【特別公開】本とチェック:ノーベル文学賞をハン・ガンの引き出しに入れておいた(金承福)
※『世界』2024年12月号収録の連載「本とチェック」第19回を、ハン・ガン氏のノーベル文学賞受賞を記念し特別公開します。
毎年一〇月初旬になると、日本の新聞社数社から韓国の作家がノーベル文学賞を受賞した場合、ぜひともコメントをお願いしたいと、いわば「コメント予約」が入る。以前は詩人高銀(コ・ウン)さんのお名前が上がっていたが、二、三年前からはファン・ソギョン、キム・ヘスン、ハン・ガンに変わってきた。クオンではこの三人の作品がすべて揃っているため、毎年少しは期待していた。あらかじめ作家ごとのコメント案を用意する。しかし用意といってもまさかという気持ちが入っているので、少しふざけたコメント案になってしまう。
今年の発表日は一〇月一〇日。午後六時頃、神保町を散歩しながら、もしハン・ガンがノーベル賞を受賞したら、どんなことばで彼女のことを皆さんに紹介したらいいか急に焦りはじめた。そこでハン・ガンの作品をたくさん翻訳してきた斎藤真理子さんに相談しようと電話をかけた。真理子さんはおそらく真剣なコメントになるだろうから私はハン・ガンに会った時の話をしよう、と呼び出し音を聞きながら考えていた。ある程度考えがまとまったが真理子さんはまだ電話に出ない。繫がらない。真理子さんは忙しい。
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私の頭の中にはすでに別の案件が入り込んだ。一〇月一八日から二一日まで予定している「文学で旅する韓国―統営(トンヨン)・巨済(コジェ)編」のことである。大河小説『土地』の全二〇巻が今年の九月末に完訳された。これを記念して読者三〇人ほどとともに著者・朴景利(パク・キョンニ)さんの故郷である統営へ行く旅だ。
お墓の前で全二〇巻を気持ちよく広げて、翻訳者たちと一緒に韓国式に大きく철(チョル。おじぎ)をするシーンを想像する。翻訳者二人と一列になって墓前に立つ場面を想像するだけで、急に胸が熱くなった。私自身は出版社の社長として指揮を執るだけだったが、吉川凪さんと清水知佐子さんは長い時間を渾身の力を込めて翻訳に取り組んできた人たちだ。読者から早く出してほしいという声もあり、自分も長引くのがしんどかったこともあり「一人が一年に二巻ずつ翻訳をするのはどうか」と無茶なことを言ったりもした。その時、吉川さんから「一年中『土地』の中にいるのは辛いです。『土地』を一巻やってまた別の作品を訳すことで精神的なバランスを取りたい」と答えが返ってきた。
清水さんも『土地』に埋もれて、ひどい肩こりで腕が上がらない辛い時間があったことを私もみてきた。二人は『土地』と並行して実にさまざまな本を翻訳したが、私が想像する以上に大変な作業だったのではないかと思う。装丁デザインを担当してくれた桂川潤さんは完結前に急いで、風のように逝ってしまった。今回の旅には彼の写真を持って行こう。
旅にはもう一つのイベントがある。統営が故郷のチャン・ソクさんの詩集『チャン・ソク詩選集 ぬしはひとの道をゆくな』を出したので、その出版記念会も開く。チャンさんは統営で牡蠣の養殖をしながら詩を書いている。一九八〇年に朝鮮日報の新春文芸(各新聞を通してデビューするシステムのこと)からデビューしたが、光州(クァンジュ)での虐殺を見て以来、詩が書けなくなった方である。詩集のあちらこちらで魚、草、鳥、虫が出てきてまるで自然体そのもの。何より統営の磯の香りもするのだ。戸田郁子さんの手の込んだ訳に優しい解説が見どころである。
出版記念会には詩の持ち寄りパーティをしようかしら。ああ、みんなどんな詩を持ってくるのだろう。前もってみんなからの詩を受け取り、韓国語に訳しておこう。参加する韓国の人々も分かるようにしなければならない。散歩はいつも新しいことを生み出す魔法のようだ。頭の中はまるで金承福が二〇人ほど入っているみたいでてんやわんや。
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夜八時三分、朝日新聞の守さんから電話がかかってきた! 「スンボクさん、ハン・ガンさんがノーベル文学賞を受賞しました」。アイゴ、本当に本当ですか?
