野心的な目標の設定を促す機運を演出しました。
日本でも、この目標に関する議論が経産省と環境省の合同審議会で進められてきました。同時に、これと密接に関係する第七次エネルギー基本計画の策定に向けた議論が、資源エネルギー庁の審議会で進められています。本稿執筆時点で審議は大詰めを迎えており、本稿公開時点では結論が出ている可能性が高いですが、以下は執筆時点の状況に基づいて論じます。
昨年一一月の合同審議会において、事務局案として、二〇三五年の目標を二〇一三年比で六〇%削減を軸に検討することが提示されました。これは、二〇一三年の排出量から二〇五〇年ゼロに向けて直線的に削減するペースに相当します。二〇三〇年目標である四六%削減もこの直線上に乗ります。
この六〇%案については、賛否が分かれています。二〇三〇年目標も現状の政策では達成が危ぶまれており、六〇%で精一杯という声がある一方、先進国の責任を果たす上で六〇%ではまったく足りないという声もあります。
筆者は、個人的な気持ちとしては後者の立場ですが、専門家としては、対策の難易度等について十分な知見が無いため、何%が望ましいという言い方は控えています。
ただし、筆者が疑問を持ち、積極的に発言していることが一つあります。それは、政府が六〇%案を、気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の「一・五℃シナリオに整合する目標」と説明している点についてです。
気候変動対策の進捗確認であるグローバル・ストックテイクでも参照されたIPCCに基づく目標の数字は、二〇一九年比で二〇三五年に六〇%削減です。日本の二〇一三年比六〇%は、二〇一九年比に換算すると五三%削減となり、これに足りていません。
元のIPCCの評価には四九〜七七%という不確かさの幅が付されており、五三%はこの幅の中に入っているから整合しているという説明がありますが、勝手な解釈であり、国際的には通用しないでしょう。
さらに、これまでの排出への責任が大きく、削減対策を進める能力もある先進国は、途上国に排出の余地を多く残すため、世界全体のペースよりも早く削減すべきという考え方が一般的です。それを含めて考えると、六〇%案は明らかに不十分といえます。日本が六〇%案を一・五℃に整合すると国際的に表明するとしたら、それは日本が先進国の責任をまったく理解していないと表明することに等しいです。
筆者は日本だけが不十分だと言っているのではなく、他の多くの国の目標もおそらく不十分なものが出てきます。その中で、日本の目標は十分だと強弁するのではなく、不十分だと認めて、今後も不断に深掘りを検討する方が、世界で協力して脱炭素化に向かうことを促す誠実な態度であると思うのです。
日本の審議会行政を疑え
NDCについて検討する合同審議会では、ちょっとした「事件」が起きました。環境省側の委員である池田将太氏(ハチドリ電力代表)が審議会を欠席する回に意見書を提出しようとしたところ、環境省から提出を控えるように要請されたのです。意見書には、審議会の議論の進め方を改善すべきことと、野心的なNDCを求めることが記載されていました。池田氏はその次の回でこの出来事を公表し、審議会のあり方に疑問を呈したのでした。
池田氏は二六歳で、委員としては異例の若さです。彼から見て、審議会が意味の分からない異様な場であったとしても不思議ではありません。そして、筆者も含む多くの若くない委員経験者は、その異様さに慣れきって麻痺しているのだと思います。
審議会の委員は担当省庁が選任し、この段階である程度議論の方向性を制御できると考えられます。さらに、担当省庁が事務局として議題を設定し、資料を用意し、ヒアリングに呼ぶ人を決めるのです(座長はある程度相談を受けるかもしれません)。
そのようにお膳立てされた場の中で、委員が順番にコメントを述べて終わるという様式は、確かに何の意味があるのか疑問です。しかし、多くの委員たちは、それはもうそういうもので仕方が無く、いくら騒いでも変わるものではないからと諦めて、その様式の中に閉じ込められて議論するのです。それが今までずっと続いてきています。
エネルギー基本計画の審議会については、平田仁きみ子んのシンクタンクClimate Integrateによる調査で、委員構成が男性、五〇歳代以上、エネルギー多消費産業関係者に偏っていることなども指摘されています。池田氏の「事件」を契機に、審議会行政のあり方の議論に突破口が開くことを願います。
日本のNDCを決めるのは誰か
筆者は四年前に二〇三〇年NDCを決める際の合同審議会の委員でしたが、このときは、菅政権のリーダーシップでトップダウンに目標が決まったのでした。その決め方にも賛否があるかもしれませんが、今回は逆に、石破政権にこの問題への関心ややる気がまったく感じられず、行政任せになってしまっている感があります。
NDCではありませんが、東日本大震災後の二〇一二年に、当時の民主党政権下でエネルギー基本計画を審議した際には、審議会で「選択肢」をつくり、それを基に「国民的議論」と称して、各地での意見聴取会や無作為抽出の討論型世論調査が行われました。パブリックコメントも異例の九万件近くが寄せられました。すぐ後に民主党政権が倒れたために、この計画はまとまりませんでしたが、国民的議論の結果を参考にして政治が最終判断することになっていました。そういう決め方も、やろうと思えばできるのです。
さらに遡れば、二〇〇九年に当時の麻生政権が二〇二〇年までの排出削減目標を二〇〇五年比で一五%と決めたときも、選択肢をつくって議論して、最後は政治が判断しました。しかし、この目標は、すぐ後に成立した鳩山政権によって、一九九〇年比二五%にトップダウンで上書きされました。
このように過去の例を見ると、最後は政治の責任で判断がなされてきました。(今回も形式的には政治が判断する形を経るでしょうが、実質的には)行政任せの審議会の手続きを踏んでシナリオ通りに粛々と進む今回の決め方は、決して当たり前ではないのです。
トップダウンか行政任せか、はたまた国民的議論を行うか否かは、時の政権次第であると考えれば、結局は、国民がどんな政権を選ぶかが重要という、当然の結論が導かれます。しかし、気候変動が選挙の争点にならないなど、多くの制約がある中、気候変動をなんとかしたい人々にできることは、様々な形で声をあげ、議論を揺さぶり続けることなのかもしれません。