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新刊レビュー/須田桃子『合成生物学の衝撃』 評=池内 了

ゲノムを合成・改変し新しい生物を創る
 
 スタップ細胞騒動の経緯を追求した『捏造の科学者』で大宅賞を受賞した科学担当の記者が、1年間のアメリカ留学の機会を得て「合成生物学」と呼ぶ新しい生物学分野の胎動ぶりを現地調査した記録である。物怖じせずに体当たりするインタビューを取材の基本としており、躍動感が伝わってくる。
 
 合成生物学とは単純に言えば生物学を工学化することで、「生命の設計図」であるゲノムをコンピューター上で設計し、その情報に基づいて合成したり改変したりしたDNAを持つ新たな生物を創ることを目指す。その目的の1つは、生命の仕組みを解き明かすという人類が長年抱いてきた謎に対するチャレンジであるが、もう1つは人類にとって「有用な」生物(のみならず医薬品やバイオ燃料、新たな兵器など生物由来の産物)の合成で、企業が血眼になって投資を行い、軍も莫大な予算を投じる状況が生まれつつある。
 
 本書は、この2つの主題に焦点を絞っての取材報告で、合成生物学がもたらしかねない様々な問題点が炙り出されており、私たちは今の段階からより関心を持って研究の進展を監視し批判する必要があることを強く感じた。これが本書を読んでの第一印象である。
 
ゲノム解析のカリスマ、クレイグ・ベンター
 
 第1の主題である生命の謎へのチャレンジャーの中心人物はクレイグ・ベンターだ。NIH(米国立衛生研究所)という恵まれた研究環境を飛び出し、自らのアイデアを自由に研究できる理想の非営利の基礎科学研究所を創設して、そのカリスマ性を生かして何者にも束縛されずに思い通りに研究を進める道を選んできた。未来の可能性に賭けて投資してくれるバイオテクノロジー企業からの援助を得ながら、NIH時代に大量の特許を取得していたこともあって、それを基に営利目的の企業も併設して資金の確保も図ったのである。ベンターは優れた研究者であるとともに、ベンチャー起業の創立者としての能力を有していたと言える。
  
 ベンターと言えば、30億の塩基対の配列を読み解くヒトゲノム解読計画において、ジェームズ・ワトソンやフランシス・コリンズなどのNIH主流派に対抗して独立して解読作業を行ったことがよく知られている。主流派が全体像を明らかにするというオーソドックスな手法を採ったのに対し、一匹狼のベンターは、長いDNAを断片に切り、各々を増殖させて次々解析し、後からコンピューターソフトを使って解析結果をつなぎ合わせるという「ショットガン法」を採用した。私も覚えているが、当時、主流派が成し遂げたゲノム解読領域の大きさに対してベンターの手法がどんどん迫り、追い抜かんばかりになっていたようであった。そこでクリントン大統領が乗り出して両者が協力し合うことになり、2003年にみんなが揃って解読完了が宣言されたのであった。

自然界に存在しない「設計」された合成ゲノム
 
 ベンターがずっと抱いてきた目標は、生命の基本的な遺伝子の最小のセットをゲノム合成で作成し、機能する細胞を作り出すことで、「ミニマル・セル・プロジェクト」と呼んでいる。コンピューターで設計して酵母の中で合成した細菌(微生物)のゲノムを、異なる種間で生きた細胞に移植して自己増殖することを確かめるというものである。その過程で、安定した分裂に欠かせない数十個の遺伝子群が存在することが明らかになり、それらも含めて分裂・増殖する細胞を創り出すことに成功したのだ。自然界に存在しない最小のゲノムを持つ微生物を人工合成することで、「合成ゲノミクス」とも呼ばれる。ベンターがミニマム・セル構想を打ち出して20年以上経っていた。
 
 ベンターは、生命を形成する最小単位を合成することによって、生命は神秘的なものではなく単なる物質の有機的結合であることを示したいのだろう。とはいえ、結果的に得られたミニマム・セルの遺伝子解析をすると、まったくその機能は知られていないが、ヒトを含む他の多くの種のゲノムに共通する遺伝子が存在することもわかってきた。生命は必要な機能を自己増殖で作り出すらしい。まだまだ未知の要素が多くあるのである。
 
 しかし、合成生物学による種の進化を人間が操るようになっていいのか? 人間ごときの浅はかな目的のために、人類が生命進化の担い手になり、新たな種の創造者となっていいのだろうか? という疑問を著者は投げかけている。

遺伝子改変が容易にできる時代に
 
 実は、本書はもう1つの主題である、遺伝子を合成したり改変したりして、人類にとって「有用な」生物を創り出す問題の方に重点を置いており、それも特に合成生物学の軍事利用の問題点という観点が貫かれていて出色である。
 
 そのきっかけは、「クリスパー・キャス9(ナイン)」と呼ばれる新たな「ゲノム編集」技術の導入で遺伝子改変が非常に効率化されたことなのだが、それと「遺伝子ドライブ」と呼ばれる自然に起こる遺伝機構が組み合わせるというアイデアが結びついたことにある。その結果、ある生物種を絶滅させる兵器にも、感染症の蔓延を抑え込む対策にも使われ得るという可能性が出てきたのだ。
 
 「ゲノム編集」という手法は、取り除きたいゲノムの部位の塩基配列を探し出す効率的な手段のことである。これには、従来はたんぱく質が使われていたのだが、そのガイド役のたんぱく質を作成するのに時間とコストがかかっていた。ところが、細菌のDNA配列に繰り返し配列(これがクリスパー)が見られ、それがかつて感染したウイルスのDNAを取り込んだ記憶であり、再び同じウイルスが侵入してくると、この配列をコピーしたRNAがガイド役になってキャス9というハサミ役の酵素を導いて、ウイルスのDNAを素早く切断して撃墜する、という免疫作用の仕組みに関わることがわかってきた。
 
