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〈特別公開〉石丸現象とTikTok――若者世代のリアリティ(伊藤昌亮)

『世界』2024年9月号収録の記事を、増補のうえ特別公開します。


 

 2024年7月の東京都知事選挙では、とくに若者世代の支持を集めたとされる石丸伸二氏が大躍進を見せ、蓮舫氏を上まわる票数を獲得した。従来は政治に縁がないと見られていたそうした層を巻き込んだ「石丸現象」とは何だったのか。彼らはなぜ石丸氏を支持したのか。とくにTikTok動画の内容分析を通じて考えてみたい。

 TikTok動画のメッセージ性と「いいね」数

 石丸氏の躍進の一因となったのはそのネット戦略、とりわけネット動画戦略だったとされる。安芸高田市長の時代から古参議員や地方メディアなどとの対立の様子をYouTubeで公開し、そこから「切り抜き動画」を作ることを許諾していた彼は、全国の「切り抜き職人」の手で編集された動画を通じてその勇名を馳せることになった。

 そうした彼のスタイルは、かつての小泉純一郎元首相や橋下徹元大阪市長など、いわゆるポピュリズム(大衆迎合主義)政治家の系譜に連なるものとされる。劇場型の演出で対立の構図を煽りながら既得権益層との対決を訴えるというそのスタイルに、多くの若者が拍手喝采を送ったとされる。実際、YouTubeで再生回数の上位に来ている動画にもそうした「対決型」のものが多い。

 しかしこうした見方で、この現象をいわば外側から捉えるだけでよいのだろうか。彼を支持した若者世代のリアリティを、より内在的に捉える必要があるのではないか。

 そこで筆者はYouTubeよりもTikTokに注目し、しかも再生回数ではなく「いいね」数に着目し、動画の内容分析を試みた。TikTokのほうが若者世代の日常的な生活実感に強く結び付いており、さらにそこでのいいね数を見ることで、彼らの主体的なコミットメントの強さを見ることができると考えたからだ。とりわけ特定のメッセージ性を持った動画にどれだけのいいねが付けられたかを見ることで、彼らが石丸氏のどんなところに共感していたのかを見ることができるだろう。

 まず投票日の九日後、「石丸現象」の熱気がまだ強く残っていた7月16日の時点で、「石丸」「石丸伸二」「石丸市長」のキーワードに関連付けられた動画(「石丸動画」)のうち、いいねが1万件以上付けられたもの128本を対象として、その内容をラベリングし、そこから3つの特徴的なメッセージを抽出した。「老害批判」「マスメディア批判」「若者応援」だ。

 次にそれぞれのメッセージを打ち出していると判定された動画のいいね数を集計し、総いいね数423万5200に対する割合を見た(恣意性を避けるために、判定作業は異なる世代の2名の研究者で行った)。これをメッセージ別の「いいね率」と呼ぶものとする。その際、投票日の7月7日を基準に、それより前に投稿された「投票前動画」と、以後に投稿された「投票後動画」とに分けてその変化を見た。その結果をに示す。

 

図 石丸動画のメッセージ別いいね率(TikTok・7月16日)

 

対決型の背後の応援型の姿勢

 ここからまず明らかになるのは、投票前と投票後でいいねの傾向が大きく異なっていることだろう。

 まず投票後、つまり現在のわれわれの視点に近いところから見てみると、とくに「マスメディア批判」のいいね率が非常に高い。開票速報などのテレビ番組に出演した石丸氏があからさまに敵対的な態度を見せていたことによるものだろう。次に「老害批判」は、市長時代の古参議員との対立を扱った動画が中心となるため、この時期には題材そのものは多くないが、それでもいいね率はそれなりにある。一方で「若者応援」へのいいねはまったくない。

 ここから浮かび上がってくるのは、「マスメディア批判」と「老害批判」のメッセージを掲げ、既得権益層との対決を強く訴えている「対決型」の政治家の姿、その威圧的な姿勢だろう。現在のわれわれの視野に映じている彼の姿だ。

