【新刊レビュー】執念のルポルタージュ ――『記者襲撃』(樋田毅) 評者:青木理
激動の季節に起きたテロ事件
1987年5月3日、朝日新聞の阪神支局襲撃事件が発生した当時、私は東京でひとり、大学生活を送っていた。
内外ともに激動の時期だった。グリコ・森永事件、連続幼女誘拐殺害事件、リクルート事件、昭和天皇の死、天安門事件、ソ連・東欧の崩壊と冷戦体制の終焉。新聞記者になろうと決めていた私は、内外の激動に息を飲みつつ、散弾銃で記者が殺傷された阪神支局襲撃事件に最も衝撃を受けた。
「反日分子には極刑あるのみ」。そんな犯行声明と襲撃犯には強烈な反発を抱いた。ただ、不思議と恐怖は感じなかった。そういう目に遭うこともありえる仕事だとは思ったが、記者になるのをやめようなどとは微塵も考えなかった。
あれから30年。実際に私は通信社の記者となり、10数年後に社を離れてフリーランスとなり、いまもこうして原稿を書いている。あっという間ともいえるが、決して短い時間ともいえない。「十年一昔」という慣用句に従えば、30年はかなり長い。事件はずいぶん遠景へ過ぎ去ってしまった感もぬぐえない。
「広域重要指定116号事件」
その間、事件を執念深く追いつづけた朝日の記者がいる、という話はもちろん聞いていた。苦労は並大抵なものではないだろう、とも推測していた。言論に真正面から刃を向けたテロ。阪神支局襲撃事件をはじめとする一連の事件を警察庁は「広域重要指定116号事件」に指定し、警察やメディア関係者は「116=イチイチロク」の符号で事件を呼んだが、警察捜査は一向に核心へと迫れない。ついには2002年、時効によって迷宮入りしてしまった。
しかも朝日の記者たちは、事件の取材者であると同時に、被害者でもあった。取材の過程では、加害者の可能性もある被取材者と真正面から接触していかなければならない。警察当局との関係も一筋縄ではいかない。
本書『記者襲撃 赤報隊事件30年目の真実』は、そうした苦悩を抱えながらも30年、地べたを這いまわってきた記者の全記録である。著者は「あとがき」でこう明記している。
〈書き残すべきことを、すべて書く。私は、そんな思いで、本書を書き始めた。しかし、阪神支局襲撃事件の発生以来、30年に蓄積された取材資料は膨大である。私の書斎には、取材ファイル・メモ類だけで約300冊。東京・大阪の社会部と神戸総局・阪神支局には、その数倍、数十倍の取材ノートが眠っている。一連の事件の取材に関わった朝日新聞の記者は全国で数百人に達すると思う。そして、取材した情報のうち、記事の形になったのは、ごくわずか。恐らくは1パーセントにも満たないのではないか〉
書くべきことを書いたルポ
30年積み重ねた膨大な取材。そのうち著者が直接見聞きし、取材したという内容が本書に結実した。また著者は朝日の記者として事件を追いつつ、しかし朝日を離れてから本書を著した。その理由をこう書いている。
〈私は2017年12月25日、朝日新聞社を退社した。すでに年齢が65歳を越えていたという事情もあったが、この本の出版に備えての退社でもあった。朝日新聞社の社員としてではなく、より自由な立場で執筆、編集したかったのである〉
〈私は朝日新聞社を故意に貶めるつもりなど毛頭ないし、現在の日本社会で朝日新聞社が必要だと考えている人間の一人である。しかし、だからこそ、取材班の周囲で起きた出来事について、朝日新聞社の一時的な利害を優先させて、書かないで済ませることはできなかった。その結果についての責任は、筆者の私が負うしかないと覚悟している〉
ここにある「書かないで済ませること」ができなかった「出来事」については本書に譲るが、膨大な取材の積み重ねと、取材者としての最大限の誠意が、そこには込められている。
もちろん、残念ながら本書も襲撃犯にはたどりつけていない。ただ、激動つづきだった30年前から粘り強く取材をつづけた著者のような記者の存在が、言論に真正面から向けられた許しがたきテロに対する、言論による最大の抵抗にほかならないと私は確信した。