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戦争国家アメリカの平和――若い読者のための「戦争」入門(阿部幸大)

第5回 リンドン・ジョンソンとベトナム戦争

※『世界』2026年9月号収録の記事を特別公開します。


 トンキン湾と嘘

 一九六四年八月二日、ベトナム北部の沖合で、アメリカ海軍の駆逐艦マドックスが攻撃を受けた。魚雷は船体に命中しなかったものの、機銃により軽微なダメージを負わされる。敵は三隻。マドックスはただちに反撃、付近に停泊していた空母タイコンデロガから「クルセイダー」の愛称で知られる戦闘機F−8四機の支援もあって、敵船のうち一隻を撃破、残りの二隻にもヒットさせ、いったん事態は収束する。だが翌々日の八月四日、マドックスは米海軍のべつの駆逐艦ターナー・ジョイとともに、ふたたび同海域へ移動。そこで第二の攻撃を受け、二隻の駆逐艦は反撃、二時間にわたる応戦を強いられた。ながらく南側についてベトナム戦争を戦っていたアメリカが、北部の海域を偵察していた時期に発生した小競り合いだった。トンキン湾事件、と呼ばれている。

 二回目の攻撃が起こった八月四日の夜、リンドン・ジョンソン大統領はラジオならびにテレビで、アメリカ国民に呼びかけた。「この残虐行為を受けて、全アメリカ人は南ベトナムの政府ならびに人民を全力でサポートする決意を倍増することになる」だろう。いまや、「正義における確固たる姿勢 firmness in the right」というものが、アメリカ合衆国という国家が帯びた平和という天命にとって不可欠であることに疑いはない──大統領の「厳粛な責任」として、わたしは軍事行動を命じねばなるまい。ただし、他の愚かな国家は忘れつつあるようだが、アメリカは衝突の規模が拡大することのリスクを知悉している。したがって、これほどの強大な軍事力をもちながらも、われわれはこれを限定的な規模にとどめるつもりだ(1)。かくしてジョンソンのトンキン湾決議は、ベトナム戦争の限定的な本格化を宣言することになる。

 米軍による北ベトナムへの空爆──日本では「北爆」と呼ばれる──をその内容とするローリング・サンダー作戦を決行する根拠をジョンソンに与えた右記のトンキン湾事件が、じつは米軍による「でっちあげ」であったことを『ニューヨーク・タイムズ』紙が暴いたのは、一九七一年のことだった(米軍が撤退を開始するのはその一年半後)。同紙は一九六六年にすでにトンキン湾の疑わしさを訴えていたのだが、七一年には機密文書の『ペンタゴン・ペーパーズ』を入手、当の「事件」において米軍は公海ではなく北ベトナムの領海に侵入していたこと、さらには二回目の攻撃はそもそも発生していなかったことなどを暴露した(ちなみに「ペンタゴン」とは、上から見ると五角形(ペンタゴン)をしているアメリカ国防総省の本部庁舎のニックネーム)。

 真珠湾を格好の口実として全面戦争に踏み切ったローズベルト、そして、アジアでの戦争は戦争未満であると規定したトルーマン。彼らの衣鉢を継いで、ジョンソンは「アメリカへの攻撃」に「限定戦争」で対処すると宣言した。だがそれは、米軍の演出であり虚偽であった──それはそうなのだが、これを「ベトナム戦争はアメリカの嘘ではじまった」というスキャンダルとして理解するだけでは不十分である。そもそもベトナムという地球の裏側の小国での戦争などアメリカが一方的に侵攻せねば起こりえない事態なのであって、トンキン湾が虚偽だろうと真実だろうと、ベトナムで戦争が行われたということが一大スキャンダルにほかならないのだ。トンキン湾の嘘は、その大スキャンダルを正当化するために必要とされた小道具にすぎない。嘘が戦争を導いたのではなく、戦争が嘘を要請したのだ。