 一方で投票前、つまり彼が急速に支持を広げていった時期の動画を見ると、まず「老害批判」のいいね率がかなり高い。古参議員との対立、それも世代間対立の構図を強く打ち出している動画によるものだ。次に「マスメディア批判」は、一部の地方メディアとの対立を扱った動画が中心となるため、この時期には題材そのものが多くなく、そのためいいね率はそれほど高くない。一方で「若者応援」のいいね率は、「老害批判」に比肩しうるほど高い。

 ここから浮かび上がってくるのは、対決型の政治家の威圧的な姿だけではない。その背後には、「若者応援」のメッセージを強く打ち出している「応援型」の政治家の姿、むしろ友愛的な姿勢が見られるのではないだろうか。

 そうした姿は、特定のメッセージ性を持っていない動画にもしばしば現れる。同級生からの言葉に涙ぐんだり、両親への感謝を口にしたり、コミカルな踊りに興じたりする様子を取り上げた動画では、彼の「いい人」ぶりが好意的に映し出されている。

 さらにそうした姿は、「老害批判」のメッセージを持った動画にもしばしば現れ、対決型の姿と重ね合わせられる。YouTubeで再生回数が上位の動画とは異なり、TikTokでいいね数が上位の動画には、感動を盛り上げるタイプのBGMが付けられていることが多いが、そこでは「老害」と戦っている彼の姿が、若者を応援しているゆえのものとして示され、その奮闘ぶりが感動的に描き出されている。

 つまり支持者たちからすれば彼は、何よりもまず自分たちを応援してくれる存在であり、だからこそ自分たちの活躍の障害となっている「老害」と戦ってくれていると思われていたのだろう。また、彼が「老害」を取り除いてくれさえすれば、自分たちはもっと活躍できるようになると感じられていたのだろう。このようにそこでは、「若者応援」と「老害批判」のメッセージが表裏一体のものとして捉えられている。

 そうしたことから彼はしばしば、あからさまに敵対的な態度を周囲に見せることになるのだろう。世間に向けて敵対的なメッセージを送ることは、支持者に向けて友愛的なメッセージを送ることと表裏一体のものだからだ。

 加えて支持者たちからすれば、彼に応援されることと、彼を応援することもまた表裏一体のものとなっている。つまり彼が自分たちを応援してくれ、自分たちのために戦ってくれているからこそ、自分たちもまた彼を応援しなければならない、というわけだ。いいかえれば彼らにとって「石丸氏への応援」は、「石丸氏からの応援」への返答だということになる。

 そうした両者の関係性から生み出されたのが、熱気に溢れた「石丸応援団」だった。選挙運動期間に入ると、街頭演説の様子を示しながら「石丸氏への応援」を強く打ち出した動画が大量に出まわることになったが、それらは元来、「石丸氏からの応援」に力付けられた支持者たちが、一体となって彼に送り返したものだったのだろう。

 また、「応援」をめぐる両者の関係性をシンボリックに表していると思われるものに、ある曲がある。いいね数が2位の動画のほか、多くの動画でBGMとして使われ、いわば石丸動画の定番ソングとなっているその曲「君に捧げる応援歌」は、次のように歌い始められる。「立ち上がろうとする君に捧ぐ/君への応援歌/全力注ぐ」。

 ここでの「君」とは、支持者たちの応援を受けて「立ち上がろうとする」石丸氏のことであると同時に、彼の応援を受けて「立ち上がろうとする」それぞれの支持者のことだと受け止められていたのではないだろうか。

