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テーマ書評/棚づくり 第1回 ベーシックインカム 評=本田浩邦

 ベーシックインカムとは、従来の厳しい給付条件がついた生活保護や失業手当とちがって、すべての人に対して無条件かつ定期的に支給される社会的給付である。

 "空想的"ともいえるこのアイデアが、いま支持を集めている。先日、私の勤務する大学で学部教授会の懇親会があったが、そこでも研究領域、主流・反主流を問わず、ベーシックインカムを支持する教員がたくさんいて話が尽きなかった。

 その反面、リベラル派のなかにはベーシックインカムに対する批判が根強くあるようだ。先日、YouTubeをみていたら、浜矩子氏が、「ベーシックインカムというのは出自はいいが、社会保障を切り捨て、失業者を適当な給付で黙らせる制度だ」という二つの点でベーシックインカムに懸念を表明されていた。

「福祉はいらない?」わけではない!

 そのような折、『世界』編集部の方から、ルトガー・ブレグマン『隷属なき道――AIとの競争に勝つベーシックインカムと一日3時間労働』(野中香方子訳、文藝春秋、2017年)は入門書としてどうかとたずねられたので、私は「それは原書がでてすぐに読んだ。でてくるエピソードが面白いし、ベーシックインカムの基礎的なことがよく分かるいい本だと思う」と返信した。

 「原書で読んだ」は余計だったかなとあとで少し後悔したが、その後、翻訳をみて驚いた。なんとその帯には〈福祉はいらない。お金を直接与えればよい〉と大書きしてある。何じゃこれは!?――。これではまるでブレグマンが、社会保障を全部なくす代わりにベーシックインカムを導入せよと主張しているようではないか。だとすれば浜氏の第1の指摘どおりである。しかし私が読んだときのブレグマンの印象とは明らかにちがう。

 翻訳と照らし合わせてみると、その帯のセリフは邦訳第2章のタイトルにもなっているが、原文では、ただ単に「なぜすべての人に無条件でお金を与える必要があるか」(Why we should give free money to everyone)とだけあり、福祉がいらないなどとはどこにも書いていない。本文でもブレグマンは従来の資格給付型の社会保障の不備を指摘してはいるが、ベーシックインカムが生活保護や失業手当などそれらの一部を代替するということを述べているに過ぎない。

 「福祉がいらない」といえば、医療、年金、障がい者手当などもすべてベーシックインカムに置き換えられていく、という誤った印象を与える。センセーショナルなキャッチコピーにしたかったのかどうか、明らかに不適切な翻訳/編集上の「忖度」である。

 リバタリアン(自由至上主義者)は国家による個人への干渉を嫌うので、既存の社会保障制度を否定する脈絡でベーシックインカムの導入を主張する。保守派の一部も「小さな政府」を求めてその議論に便乗する。浜氏のみならず、日本、欧米を問わず、リベラル派のあいだでベーシックインカムが疑問視される理由のひとつはそこにある。

 しかし多くのベーシックインカム支持者はリバタリアンや保守派のようには考えない。既存の社会保障を批判しつつも、ベーシックインカムはその一部を代替するものだと主張する。ブレグマンもそうである。どちらかといえば彼はリベラル派の左である。彼の既存左翼に向けられた強烈なメッセージは2016年の英語版に未収録であった「エピローグ」に示されている。ありがたいことに翻訳にはそれがちゃんと収録されていて、私はその存在を知った。その意味で翻訳に感謝している(だからといって帯の件が免罪されるわけではないけれど)。

入門に最適の本

 ベーシックインカムは、ある程度は人びとの間に浸透してきたが、その重要な争点はかくも不十分にしか理解されていない。そこへ一般向けのよい入門書が現れた。

 ガイ・スタンディング『ベーシックインカムへの道――正義・自由・安全の社会インフラを実現させるには』(池村千秋訳、プレジデント社、2018年)である。

 スタンディングはロンドン大学の教授で、長年にわたってベーシックインカム実現の運動にたずさわってきた。イギリスのEU離脱、アメリカのトランプ政権誕生など、社会の右傾化の背景には所得分配の悪化があるとし、「このような潮流に抗し、より平等で自由な社会を築くためには、ベーシックインカムの導入が政治的に必須課題だ」という。

 この本では、ベーシックインカムのそもそもの歴史、「普遍的」とはどういう意味か、その他の社会保障給付とどのようにちがうのか、財源をどのように考えているか、さまざまな国や地域での実験の状況はどうかなどについてバランスのとれた解説を行なっている。

 浜氏のふたつ目の論点に照らしていえば、スタンディングは、AI失業とベーシックインカムを直線的に結びつけることに慎重である。オックスフォード大学のフレイとオズボーンによる研究では、AI導入によって10~20年で47%の仕事が消滅すると予想されているが、スタンディングは、「この種の[雇用消滅の]予想は鵜呑みにできない面も多い」とする。しかしまた同時に、「雇用が消滅することはないとしても、ロボットの台頭が不平等と安全の喪失を深刻化させることは避けられないように思える」と指摘する。

 ベーシックインカムは、AI失業に対してではなく、より本質的な、この「不平等」と「安全の喪失」に対する政策的回答なのだ。

金融を生活保障に活用する

 日本人による優れたベーシックインカム論も現れた。井上智洋『AI時代の新ベーシックインカム論』(光文社新書、2018年)である。

 この本のひとつの特徴は、現在、銀行に集中している信用創造の機能を政府が取り戻し、ベーシックインカムとして人びとに直接的に貨幣を供給する貨幣制度改革を求めている点である。

 金融政策のこうした戦略は、スタンディングやブレグマンにもない重要な論点である。また井上氏は、AIなど科学技術の進歩はそれだけでは明るい未来の到来を約束するわけではないとし、技術による経済の潜在的成長力を現実のものにするためには経済全体の需要を高める必要があると述べている。

 浜氏の指摘するように、ベーシックインカム論は、それをAI失業と低賃金の受け皿にしようとする保守派の考え方と結びつきやすい。しかし「脱労働社会」を強調する井上氏の議論もよく読むとそうではないことが分かる。ベーシックインカムは失業および低所得対策の機能によって労働市場を下から支え、さらにより大きく需要サイドからの経済的潜在力を解放し、持続的な社会保障制度の土台となる。井上氏の本によってベーシックインカムは日本でも新しい議論の段階に至った感がある。

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著者略歴

  1. 本田浩邦

    ほんだ・ひろくに 1961年生まれ。一橋大学大学院経済学研究科博士後期過程修了。獨協大学経済学部教授。専攻はアメリカ経済論。著書に『アメリカの資本蓄積と社会保障』(日本評論社、2016年)

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