顧問と軍隊

 ベトナム戦争を理解するには、だいぶ時間を遡る必要がある。一九四五年九月二日、ハノイのバーディン広場にて、アメリカ独立宣言とフランス人権宣言が順に読み上げられた。すべての人間は平等につくられており、生命、自由、幸福を追求する不可侵の権利を与えられている──しかし、この理想をフランスの入植者たちは、この約百年にわたり、ベトナム人にたいして適用することはいっさいなかった、そう登壇者はつづけた。あまつさえフランスは帝国日本の侵略にすら抵抗できず、われわれを日本に売り、ベトナムはフランスと日本という二重の枷をかけられることとなった。しかし帝国日本が崩壊し、フランス帝国主義が逃亡したいま、われわれはついに統一国家を打ち立てる時である。かくして登壇者ホー・チ・ミンは、ベトナム民主共和国の独立を宣言することになる。

 ホーがフランス帝国主義を非難するベトナム独立宣言をアメリカ独立宣言の引用で開始したことには、歴史的な文脈がある。ホーは第一次大戦後の平和構想におけるウッドロウ・ウィルソンの「民族自決」の時代から、反植民地主義の旗手としてアメリカに期待を寄せつづけていた。第二次大戦中にローズベルトは戦後のインドシナにおけるフランス復帰に反対し、国際的な「信託統治」──これも結局はソフトな帝国主義にすぎないが──をしつこく提起していたし、大戦末期のトルーマン時代にはCIAの前身OSS(戦略情報局)がホーのベトナム独立同盟(ベトミン)に協力して対日の情報収集で連携、米軍はベトミンに武器も供与していた。さらにホーは独立宣言の起草段階でOSSのアーキメデス・パッティにアメリカ独立宣言を引用することについて相談していたとされる(2)。戦後の自由と平和のモデルを、ホーとベトミンは太平洋の彼方にあるアメリカに見ていたのだ。

 第二次世界大戦後、大日本帝国が去ったベトナムにおいて、フランスは再植民地化を図った。これにたいする抵抗として戦われたのが、日本語では「インドシナ戦争」と呼ばれている、フランスとベトミン間の戦争である。これが本格化したのが一九四六年。例によってアメリカは中立から支援へ、そして参戦へとズブズブ移行してゆくことになる。一九四九年にはベトナム北部と国境を接する中華人民共和国が成立し、翌年、中国とソ連がホーのベトナム民主共和国を承認。ただちにアメリカはフランスが擁立したバオ・ダイの傀儡ベトナム国を承認することで対抗、かくして「共産主義VS自由主義の戦い」という物語のもと、フランスから戦争を相続することになる。「ひとつの国が共産化すると隣国もバタバタとつづく」という有名なドミノ理論は一九五四年にアイゼンハワーが一般化したものだが、すでに同様の論理が働いていることはあきらかだろう。

 ではトルーマンの「支援」はどのように始まったか。フランスへの軍事支援を承認した一九五〇年、大統領はサイゴンにMAAG、すなわち軍事援助顧問団(Military Assistance Advisory Group)を設置する。当初の人員は三五名であり、そのミッションは米軍による軍事・経済的な援助が適切に執行されているかを監視するという、ここまで米軍史を追ってきた本連載の読者なら即座にキナ臭さを察知できるであろう内容だった。年号に注目しよう。これは朝鮮戦争がはじまった年であり、トルーマンがpolice actionというレトリックを弄したタイミングである。そのときベトナムでは、宣戦布告なしに軍人を海外に駐留させるための新たなレトリックとして「顧問 advisor」が生まれていた。はたせるかな、その「限定的」人数は万単位に、そして任務も助言から訓練、実践へと、みるみるエスカレートしてゆくことになる。

相続される戦争

 結局、インドシナ戦争はフランスの敗北に終わる。一九五四年、有名なディエンビエンフーの戦いでベトミンが勝利したことをきっかけに、フランスは和平交渉に応じはじめ、ジュネーヴで休戦協定が成立。このときベトナムは暫定的に北緯一七度線を軍事境界線として南北に分割されたものの、五六年に南北統一選挙が行われることが合意され、ホーのもとでベトナムは統一される見込みだった──が、これをアメリカが拒否したのである。アイゼンハワー政権は親米派のゴー・ジン・ジェムを擁立、例のベトナム国を引き継がせ、休戦協定ごと反故にしてしまった。当然、南北の統一はなされず、さらにジェム政権は南に残った旧ベトミン、仏教徒、農民などを弾圧。その結果として一九六〇年に結成されたのが、南ベトナム解放民族戦線、いわゆるベトコンである。