本当に電話が来たのだ! 実を言うとこの一〇年間待っていた電話だった。読売新聞、毎日新聞、東京新聞の記者からも次々と電話がかかってきた。質問の波に、六時頃せっかく考えておいたコメントは吹っ飛んでしまった。
クオンが運営している本屋「チェッコリ」にも、近くにいた出版関係者のみなさんがお祝いに来てくれて、その喜びのようすが新聞記事にもなった。翌朝になると、クオンの電話は書店からの本の注文で鳴りっぱなしとなり、もちろん、チェッコリにもハン・ガン作品を求めてくるお客さんがいっぱい。ノーベル賞がこれほど身近に感じられるのは、すでに日本語に翻訳された作品が多いからだと思う。
クオンは『菜食主義者』(二〇一一年)をはじめ、『少年が来る』(二〇一六年)、エッセイ『そっと静かに』(二〇一八年)、詩集『引き出しに夕方をしまっておいた』(二〇二二年)の合計四タイトルを出している。このほかにも別の出版社から『ギリシャ語の時間』(晶文社、二〇一七年)、『回復する人間』(白水社、二〇一九年)、『すべての、白いものたちの』(河出書房新社、二〇一八年)、『別れを告げない』(白水社、二〇二四年)が出版されている。日本語圏の読者はこれら八タイトルに加え、アンソロジーに収められているハン・ガンの書き下ろし短編を読むことができる。
ハン・ガンさんがスウェーデン・アカデミーからの電話でこれから何をするのかと尋ねられた時、夕食を終えたので息子とお茶を飲むと言ったが、その息子が『そっと静かに』に登場するヒョ君だ。小さなヒョ君と踊るシーンがあり、詩の中にも息子と踊る場面がある。ヒョ君は、会うたびに即興でピアノ演奏をしてくれる。私が病気のため一年間ソウルで療養していた時も、私の気持ちを尋ね、その気持ちを演奏で表現したいと言ってくれた。来る道すがら日差しが優しく思えたと言ったら、日差しが木の葉をくすぐるような演奏をしてくれた。その息子を誇りに思うハン・ガンさんのまなざしはお母さんの目であった。
先月九月の出張中には、ハン・ガンさんへ日本の読者からのお手紙を届けた。仲が良かった夫を亡くし深い悲しみに沈んでいたが、ハン・ガンさんのエッセイを読んで元気を取り戻せたという手紙だった。翻訳して直接配達に出かけた。景福宮(キョンボックン)駅近くの小さな書店へと会いに行くと、今回もハン・ガンさんはヒョ君と一緒だった。手紙をゆっくり読み終えると、便箋をゆっくり選んでいた。お母さんが時間をかけて手紙を書く間、ヒョ君はピアノの前に座り、とてもゆっくりとした曲を演奏し始めた。今回も即興演奏だ。
ハン・ガンさんが母の顔ではない作家の顔で書き終えた手紙を見せてくれた。封をする前に、すぐに別の紙に翻訳を書いて一緒に入れておいた。「あなたの痛む心が水のように染み込む経験をしました」、「つながりの瞬間は小さな奇跡のように思われます」という彼女の詩的な文章を今でも覚えている。作家と読者が深く深く真剣に交じり合う瞬間だった。
韓国の作家の本が数年後に日本語に翻訳され、さらに数年後、その本を読んだ読者が作家の言葉に大きな勇気を得た。その勇気が海を越え、再び作家の心に染み込んでいる。とてもとても大切な瞬間を出版社社長の私が目撃したのだ。
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(記事一覧)
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【特集1】視えない中国
海洋進出など周辺国への強硬姿勢と同時に、国内では監視・統制を強める習近平政権。
日中の交流は減少し、拘束のおそれからビジネスマンや研究者が渡航をためらう現状さえもある。
他方、目覚ましかった近年の経済成長は鈍化。不動産バブルは崩壊し、人々は先行きの不透明さにあえいでいる。
そのなか起きた、日本人学校児童らの殺傷事件。SNSに行きかう「反日」「仇日」の言論の一方、事件を悲しみ、政府の対応を批判する人々も少なくない。
隣国として率直に対話し、交流を続けるために、何が必要なのか。複雑化する中国、そして日中関係の現在地をみつめる。
【特集2】私たちのエネルギー
猛暑、台風、豪雨……毎年、異常気象が列島を襲う。日本の温室効果ガス排出量の8割以上が、発電などのエネルギー由来。
その脱炭素化は、生き延びるための急務だ。だが、国内では石炭火力温存という「既定路線」が敷かれている。
「GX」の名のもとに、原発活用の動きも根強い。高コストな原子力・石炭火力にかわり、再エネの経済性は急激に上がっている。
今後数十年の日本のありようをも規定するエネルギー基本計画の改定が進んでいる。
いま、どのエネルギーを選ぶのか――将来世代が安心して暮らせる環境を守れるか、わたしたちの決断にかかっている。
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┃特集 1┃視えない中国
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日本人学校男児殺害事件——日中関係の転機か
吉岡桂子(朝日新聞)(※よしの字は、口の上が土)
中国経済は日本化するのか——不動産不況と過剰生産
梶谷 懐(神戸大学)
圧縮型発展の曲がり角で——ことばから読む市井の暮らし
斎藤淳子(ライター)
日中「平和・協力・友好の海」のゆくえ
毛利亜樹(筑波大学)
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┃特集 2┃私たちのエネルギー
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〈気候再生のために特別編〉