「前政治的」な領域での自己啓発的な呼びかけ

 では「石丸氏からの応援」とは実際にどんなものだったのだろうか。ここであるアカウントに注目してみよう。

 いいね数が上位5位までの動画を投稿しているのは一般のアカウントだが、6位の動画を投稿しているisimaruizumuは、石丸動画専門に開設されたアカウントだ(ただし最近は「維新の会」関連の投稿が多い)。このアカウントは79本の石丸動画を投稿しており、そのうちいいねが1万件以上付けられたものは5本あるが、それらは「若者応援」のメッセージを強く打ち出しているなど、いずれも応援型のものだ。また、3つのプレイリストが設定されており、それらは上記の3つのメッセージにほぼ対応している。「老害批判」に当たる「石丸論破」、「マスメディア批判」に当たる「メディア追及」、「若者応援」に当たる「ためになる」だ。これらのうち最も多くの石丸動画が登録されているのが「ためになる」だ。

 このように石丸動画にほぼ特化し、その中でも応援型の動画に特化することで多大な人気を博しているこのアカウントの投稿を見ることで、応援型の石丸動画の傾向を、ひいては若者世代に受け入れられている彼の「応援メッセージ」の内実を見ることができるだろう。そこで「ためになる」に登録されている51本の動画を対象に、その内容紹介(キャプションとハッシュタグ)のテキストマイニングを行い、頻出語を抽出した。その結果をに示す(一般的な語は除外してある)。

 

表 応援型動画の内容紹介の頻出語(isimaruizumu)

 

 ここから窺われるのは、彼の「応援メッセージ」の特異さだろう。政治家のメッセージであるにもかかわらず、そこでは政治的な語彙が一切使われておらず、政見や政策が語られることもない。

 代わって語られているのは、勉強の仕方、話し方のコツ、仕事のテクニック、受験や面接の豆知識など、各人が日常的な課題をうまくこなしていくためのノウハウのたぐいだ。自己啓発書に書かれているような内容であり、実際、「気づき」「感動」など、そうしたジャンルにありがちな表現もよく使われている。また、そもそも「ためになる」というリスト名自体が自己啓発書を思わせるものだろう。

 通常、政治家は政治的な語彙を用い、政治的な議論の領域で人々に訴えかける。それに対して彼はむしろ政治以前の領域、いわば「前政治的」な領域を設定し、そこで人々に呼びかけているように見える。

 一般に政治的な領域では、「世の中をいかにしてよくするか」という問題意識が議論の軸となる。それに対してこの領域、前政治的な領域では、世の中のことにまで意識が及ばず、「自分自身がいかにしてよく生きるか」という問題意識に関心が集中している。しかも抽象的な議論にではなく、日常的な課題をどうこなしていくかという具体的な点が問題とされる。いかにして成績を上げ、受験にパスし、面接を突破し、仕事でよい評価を勝ち取るか、つまりいかにして自己実現を成し遂げるかという点だ。

 そうした領域で人々に呼びかけるために必要となるのは、政治的な議論などではなく、むしろ自己啓発的な語りだろう。その点を彼は理解し、いわば確信犯的に実践していたのではないだろうか。

 そうした彼のアプローチは、とくに若者世代のリアリティに即したものだったと言えるだろう。経済成長の時代を知らず、そもそも「世の中がよくなる」という実感を持つことができない彼らからすれば、「世の中をいかにしてよくするか」を語られても、空疎なフィクションのようにしか聞こえないだろう。彼らの多くは世の中のことにまで気がまわらず、「自分自身がよく生きる」ことだけに汲々としている。いいかえれば「世の中をどうこうする」よりも「自分を何とかする」だけで手一杯になっている。

 そうした状況に置かれている彼らに声を届け、彼らを応援するためには、政治的な領域から訴えかけるのではなく、前政治的な領域から呼びかけなければならない。そこで彼は政見や政策を語ることをやめ、自己啓発的な語りに専心していったのではないだろうか。

 その際、「若者応援」と「老害批判」のメッセージが表裏一体のものとなっていたことから、彼らの自己実現の障害となっているものとして「老害」が捉えられた。つまり彼らが自己実現を成し遂げるためには、その障害となっている「老害」を取り除かなければならないと考えられた。その結果、自己啓発的な語りの合間に、あからさまに攻撃的な態度が示されることになる。