 アイゼンハワーにつづく大統領は、「暗殺されなければベトナム戦争の泥沼化は避けられたであろう」という物語でよく語られる、ジョン・F・ケネディである。顧問団の規模を膨れ上がらせたのも、悪名高い枯葉剤の撒布を承認したのもケネディなのだが、ともあれ本論にとって重要なのは、一九六一年に彼が「平和部隊 Peace Corps」と呼ばれる海外ボランティア組織を創設すると同時に「グリーンベレー」と呼ばれる陸軍特殊部隊を刷新していることである【図1】。

図1 映画『グリーン・ベレー』(1989年公開)

前者はおもに発展途上国で教育・医療などのサポートを提供するもので、そこには冷戦期にあって国際社会におけるアメリカの印象を改善する狙いが当然あったわけだが、その最初の隊員が発ったとき、同時にベトナムでは対ゲリラ戦の切り札としてグリーンベレーが「顧問」として山岳民族の武装を開始していた。ケネディの「ニューフロンティア」という理想は、戦争と平和とをセットで世界へ輸出するアメリカのカルチャーの礎を築いたのだ。

 一九六三年一一月一日、ケネディの黙認下においてジェムが暗殺される。その二一日後、こんどは当のケネディも暗殺されることになった。したがってケネディの後継者は選挙で当選したのではなく副大統領からの繰り上がりで、それが、トンキン湾と北爆のリンドン・ジョンソンである。ようやく本稿の冒頭の時代に追いついたが、ここまでの記述で、「ジョンソンがベトナム戦争を本格化させた」という歴史理解では、いかにアメリカのベトナム戦争を把握しそこねるかがわかるだろう。それは遅くともトルーマンから始まっていたし、あるいは信託統治構想を放棄しなかったフランクリン・ローズベルトから、あるいは一九一九年のパリ講和会議で若きホーの嘆願書を黙殺したウッドロウ・ウィルソンから、すでに始まっていた。ジョンソンは、相続した戦争を彼自身の戦争にするために、あの嘘を必要としたにすぎないのだ。

双子の戦争

 ケネディが暗殺されたおよそ一カ月後、この第二次世界大戦以来あの手この手で宣戦布告を回避してきた国家のあらたな元首は、議会において堂々とつぎのように宣言した。「わが政権は、今日この場をもって、アメリカの貧困に対して無条件戦争(unconditional war on poverty)を布告いたします(3)」。一九六四年の一月、トンキン湾のおよそ半年前のことである。これはきわめて重要な意味をもつ。第一に、「無条件戦争」という聞き慣れないフレーズは、第二次世界大戦の「無条件降伏」、すなわちアメリカのグッド・ウォーの記憶を喚起するものであること。第二に、国内における「貧困」という抽象的な「敵」を措定していること。これはのちにニクソンのWar on Cancer、レーガンのWar on Drugs、クリントンのWar on Crime、そしてブッシュ息子の War on Terrorまで引き継がれる、あらたなレトリックの誕生であった。

 まだまだ重要なことがある。一九六四年五月二二日、ジョンソンはミシガン大学──ケネディが平和部隊の構想を語ったのと同じ大学──の卒業式で登壇し、アメリカは豊かなばかりでなく、「偉大な社会」へと進んでゆかねばならないと宣言した。このつねに大文字で表記される "Great Society" という構想は、具体的になにを指しているのだろうか。自由の実現、貧困の撲滅、そして世界平和──米国の大統領はそのようなことを語るに決まっているが、それらの理想を語るにあたって、彼はスピーチを次のように締めくくった。「諸君はグレートな社会を築くための戦いに志願する気があるか」と(4)。ウィルソンの徴兵、そしてケネディの平和部隊とまったく同一のレトリックで、ジョンソンは「グレート」な社会のための「戦争」への「志願者」を募ったのである。