二〇五〇年脱炭素への分岐点——エネルギー基本計画改定の論点
高村ゆかり(東京大学)
“脱炭素”という名の原発延命策——GX政策を問う
大島堅一(龍谷大学)
再エネに吹く向かい風——なにが地域との共生を阻むのか
茅野恒秀(信州大学)
明日を生きるための訴訟——日韓若者座談会
キム・ボリム×ユン・ヒョンジョン×髙田陽平×いぶ
石炭火力 日本はなぜ廃止できないか
桃井貴子(気候ネットワーク)
「オフグリッド」から世界を発見する
北川真紀(東京大学特任研究員)
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◆注目記事
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ラピダスはどこへ——台湾・TSMCからみる「半導体支援」への問い
川上桃子(神奈川大学)
〈ノーベル平和賞受賞〉
被団協の歩み、被爆者の願い、そして私たち
栗原淑江(ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会)
〈対談〉
裏金大敗、石破自民の命運
後藤謙次(政治ジャーナリスト)×中北浩爾(中央大学)
「軍事オタク」首相の思考法を読み解く——石破茂の本当の「危うさ」とは
水島朝穂(早稲田大学名誉教授)
「われわれリベラル」を再考する
朱喜哲(大阪大学社会技術共創研究センター招へい准教授)
アメリカ 「オルタナティブな現実」が覆う未来
竹田ダニエル(ジャーナリスト/研究者)
イスラエル・ヒズボラ紛争を規律する国際法
根岸陽太(西南学院大学)
ヒズブッラーの闘志の燃料——レバノン弱体化の影で
髙岡 豊(こぶた総合研究所)
〈スケッチ〉
島原・外海——生命に触れた旅
長田育恵(劇作家)
〈シリーズ夜店〉
東京 都市計画の出発点——その儘ならない歴史
松山 恵(明治大学)
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〈ポストアベノミクスの財源論〉
対談 これからの時代の税の考え方——全世代型社会保障と金融資産課税は実現可能か
諸富 徹(京都大学)×広井良典(京都大学)
人口減少を乗り切るための財政戦略——将来世代の利益も守れ
田中秀明(明治大学)
多様な地域をどう支え合うか——自治体財政の課題
沼尾波子(東洋大学)
防衛費膨張が意味するもの——アメリカの対外政策との関係
河音琢郎(立命館大学)
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〈連載〉
ひとりで暮らす私たち 第3回 「会計年度任用職員」という大問題
和田靜香(ライター)
〈リレー連載〉
隣のジャーナリズム マンネリズムに抗う
酒井聡平(北海道新聞)
ブラジル移民史の新章——謝罪要求運動、ふたつの 水流
三山 喬(ジャーナリスト)
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◇世界の潮
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◇えん罪事件の公的検証を——袴田事件再審無罪を刑事司法改革にどう生かすか
笹倉香奈(甲南大学)
◇家政婦過労死事件 高裁判決が語ること、語らないこと
濱口桂一郎(労働政策研究・研修機構)
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◇本との出会い
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◇本とチェック 第19回 ノーベル文学賞をハン・ガンの引き出しに入れておいた
金承福(クオン代表)
◇言葉と言葉のかくれんぼ 第9回 悲しみの質量
チョン・スユン(翻訳家)
◇「忘れられない」のはなぜか——小野和子『忘れられない日本人』
濱口竜介(映画監督)
◇科学と非科学のあいだ——マッキンタイア『「科学的に正しい」とは何か』/リッチー『Science Fictions』
松村一志(成城大学)
◇最終回
〈小さな物語〉の復興 『フランケンシュタイン』をよむ 第10回 アンチ・ヒーロー
小川公代(上智大学)
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●連載
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読書・観賞日記 読んで、観て、聴いて
酒井啓子(千葉大学)
ルポ 埼玉クルド人コミュニティ 第5回 夢のゆくえ
安田浩一(ノンフィクションライター)
あたふたと身支度 第3回 戦闘服あれこれ
高橋純子(朝日新聞)
彼女たちの 「戦後」 第4回 鴨居羊子——下着革命から全身表現者へ
山本昭宏(神戸市外国語大学)
「変わらない」を変える 第19回 米中絶問題の核心
三浦まり(上智大学)
片山善博の「日本を診る」(181) 歳出と歳入のバランスを考える国柄に
片山善博(大正大学)
脳力のレッスン(270) 遅れてきた帝国としての日米の邂逅
寺島実郎
ドキュメント激動の南北朝鮮 第328回(24・9~10)
編集部
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○記憶をもった鏡——ボリス・ミハイロフ『Yesterday’s Sandwich II 』
○戸田昌子(写真史家)
○岩波俳句
選・文 池田澄子(俳人)
○アムネスティ通信
○読者談話室
○編集後記