 彼に向けられた批判の一つは、具体的な政策もなく攻撃ばかりしているというものだった。実際、街頭演説の場などでも政策が語られることはあまりなく、「自分語り」が繰り返されるようなことが多かった。しかしそのこと自体が、つまり政治的な領域が空白であること自体が、前政治的な領域が重視されていることの裏返しとして、実は彼にとっての最重要政策、つまり若者世代を応援するという政策の表れだったのではないだろうか。

ネオリベラリズムの内面化とリベラリズムの額面化

 次に石丸氏のイデオロギー上の立ち位置を、「先達」のポピュリズム政治家としての小泉氏や橋下氏の場合などと比較しながら考えてみよう。

 小泉氏の場合も橋下氏の場合も、既得権益層との対決を訴える際に準拠していた考え方は、ネオリベラリズム(新自由主義)だった。自己責任のもとでの市場競争を最大化し、「小さな政府」の実現を目指すというものだが、とりわけ日本の政治風土の中で「改革」に結び付けられる場合、それは独特の意味を持つものとなる。「大きな政府」としての「福祉国家」を縮減するだけではなく、その背後にある旧来のシステムを打破することにその眼目が置かれた。そのために小泉氏は構造改革などを訴え、橋下氏は行政府の刷新を目指した。

 一方で石丸氏は、市長時代に旧来の体制と敵対し、改革の姿勢を強く打ち出してはいたが、しかし構造改革や行政府の刷新など、あるいは歳出削減や減税など、ネオリベラルな政策を明示的に掲げているわけではない。そのため一見する限りでは、彼はことさらネオリベラルな政治家には見えない。

 しかし実際には、そのアプローチそのものの中にネオリベラルな考え方が示されていたのではないだろうか。政治的な領域と前政治的な領域との組み合わせによる、その独自のアプローチの中にだ。

 まず前政治的な領域に目を向けると、自己啓発によって自己実現を図るというその志向自体が、自己責任のもとでの自助を目指すという、ネオリベラリズムの基本的な考え方に沿ったものだった。いかにして成績を上げ、受験にパスし、面接を突破し、仕事でよい評価を勝ち取るかなど、日々の競争を生き抜いていくためのノウハウを血肉化することで、そこでは日常生活が競争化され、競争原理が日常化される。

 一方で政治的な領域では、それが空白であること自体が、「小さな政府」の究極のあり方をシンボリックに示しているものだった。そこは元来、政治的な調整、それもとりわけ再分配のための調整がなされる場であり、そこが空白であることは、再分配をめぐる政治、すなわち福祉政治への意識が限りなく希薄であることを意味する。いわばそこでは「福祉国家」が、あらかじめ極限まで縮減されてしまっている。

 このように彼のアプローチには、その構成そのものの中にネオリベラルな考え方が強く打ち出されていた。彼の中では、ネオリベラリズムがごく当たり前のものとして内面化されており、だからこそネオリベラルな政策をあえて掲げる必要もなかったのだろう。

 だとすれば彼は、やはり小泉氏や橋下氏と同様に、あるいはそれ以上にネオリベラルな政治家だと位置付けることができるだろう。経済的な左右の軸で見れば、右派的な立場ということになる。

 では文化的な軸で見た場合にはどうだろうか。かつては小泉氏が靖国神社への公式参拝を強行したり、橋下氏が従軍慰安婦問題をめぐって問題発言をしたりするなど、「改革」志向のポピュリズム政治家が歴史認識問題などをめぐり、右派的な立場を示すことがよくあった。同様の志向を持つ政治家である河村たかし名古屋市長などは、歴史修正主義的な発言を繰り返し、極右的な立場を示している。