 かくして国外に対しては「条件つき」の限定戦争を決議した大統領は、ほぼ同時に、国内に対しては無条件戦争を宣言した。ベトナム戦争と貧困との戦争、それは一九六〇年代のアメリカが戦った、双子の戦争であった。じっさい、貧困との戦争にあたって設立された経済機会局の初代長官は、サージェント・シュライバー、ケネディの平和部隊の初代長官にほかならず、ジョンソンはまさしく双子の戦争を同時に育てたのである。彼は偉大な社会のための予算を議会に求めると同時にローリング・サンダー作戦を開始し、ベトナムの戦費は以後わずか二年で一〇億ドルから二〇〇億ドルに膨張。貧困との戦争に投じられた予算は、そのおよそ一割にすぎない。こうして国内の「戦争」の予算は、国外の戦争に食い尽くされることになった。彼は双子を育てることに失敗したのである【引用1】。

【引用1】

Doris Kearns Goodwin, Lyndon Johnson and the American Dream: The Most Revealing Portrait of a President and Presidential Power Ever Written (New York: St. Martin's, 1976), 251–52.

 "I knew from the start ... that I was bound to be crucified either way I moved. If I left the woman I really loved ── the Great Society ── in order to get involved with that bitch of a war on the other side of the world, then I would lose everything at home. All my programs. All my hopes to feed the hungry and shelter the homeless. All my dreams to provide education and medical care to the browns and the blacks and the lame and the poor. But if I left that war and let the Communists take over South Vietnam, then I would be seen as a coward and my nation would be seen as an appeaser and we would both find it impossible to accomplish anything for anybody anywhere on the entire globe".

〔訳〕どちらにせよ磔にされる運命なのは最初からわかっていた。ほんとうに愛した女──偉大な社会──を捨てて、地球の裏側のビッチみたいな戦争にかかずらうなら、国内ではすべてを失うことになる。政策もぜんぶ。飢えた者に食事を、家なき者に屋根をという、わたしの全希望を。肌が茶色い者、黒い者、足萎え、そして貧者に、教育と医療を届けるという、わたしの夢のすべてを。だが、かの戦争を捨てて、共産主義者たちが南ベトナムを奪うにまかせるなら、こんどは臆病者と見なされ、わが国は宥和主義と見られることになる。そうなればわれわれはどちらも、この地球上のどこにおいても、誰のためにも、何ひとつ成し遂げられなくなるのだ。

今回は伝記を読んでみよう。聞き取りの再現ではあるが、どう見ても書き言葉なので、そのように訳した。ここでは拙論で「双子の戦争」と呼んだものを二人の女性に喩え、自分はどちらを選んでも破滅につながる立場に置かれたと述べている。なんじゃそりゃ? あきらかに彼のいう「ビッチ」にうつつを抜かさなければよかっただけの話である。ちなみに “that bitch of a war” は受験業界で「こんな英語は誰も使わない」と悪名高い “an oyster of a man”(牡蠣のように寡黙な男)と同じ用法で、じっさいはこのように頻出なので、前半の名詞が形容詞的に働く同格用法として理解できる必要がある。冒頭でジョンソンがみずからをイエスになぞらえているのはわかるだろうが、“the lame” が出てくる箇所も新約聖書のルカ伝への言及で、聖書どおり「足萎え」と訳した。

戦争と人種

 ベトナム戦争は有名な写真に事欠かないが、貧困との戦争にも、その「顔」となる写真があった。一九六四年の四月から五月にかけて、ジョンソンは「貧困ツアー」と名づけた視察を行う。その序盤で彼はケンタッキー州アイネズを訪れ、ある崩れかけた小屋のポーチに座り、八人の子どもたちに囲まれた失業中の痩せた男、トム・フレッチャーと会話した【図2】。当然ながら彼はあらかじめ慎重に選定されたモデルだったわけで、周囲には報道陣がひしめいているのだが(5)、あなたは写真を見て、このプロパガンダがなにを喧伝しているかパッとわかるだろうか。それは、「アメリカの貧者は白人である」ということだ。「信条、人種、あるいは肌の色にかかわらぬ」平等を達成する戦いに志願するかとミシガンで問いかけた彼は、いわゆる「ヒルビリー」の核にある白人の貧困を、彼の「戦争」のアイコンに選んだのである。

