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新刊レビュー/紅野謙介著『国語教育の危機——大学入学共通テストと新学習指導要領』 評=佐藤泉

「実用化」する国語教育
 
 本書は「緊急出版」の意味合いがきわめて強い。
 
 2020年度から、従来のセンター入試に代わって新形式の「大学入学共通テスト」が実施されることが決まっている。「国語」についてもすでにいくつかサンプル問題が公表されているが、そこには架空の自治体が作ったチラシや、駐車場の契約書、生徒会規約などの「実用的」な「資料」が並んでおり、これまでの「国語」観を一変させる内容となっていた。「新テスト」、そしてその前提となる「新学習指導要領」を批判的な視点から分析した本書は、なにより国語教育の未来を危惧する広範な読者に衝撃をもたらしている。
 
 まず、新指導要領が掲げる新たな「国語」観の問題、そしてそれに準拠した新テストの実態とに分けて考えてみよう。新指導要領は、情報が氾濫する現代社会を生きなければならない子どもらの将来を見据え、複数の資料から適切な情報を得て、それらを比較したり関連付けたりする能力を育むことをこれからの「国語」の根幹に据えている。この「目的」はひとまず理解できることとして、しかし本書が示している通り、新テストのモデル問題にあってはとにかく「複数の資料」を並べるということ、それ自体が自己目的化し、さらにノルマ化している様子が見て取れる。
 
 限られた時間内に全部読めるか心配になるほどの分量であるにもかからず、設問は複数資料を相互参照せずとも解き得るものであったり、大部の資料のうちで設問に関わるのはごく一部であったりと、結局この新しい形式が大学の入試問題として有効に機能しているとはとても思えない。そして筆者は「実用的」な資料がどれも新聞の「無署名」記事のごとき「客観性」を装っていることを指摘し、その点にこれまでの「国語」の発想と大きく異なる質を見出している。署名のある文、すなわち情報源の示された文と違って、読み手が批判的に相対化して読む余地がそこにはないということだ。複数資料を掲げはした。だが、むしろその時、情報化社会への対応という当初の目的が本質的なレベルで置き忘れられたのではなかろうか。
 
何を目的にした「記述式」か
 
 では、これまでのマークシート方式に代わって改革の目玉となる「記述式」問題はどうだろう。この場合も、集めた情報をもとにして、自ら考え、それを論理的に表現するという指導要領の「目的」は理解できることとしよう。だがその前に、数十万人もの「記述」をどうやって採点するというのか。これについて当局は、心配ない、と答えるだろう。英語入試に民間業者を導入するように、もしくは改正水道法のように、「記述式」の採点作業もまた「民営化」が既定路線となっている……。
 
 さらに心配は消えない。採点にブレが出ないように基準を明確化しなければならないのである。そこで、文字数のみならず「全体を二文でまとめること」「一文目は『確かに』で始めること」「二文目は『しかし』で始めること」といった注文が付けられており、結果的に受験者は指定された型の枠内で作文することになるのだ。やはり「記述式」の場合も、それをなんとしてでも導入すること、それ自体が目的化し、そのかわりに真の「目的」がどこかへ消えていったのではなかろうか。その他、「新テスト」の問題点はここで紹介しつくせない。ぜひ本書を手にとってほしい。私はなにか巨大な徒労の感覚に襲われた。
 
 ここまで、「新指導要領」の方向性についてはあえて判断を保留してきた。なにしろ新しい「国語」への道は善意で敷き詰められているのだから。情報化とグローバル化など社会の変化が加速度的に高まるなか、これからの子どもは現代的な諸課題に対応できなければ生き延びることができない。われわれは変化の踊り場にいるのであり、今変わらなければ子どもたちの将来がふさがれる、国語も変わらなければならない、ということだ。だが、こうした切迫した問題意識は、子どもたちの未来をあらかじめきわめて狭い特定の道へと限定してしまうのではないか。
 
「論理」と「文学」が分断される
 
 今次改訂の前提には、これまでの国語教育においては教材の読み取りが中心になってきた、ことに文学作品の読解に偏してきた、という認識がある。自分が高校生だった頃の国語イメージではなかろうかという気もするが、とにかく、これまで「羅生門」で学ぶのでなく、「羅生門」を学ぶことに傾斜してきたという認識である。そこで今回、「文学」の領分がしかるべき範囲に画定されることとなったのだろう。
 
 新しい選択科目として「論理国語」と「文学国語」の設置が決まった。科目名それ自体によって、論理の中に文学性はなく、文学性のなかに論理性はないかのような表象を生むのではなかろうかと私はたじろいだ。偏頗な論理観、文学観であることは疑いないが、しかしこれは必ずしも文学敵視に動機付けられているわけではないことに注意しよう。おそらく、個々の作品の内容、個別性を大切にする文学の発想が、新しい学力観に抵触するのだ。
 
 変化の速い現代社会において、個々の内容は一〇年たてば古くなる。それゆえこれからは、内容以上に思考力、判断力、表現力といった「力」そのものを育てるべく教育観が変わっていかなければならない。「ゆとり」と「詰め込み」の二項対立を止揚するという新指導要領は、もちろん知識内容を軽視してはいない。しかし一方で、先に見た「新テスト」の「実用文」例が文章の内容を重要視しているとはとても思えない。
 
できの悪い人工知能
 
 内容の理解なき抽象的な学習能力など、かつては想像するのが難しかった。小林秀雄は、花の美しさなんてものはない、あるのは美しい花だといったものである。しかし現在ではディープラーニングの活用によって成功をおさめた人工知能の確固たるイメージがある。彼らは画像を判別することができるが、その画像を内容の面で理解判断しているわけではない。それでも学びは内的に更新され、深い学びが可能になっている。
 
 杞憂であればと思う。だが、これからの教育は個々の内容の具体性、個別性の理解を軽んじながら「深い学び」を進めようとするものになっていくのだろうか。そこにはかなり出来の悪い人工知能としての「新しい人間」が誕生するのではないか。私は学生のころ、卒業論文を書くために夏目漱石の小説を一生懸命に読んだ。西田幾多郎が使うような語でなく、生活の中の日常語によってこれほどの論理を構築することが可能なのだということに気付いて、一種の感動を覚えたものだ。
 
 その頃の私は少なくとも出来の悪い人工知能よりいくらかマシな国語力があったはずである。そう思いたい。

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著者略歴

  1. 佐藤 泉

    さとう・いずみ 1963年生まれ。青山学院大学文学部教授。日本近代文学。著書に『漱石 片付かない〈近代〉』、『戦後批評のメタヒストリー 近代を記憶する場』、『国語教科書の戦後史』、『一九五〇年代、批評の政治学』など。

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