 一方で石丸氏にはこうした傾向は見られない。今日では歴史認識問題よりも、ジェンダーやエスニシティに関わる多様性の問題のほうが争点となることが多いが、彼はいずれの点でもむしろ左派的な、リベラルな立場を示している。たとえばフェミニストの社会学者、上野千鶴子の著作を高く評価し、女性の苦労を思いやる姿勢を議会の場で示したり、あるいは記者会見の場で、関東大震災の際に虐殺された朝鮮人の追悼式典に出席することを表明したりしている。なお、今回再当選した小池百合子氏はそこに追悼文を送ることさえ拒み続けている。

 こうしたことからすると彼は、少なくともその公式見解からすれば、文化的にはむしろ左派的な、リベラルな政治家として位置付けられるだろう。

 しかし一方でよりリラックスした談話の場では、「女子供」という表現や「一夫多妻制」という発想が飛び出してくるなど、極端に権威主義的な考え方が示されることもある。だとすれば彼の中では、リベラルな考え方は、ネオリベラルな考え方がそうであるように深く内面化されているわけではなく、ある種の公式見解のレベルに留まっており、真正な感情となるには至っていないように思われる。いわば「額面化」されている状態なのではないだろうか。

 以上をまとめると彼の立ち位置は、経済的には右派的でネオリベラル、そこではネオリベラリズムが内面化されており、一方で文化的には左派的でリベラル、そこではリベラリズムが額面化されている、ということになるだろう。

 こうした組み合わせは、一見矛盾しているように見えるが、しかし実際には今日の日本社会、とりわけ企業社会ではごく当たり前のものであり、その是非は別として、むしろ主流のイデオロギーとなっているのではないだろうか。たとえば財界の牽引役である経団連は、ネオリベラルな考え方を日本社会の隅々にまで浸透させることに努めてきたが、昨今では「ダイバーシティ&インクルージョン」を唱道し、リベラルな考え方の普及に取り組んでいる。

 そうした環境の中に生きている多くの人々、とりわけそこで自らの価値観を形成してきた若者世代からすれば、彼のイデオロギー感覚は、その是非以前の日常的な生活実感として、ごく当たり前のものに感じられたのだろう。一方で他の主要な候補者は、そうした当たり前さに訴えることがなかった。元来は小泉氏や橋下氏と並走してきたポピュリズム政治家である小池氏は、経済的にも文化的にも右寄りであり、一方で蓮舫氏は、経済的にも文化的にも左寄り、田母神氏に至っては文化的に甚だしく右寄りだった。

成長が困難な時代の成長戦略として

 では石丸氏のこうしたイデオロギー感覚、とりわけネオリベラリズムの内面化という点は、若者世代にとってどのような意味を持つものなのだろうか。その背景に目を向けながら考えてみよう。

 自己啓発によって自己実現を図るというその志向は、一人一人が自己の成長を目指すことを意味するものだ。それはいつの時代でも若者世代に求められてきたことだが、しかし今日の社会ではややニュアンスが異なっている。

 低成長の時代しか知らず、社会全体が成長していくというイメージを持ちにくい彼らには、その一員であるだけでは成長できないという感覚があるのではないだろうか。つまり社会の成長戦略は当てにならず、それに乗っていてもジリ貧になるばかりなので、自己の成長戦略が別途必要だ、というわけだ。その結果、「社会のよき一員」になるよりも「よき自分」になることが重視され、自己啓発的な意識が高まる一方で、社会的なものへの関心が薄らいでいく。

 いわば社会は当てにならないというそうした感覚は、とりわけ社会保障をめぐる議論に顕著に現れる。ジリ貧になっていく社会保障制度のもとでは、自分の将来が守られるかどうかもわからないのに負担は増すばかりなので、もっぱらその受益者だと見られている高齢者に不満がぶつけられ、「老害批判」が加速される。また、どうせ当てにならないのなら負担は小さいほうがよいということで、社会保障給付全体の抑制が求められ、「小さな政府」が追求される。