図2 トム・フレッチャー(中央)を訪問するジョンソン大統領

Photo courtesy of the LBJ Library

 すこし余談だが、おそらくフレッチャーが白人であるということの意味合いは、日本人にはなかなかうまく感知できないと思われる。わたしはよく学生に説明するのだが、アメリカにおける人種問題がいかに巨大なのかというと、この日本社会で規模において最大の差異であるジェンダーの問題がアメリカにも存在しており、同時にもう一枚さらに大規模かつ複雑な問題として人種が覆いかぶさっているのがアメリカだ。つまり日本では人種問題が身近でないから理解しにくいというより、いまだに「白人は黒人を殺してもよい」という激烈な差異に規定されているような社会が想像しにくいのだ(じつはそうした暴力は日本にもあるのだが)。ともあれ、人種問題は日本社会で生まれ育った多くの人間には簡単に想像できないものなのだ、と意識することは重要である。

 じっさい、この双子の戦争は、人種の問題にほかならなかった。貧困との戦争が救うはずだった黒人の若者たちは、たとえば大学進学によって徴兵猶予を得られる白人中産階級の若者たちに代わって、むしろベトナムへ送られる犠牲者となった。モハメド・アリが徴兵拒否のインタビューで「ベトナム人はニガーと呼ばない」というフレーズを有名にしたように、これは黒人にとっては「白人の戦争」だったし、黒人にとってベトナム人は肌の色ゆえ差別を受けている「ブラザー」だった。では、ベトナム人はアメリカの白人からどのような差別を受けていたのだろうか? あなたはすでに知っている。彼らは侵略戦争で大量に殺されたのだ。ためしに、アメリカの諸戦争ならびに残虐行為を調べてみよ。その標的がつねに有色人種であることに気づくだろう。アメリカにとって、戦争とは人種の問題にほかならない。もういちど書こう、戦争そのものがスキャンダルなのだ。

勝利するイノセンス

 フレッチャーの写真の八年後、南ベトナムのチャンバンにて、ベトナム出身・アメリカ在住の報道写真家ニック・ウトが(6)、ナパーム弾で爆撃される村から裸で逃げる九歳の少女をカメラでとらえた。このピュリッツァー賞を受賞した写真は通称『ナパーム・ガール』として、世界でもっとも有名な写真のひとつとなる【図3】。少女の名前はファン・ティ・キム・フック。一四カ月の入院と一七回の手術ののち一命をとりとめ、のちにカナダへ移住して反戦運動家となった。一九九六年、彼女はワシントンのベトナム戦争戦没者慰霊碑に招かれ、白人アメリカ帰還兵と順にスピーチを行い、ふたりは抱擁を交わすことになる。戦争国家アメリカの暴力を象徴するアイコンであったアジア人の被害者は、四半世紀の時を経て、アメリカの「和解」の物語に組み込まれたのだ。

図3 「戦争の恐怖」(The Terror of War)

via Wilimedia Commons

 アメリカの貧困にあえぐ白人と、アメリカの暴力を赦す無辜の少女。この双子の戦争のダブル・アイコンを束ねた物語が、やがてアメリカ映画史上もっとも愛される作品のひとつとなる──『フォレスト・ガンプ』。一九八六年の同名の小説を脚本家のエリック・ロスが大幅に改変したもので、ロバート・ゼメキス監督の映画は、右記の「赦し」のセレモニーと同時期の一九九四年に公開されている。ジョン・ウェインの『グリーン・ベレー』(一九六八)からはじまって、アメリカが生んできた数々の有名なベトナム戦争映画はほぼすべてが白人の白人による白人のための物語になっているが、『フォレスト・ガンプ』は「戦争映画」という枠組みをゆうにこえた普遍的な人間ドラマとして親しまれた点において、人種と戦争が暴力の問題であることを不可視化することにもっとも巧妙に成功したプロパガンダ映画だと言えるだろう。