 そこでこのRNAを自在に設計してガイド役に使えば、ターゲットとなる塩基配列を探し出すことが非常に簡単になり、ハサミ役のキャス9を連れて行けばDNAを素早く切断できるのだ。そこに新たな遺伝子のDNAを組み込んで運べば遺伝子改変も容易にできることになる。これによって、従来1年かかっていた遺伝子改変が10日くらいに短縮できるようになったという。今や、世界中の研究者がゲノム編集という手法を採用している。
 
遺伝子改変動植物が生態系に与える影響は
 
 一方、「遺伝子ドライブ」は、元々有性生殖で生まれる子は二親の遺伝子を50%ずつ受け継ぐのだが、たまに一方の親の遺伝子が50%を上回る確率で引き継がれることがあり、世代を重ねていくとやがてその遺伝子ばかりになってしまうという現象で、以前から知られていた。これを人為的起こすために、対象の生物のゲノムにクリスパー(ガイド役のRNA)とハサミ役のキャス9と改変すべき遺伝子の三つをセットにして挿入するのだ。すると、そのゲノム改変された個体が野生型と交配すると、その子どもの2本の染色体の1本はゲノム編集されたもの、残りの1本は野生のままだが、やがてクリスパー・キャス9の指示に従って酵素が野生型遺伝子を切断し、そこに改変遺伝子がコピーされて修復され、2本とも遺伝子ドライブされた染色体になってしまうようになる。これを多数の個体に適用すると、その生物全体の遺伝情報を書き換えてしまうことが可能になるというわけだ。
 
 このような、ゲノム編集技術を利用して遺伝子ドライブを人為的に促進する技術を、マラリアやデング熱などを媒介する昆虫に使えばこれらの感染症が撲滅できる、農薬や除草剤への耐性を無効にする、固有種絶滅の危機を招く外来生物の個体数を減らす、というような効能が喧伝されている。実際、これまで行われた室内実験によって、遺伝子ドライブの手法が有効であることが証明されているとの報告がある。
 
 しかし、他方では、自然環境中に遺伝子改変した動植物を放つわけだから、生態系にどのような影響を与えるかわからないし、生態系の微妙なバランスが壊れてしまう危険性もある。あるいは、遺伝子ドライブされた動物が施設から逃げ出したため、知らぬ間に改変動物ばかりになってしまうというようなことも起こり得る。遺伝子ドライブが非常に強力であるが故に、自然環境への悪影響が高まる可能性があるのだ。
 
軍事利用の危険性
 
 さらに遺伝子ドライブが「大量破壊兵器」になる危険性も指摘されている。例えば、マラリアを媒介する蚊の唾液腺に毒素を作り出す遺伝子を導入すると、その蚊に噛まれればマラリアと同時に毒も取り込んでいっそう重篤になる。また、花粉を媒介する昆虫や鳥を根絶するような遺伝子ドライブを設計すれば、一国の農業を壊滅させることもできる。遺伝子ドライブなら短期間で自然増殖するため、ほんの数匹の改変個体を放つだけで、生物集団全体に広がってこのようなことが起こりかねないのだ。生物兵器として軍事研究のターゲットになることは明らかだろう。
 
 著者は、このような研究に資金のパトロンであるDARPA(国防研究計画局)に出かけて、どのような意図の下で遺伝子ドライブに対して資金提供を行っているのか質問し、またDARPAから研究資金を得ている研究者やその資金を受けることを潔としない研究者にも当たって、その真意を聞き出そうとしている。その勇猛な記者魂には感心した。
 
 しかし、DARPAは機密研究ではなく、また攻撃目的でもないことを強調し、治療法の開発や攻撃の検知のためであり、生物兵器の可能性のある物質の遺伝子解析が目的である、と言う。DARPAに協力する研究者も公開が自由であり、機敏に資金を活用でき、技術の新しい可能性に魅力を感じたと述べている。そこには誰のための、何のための研究であり、自分の研究がいかなるものに応用され、人々にどのような災厄をもたらすかへの想像力は一切伺えない。それが何の後ろめたさを覚えることなく軍事研究を進めている科学者・技術者の共通した状況と言える。3世代の生物化学兵器の変遷など、生物学の進展とともに変化していく兵器の話題も興味深いが、紙数の関係で省略する。
 
 合成生物学が今後何をもたらすのか、そのことをじっくり考えさせる材料を与えてくれたという意味で、本書は実に貴重である。多くの人が本書を手にされ、さて人類はこのまま野放図に科学・技術の発達を放置していていいのだろうか、と考えるよすがとしてもらえたらと思う。
 

 

著者

須田桃子

 

版元 文藝春秋
価格 1620円(税込)
発売日 2018年4月13日
判型 四六判
製本 上製
頁数 240頁
ISBN 978-4-16-390824-3

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著者略歴

  1. 池内 了

    いけうち・さとる。総合研究大学院大学名誉教授、理学博士。宇宙論・銀河物理学、科学・技術・社会論。1944年生まれ。著書に『科学のこれまで、科学のこれから』(岩波ブックレット)、『科学の考え方・学び方』(岩波ジュニア新書)、『科学者と軍事研究』『疑似科学入門』(岩波新書)、『宇宙の歴史』(岩波書店)など多数。

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