 こうして近年、とくに若者世代の意識の中には、自己啓発的な志向と結び付きながらネオリベラルな考え方が浸透してきたのではないだろうか。

 ただしそれは、市場競争を勝ち抜いていこうとする者にありがちな強者の論理などではない。むしろ弱い立場に置かれた者が自らの身を守り、何とか生き残っていくための精一杯の手立て、いわば頼りないサバイバル術だ。

 そうした手立てとして今日、最も広く活用されているのは個人投資だろう。賃金は上がらず、年金も当てにならないことから、自分の将来を自分で守るために投資に勤しみ、少しでも資産を増やしていこうとしている人たちも多い。昨今では自民党政権自体が新NISAなどを推奨し、各人が資産運用に励むよう呼びかけてさえいる。経済成長の戦略や社会保障のビジョンを示すというその本来の責務を、まるで放棄してしまったのかのようにだ。

 しかし投資は、サバイバル術にはなるかもしれないが、自己の成長戦略としては劣悪なものだろう。なぜならそれは自己に投資するものではないからだ。通常、投資先は企業であり、投資によって企業の成長が促されることはあるが、各人の自己の成長が促されることはない。それどころか株価の変動に一喜一憂しながら過ごすうちに、仕事や勉強に打ち込むことができなくなり、より本来的な意味で自己に投資する余裕がなくなってしまう。

 だとすれば投資とは、自己の成長とは無縁のもの、あるいは成長の余力があまりなく、いわば自己実現を半ば諦めてしまった人たち向けのサバイバル術だと考えることができるだろう。では諦めていない人たち、とくに成長への意欲を強く持っている若者世代はどうすればよいのか。

 そこに届けられたのが彼の「応援メッセージ」だった。そこではいかにして成績を上げ、受験にパスし、面接を突破し、仕事でよい評価を勝ち取るかなど、いわば正攻法としてのサバイバル術が語られる。投資で一攫千金を狙うなど、昨今よく聞かれるような抜け道的な「チート」が指南されているわけではない。彼のそうした「真っ当さ」もまた、支持者からの好感を呼ぶ一因となっていたのだろう。

 ここで彼の政策を思い出してみよう。その「成長戦略」の筆頭に挙げられていたのは「教育への投資」だった。具体的な内容に乏しく、しかも経済成長に直結するようなものでもなかったため、政策として評価されることはなかったが、彼としては本気の提案だったのだろう。つまり充実した教育によって各人の自己の成長が実現すれば、その総和としての社会の成長も実現する、というわけだ。それは前政治的な領域での自己の成長戦略を、政治的な領域での社会の成長戦略につなげようとするアプローチだったと言えるだろう。

 元来、仕事や勉強などの本分の領域で成長し、自己実現を成し遂げることを願っている若者世代からすれば、彼のこうした政策は、いかに漠然としたものであれ、「一億総株主化」による「資産運用立国」を目指すなどという自民党の政策と比べれば、はるかに建設的なものに感じられたのではないだろうか。しかもそこで彼は「投資」という語を、金融商品に対するものとしてではなく、もっぱら人的資本に対するものとして使っている。

 たとえ低成長の時代だろうと、若者世代は成長への意欲を強く持ち、そのための投資を望んでいるはずだ。成長が困難な時代に、それでも何とか成長したいと願っている彼らにとって彼の「応援メッセージ」は、その成長戦略を示してくれるもののように感じられたのだろう。

社会的弱者への配慮と福祉政治

 以上のような石丸氏のアプローチは、では若者世代にとって真に救いとなるものなのだろうか。とくにリベラリズムの額面化という観点から考えてみよう。

 これまで見てきたように彼のアプローチは、若者世代を応援するという立場からすれば一貫したものだ。高齢者を攻撃しているその冷酷な姿さえ、「老害批判」は「若者応援」のメッセージと表裏一体のものとなっているとして正当化されることになる。