 これが白人の暴力を帳消しにする物語であることに気づくために、専門的な解釈は必要ない。主人公のフォレスト(トム・ハンクス)は、自分の名前ネイサン・フォレストが、白人至上主義団体であるクー・クラックス・クラン(KKK)の創始者ネイサン・ベッドフォード・フォレストに由来するのだと冒頭で明言するからだ。しかも彼はこの事実を、たまたまバス停で隣に座った黒人女性にたいして打ち明ける。フォレストは知能指数が八〇に満たず公立小学校への入学を拒否されるのだが、この知能の低さは、作中で彼のイノセンスの証であると同時に、構造的な暴力の意味を理解しないことのエクスキューズでもある。むろんKKKの意味がわからない者には、ベトナム戦争の意味もわからない。そしてそれは、黒人女性のリアクションを描かない『フォレスト・ガンプ』という映画の立場表明でもあるのだ。

 幼少期のフォレストは知能が低いばかりでなく、脚に補助器具をつけた「足萎え」であり(【引用1】を参照)、母子家庭で育ついじめられっ子という、マイノリティ属性を完備したキャラクターである。彼の幼少期は一九五〇年代で、この時期のアラバマといえば一九五五年に公共交通機関、とくにバスにおける座席の人種分離がおおきな話題となっていたのだが(モンゴメリー・バス・ボイコット事件)、通学バスで空いている席に座らせてもらえないフォレストは、この構造的な人種差別を白人間のいじめの問題へと転移させる──むろん彼が障害のせいでいじめられていることは事実であるわけだが、その問題を一九五〇年代のアラバマにおけるバスの座席で表現するとき、それは意図的な脱人種化の身振りとなる。これは社会的・歴史的な暴力を個人のドラマへと回収する物語なのであり、その「個人」が普遍的な共感を呼ぶには、白人である必要がある。

 彼をバスで隣に座らせてくれる唯一の少女は、彼の幼馴染となるジェニーである。彼女の父親は飲んだくれで娘たちを性的に虐待しているらしいのだが、その家屋はまさしく「貧困との戦争」の顔となったフレッチャーが住んでいたボロ屋そのものだ【図4】。のちに彼女は学生運動にコミットすると同時に、つねに暴力的な男と付き合い、ストリップ劇場で歌い、ドラッグにはまり、自殺未遂をする──典型的なトラウマの物語だ。彼女の「転落」の人生は、つぎつぎと大成功を収めるフォレストの「上昇」の軌跡と対照的であり、じつはフォレストに隠しながら彼の子供を育てていた彼女が最後に彼と結婚して束の間の幸せを味わって三六歳の若さで死ぬとき、この物語は「もっとはやくフォレストを選んでいれば」という選択肢を視聴者に想起させることで、彼女の運命を福祉の失敗から自己責任の問題へと回収することになる。

図4 『フォレスト・ガンプ』より

 そう、フォレストは、「彼を信じる者は救われる」という、神のような存在である。じっさい彼は奇跡の男であり、その手始めに、彼の脚はなんの説明もなしに突如として完治する──どころか、やがて健脚は彼のアイデンティティとなってゆく。ジョンソンの福祉国家が果たせなかった有色人種や貧者や障害者の救済を、フォレストは原因不明の奇跡としてひとり体現してしまうのだ。のちにアメリカ大陸を横断する有名なランナーとなった彼には、大量の「信者」が追従する【図5】。なぜ走るのか、平和のためか、ホームレスのためか、あるいは女性の権利、環境の保全、動物の権利のためなのかと問われて、「ただ走りたかったから」と答えるように、フォレストの行動に「意味」はない。だがすべてが成功する。この映画においてフォレストの知能ゆえの無理解は、無能ではなく万能の条件となっているのだ。