 しかしそこには、実は大きな矛盾があるのではないだろうか。というのも彼に攻撃されている高齢者の姿は、彼に応援されている若者たちの将来の姿でもあるからだ。

 自己責任のもとでの自助を目指すという彼の方針は、すべての人の成長と成功を保証するものではない。どんなに頑張っても成績が上がらず、受験に失敗し、面接もうまくいかず、仕事で評価されない人もいるだろう。むしろそうした人たちのほうが多数派であり、成功を手にすることができるのはほんの一部にすぎない。それ以外の人たちは、自分の将来を自分で守ることもできないまま、やがて無力な高齢者にならざるをえないだろう。

 そうした人たちは、彼のアプローチからもたらされるような「小さな政府」のもとでは、十分に守られることはない。それどころか社会保障制度の「お荷物」として、とりわけ若者世代から攻撃されることになる。「老害批判」の動画の中で彼がやっているようにだ。

 もちろん彼が実際に攻撃しているのは、主として有力な古参議員であり、単に無力な高齢者というわけではない。しかし「老害批判」のメッセージが独り歩きしていき、しかも「若者応援」という絶対的な免罪符のもとで拡大解釈されてしまうと、無力な高齢者が見境なく叩かれるという事態にもなりかねないだろう。そのとき攻撃されることになる者の中には、現在彼に応援されている若者たちの一部も含まれているかもしれない。

 そもそも彼が若者世代を応援しているのは、その将来が不透明だからだろう。いいかえれば彼らの将来不安を取り除くために彼はサバイバル術を指南している。ところがその一方で、無力な高齢者が徹底して叩かれるような、いわばディストピア的な将来像を見せつけられると、彼らの将来不安はむしろ増大してしまうのではないだろうか。つまり逆効果となり、その結果、多くの支持者が彼のもとから去っていくことになるだろう。

 結局、彼のアプローチでは支持者をつなぎ留めることはできないだろう。また、多くの人々の信頼と信任を得ることもできないだろう。なぜならそこには、社会的弱者への配慮が決定的に欠けているからだ。

 つまり若者世代の窮状を重視するあまり、より本来的に弱い立場に置かれた人々に配慮することが、そこではすっかり忘れ去られてしまっている。高齢者は叩かれるばかりの存在と化しているし、さらに障害者、低所得者、シングルペアレントなどの存在が顧慮されることもない。通常は、そうした人たちにどう対応するかを提案すること自体が政策の重要な柱となるはずだが、彼にはそうした視点がない。

 そもそも若者と高齢者は分断された存在ではないはずだ。若者もいつかは高齢者になるのだし、さらに障害者、低所得者、シングルペアレントなどになることもあるだろう。しかし彼のアプローチでは、両者が敵と味方に完全に分けられてしまっているため、社会的弱者への配慮がそこに生じる余地がなく、また、そうした配慮が彼ら自身に跳ね返ってくる余地もない。だとすればそこからもたらされるのは、むしろ彼ら自身も配慮されることのない、いわば誰にとっても「配慮されにくい社会」だろう。

 元来、社会的弱者への配慮という点をさまざまに考えてきたのはリベラリズムの思想だが、そこには大きく分けて二つの立場がある。一つは従来型の「福祉政治」であり、高齢者、障害者、低所得者などの生活困窮者を経済的弱者として捉え、主に社会保障政策によってその救済を図るというものだ。もう一つは今日的な「アイデンティティ政治」であり、女性、外国人、LGBTQなどのマイノリティを文化的弱者として捉え、主に人権政策によってその支援を図るというものだ。

 彼のアプローチでは、これらのうちアイデンティティ政治が、いわば流行りものとして表面的に取り入れられているにすぎないと言えるだろう。一方で福祉政治は、そもそもネオリベラリズムの考え方に対立するものであり、両者の間の対立を調整するための場である政治的な領域が機能していないことから、取り入れられる余地すらない。その結果、「ダイバーシティ&インクルージョン」の金看板が広げられる陰で、そこでは福祉政治への意識が、したがってさまざまな社会的弱者への配慮が限りなく希薄になってしまっている。

 彼の「応援メッセージ」に鼓舞され、やる気を出した若者でも、努力を続けていくためにはさまざまなサポートが必要になるはずだが、そうしたサポートが容易に得られるためには、「配慮されやすい社会」が実現されていなければならない。一方で彼のアプローチからもたらされるような社会、「配慮されにくい社会」では、彼らが努力を続け、自己実現を成し遂げることは結果的に難しいのではないだろうか。だとすれば彼のアプローチは、若者世代を一時的に鼓舞するものではあれ、持続的に支援するものではないと言えるだろう。

おわりに

 以上見てきたように、石丸氏が大きな支持を得ることができたのは、彼と支持者との間に独特の関係が取り結ばれ、そこにある種の共通感覚が形作られていたからだ。とりわけネット動画を通じてそうした関係を構築することで、従来は政治に縁がないと見られていた層を大きく掘り起こすことに彼は成功した。

 しかし一方でその背後には、若者世代のリアリティに届くような声を従来の政治が発してこなかったという事情もあるだろう。成長と自己実現を願いながら、しかしそうした意欲をどう実践していけばよいのかわからない彼らの不安な気持ちに、保守派もリベラル派も真正面から向き合おうとはしてこなかった。

 とりわけ今回、彼に大きく支持を奪われることになったリベラル派には、成長よりも均衡を重視し、経済よりも文化を優先させるという傾向がかねてより強くある。つまり従来の平和問題や環境問題から今日のアイデンティティ政治に至るまで、一連の「文化政治」がその関心の中心を占めてきた。

 それらの問題意識は、とくにかつての高度成長の時代には、経済成長一辺倒の保守政治の暴走を食い止めるという意味で確かに有効なものだったが、しかし今日、成長が困難な時代に、それでも何とか成長しようともがいている彼らにとって、どれだけのリアリティを持つものだったのだろうか。そうした点をリベラル派は、今回の件を機にあらためて検討してみる必要があるだろう。

 なお、本論ではとくに若者世代に即して議論を進めてきたが、しかし実際の投票では、10代・20代に次いで30代・40代・50代の投票者の支持率が高かったことが報告されている。母数となる投票者数との関係で見ると、彼の得票数へのインパクトが大きかったのは、むしろこれらの中年世代だったということになる。

 では若者世代に関わる議論は、限定的に捉えるべきものなのだろうか。実はそうではなく、むしろ逆に拡張的に捉えるべきだろう。というのも今日の社会では、これらの「中年世代」もかなりの程度「若者世代」化していると考えられるからだ。もちろん生理的な意味でではなく、社会的な意味でだ。

 かつての社会では、若者とは一時的な存在だった。つまり不安定で流動的な存在、社会の中心部に腰を落ち着ける以前の「周縁的人間」だと捉えられていたが、一方で中年期になると、どこかに足場を見つけ、そうした状態から脱すると考えられていた。

 しかし今日の社会では、とりわけ雇用の問題から、不安定で流動的な状態からいつまでも抜け出すことのできない人たちが多い。彼らは「周縁的人間」のまま、成長と自己実現のための機会を十分に与えられることもなく、その結果、そのための欲求をいつまでも持ち続けることになる。いわば「永遠の若者」だと位置付けることができるだろう。今回、石丸氏を支持した中年世代の中には、そうした人たちも多かったのではないだろうか。

 だとすれば若者世代について考えることは、彼らについて考えることにもなり、また、彼らを生み出し続けている日本社会の構造について考えることにもなる。そうした視角から「石丸現象」を見ることで、われわれの社会が抱えている問題がより鮮明に浮かび上がってくるのではないだろうか。

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著者略歴

  1. 伊藤昌亮

    1961年生まれ。成蹊大学文学部現代社会学科教授。メディア研究。著書に『炎上社会を考える』(中公新書ラクレ)、『ネット右派の歴史社会学』(青弓社)、『デモのメディア論』(筑摩選書)、『フラッシュモブズ』(NTT出版)など。

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