図5 『フォレスト・ガンプ』より

 大学卒業後、やはり意味をよく理解しないまま志願してしまった陸軍において、彼はもちまえの単純作業への適性ゆえ頭角をあらわす。アメリカの戦争映画では訓練が描かれると練兵軍曹が新兵をいじめぬくのが定番だが、本作では「おまえの目的はなんだ」と問われて「なんでも言われたことをやることです」と応えることで、フォレストは「おまえはIQ一八〇の天才だ」と絶賛される。この映画において、意味を考えないこと、理解しないことは美徳なのであり、それは戦争国家アメリカにとって理想的なソルジャーにほかならない。彼が理解しているのは唯一の戦友である黒人のババ(マイケルティ・ウィリアムソン)を助けたいということだけである。ババを助けたいという彼の気持ちはババの人種と関係がなく、その個人的な公平さは物語の次元において、ババが死ぬのは人種と関係がないというエクスキューズとして機能することになるだろう。

 ベトナム戦争のシークエンスで重要なキャラクターはババと上官のダン(ゲイリー・シニーズ)の二人で、いずれもフォレストに救出されるのだが、黒人のババは死に、白人のダンは自分は仲間とともに名誉の死を遂げるはずだったのに両脚を失って生きながらえさせられたということでフォレストに逆恨みを抱いている。かくして黒人はスクリーンから退場し、傷を負った白人たちが残るわけだが、ダンはフォレストに文句を言いながらも彼のもとを離れず、最終的にはフォレストが(ババの残した知的遺産を利用して)創業したエビ漁の会社を引き継ぎ、ともに億万長者となる。最後までフォレストを信じつづけたがゆえに彼は救われるのだ。きわめつけに、フォレストの結婚式に最先端の義足(magic legs)をつけて現れた彼は、アジア人女性のフィアンセを連れてくる――アジア人女性を手に入れることによって、彼はベトナム戦争という過去との折り合いをつけるのである。

 最終的にフォレストとは何者なのか。彼はスポーツで、ビジネスで、モラルで、そして戦争で、アメリカを勝利に導く存在にほかならない─―その勝利というフィクションの裏にある暴力を、その知的障害ゆえのイノセンスで、すべて無効化しながら。じっさい、われわれは『フォレスト・ガンプ』という映画を観てアメリカがベトナム戦争に敗北したという事実を受け取ることはできない。むしろこの映画が描くのは、傷ついたイノセントな魂がどこまでも上昇し、無敵の父として生き残る物語にほかならない。彼は敗北し傷ついたアメリカを、都合の悪い要素をすべて消去しながら癒やす。その神のような人物の眼をとおして見る戦争国家アメリカの歴史は、さぞ平和そのものに映ることだろう。

 

(1)Lyndon B. Johnson, "Radio and Television Report to the American People Following Renewed Aggression in the Gulf of Tonkin," August 4, 1964, The American Presidency Project.

(2)Dixee R. Bartholomew-Feis, The OSS and Ho Chi Minh: Unexpected Allies in the War Against Japan (Lawrence: University Press of Kansas, 2006), 255–268.

(3)Lyndon B. Johnson, "Annual Message to the Congress on the State of the Union," January 8, 1964, The American Presidency Project.

(4)Lyndon B. Johnson, "Remarks at the University of Michigan," May 22, 1964, The American Presidency Project.

(5)The LBJ Library, "The Poverty Tours (April-May 1964) MP 791," YouTube

(6)未確定だが、近年この撮影者がウトでない可能性が示唆されている。Francesca Aton, "World Press Photo Foundation Suspends Attribution of an Iconic Vietnam War Image,"May 19, 2025, ART news. Oscar Holland, "Who took 'Napalm Girl? World Press Photo 'suspends attribution of historic Vietnam War image," May 20, 2025, CNN.

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著者略歴

  1. 阿部幸大

    筑波大学人文社会系助教、日米文化史研究者。株式会社Ars Academica代表。著書に『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』(光文社)、『ナラティヴの被害学』(文学通信)ほか。

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