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メディアの「罪と罰」

メディアは「ニセの記者会見」を改革せよ

 

「記者会見ごっこ」か「記者会見もどき」

 1月1日に起きた震度7の能登半島地震は、東日本大震災以来の大きな津波も重なって多数の死者や行方不明者を出したが、余震の多さや被災地へのアクセスの難しさに加えて政府の初期対応の遅れもあり、救助活動が難航して被害の全容把握が遅れている。他方、自民党の最大派閥「清和政策研究会」(安倍派)などが政治資金パーティー収入の一部を裏金化していたとされる事件は東京地検特捜部の捜査による実態解明が不十分で、ほとんどの国会議員が不問となった半面、岸田派を含む3派閥の当時の会計責任者らだけが在宅・略式起訴されて終わったことに対し、国民の間からは「トカゲのしっぽ切りで納得できない」「捜査を尽くしたとは到底思えない」など強い不満の声が上がる結果となった。

 そんな中にあって、故ジャニー喜多川氏の性加害問題をめぐってジャニーズ事務所(現「SMILE-UP.」、以下「旧ジャニーズ事務所」と表記)が昨年10月に開いた記者会見が厳しい批判を浴びたことはまだ記憶に新しい。会見時間を短くした上で質問は一社一問に限定して追加の質問を認めなかったことに加え、コンサルタント会社が事前に記者の「NGリスト」を作るなどして厳しい質問を回避しようとしていた実態が明らかになったからだ。

 だが「茶番」にも等しいこうした記者会見は何も旧ジャニーズ事務所に限った話ではない。

 この国で行われている多くの会見は、「政治家を始めとする行政庁や大企業の幹部など権力を持っている側が言論を実質的に統制しようとする」という点で旧ジャニーズ事務所の会見によく似ている。ある意味ではそれ以上といえるかもしれない。なぜなら政治家などの権力側は、すべての会見においてではないにしても、記者会見で記者が質問する内容を事前に提出させたり、事務方が「質問取り」をしたりした上で、それに対する回答はすべて事務方に用意させて権力者は会見でその初見のメモや想定問答集の回答部分を読み上げて終わりといった無責任極まる会見がごくふつうのこととして行われているからだ。

 独裁国家であればいざ知らず、権力側に実質的にコントロールされることが多いこの国の記者会見は、欧米ではありえないほど権力者に迎合的だ。記者との真剣な質疑応答もなく、国民の「知る権利」に本気で応える気もないままにあらかじめ用意された台本や想定問答集に沿って進む会見は、冷静に考えればもはや「記者会見」の体をなしていないといわざるをえない。せいぜいが「記者会見ごっこ」か「記者会見もどき」と見なされても仕方がないだろう。こうした「ニセの記者会見」を広めた責任の一端はメディアにもある以上、民主主義をこの国で機能させていくためにも、また「メディア不信」に対応するためにも、メディア各社は「あるべき記者会見の姿」を取り戻すための具体的な改革に今すぐ取りかかるべきだ。

 

記者会見はことばを使った真剣勝負の場だ

 批判が集中した問題の記者会見は、昨年10月2日に旧ジャニーズ事務所が東京都内で開いた。9月7日の一回目の会見に続き行われたもので、300人近い報道陣が出席したが、時間はあらかじめ二時間に制限されていた上に、質問は「一社一問」までで更なる問いは認めないとの意向が事務所側にあったことから、いくら挙手しても司会に当てられない記者が続出してヤジや怒号が飛び交うなど、会場は一時騒然とした雰囲気になった。

 旧ジャニーズ事務所としては一回目の会見が長時間に及んで多くの厳しい質問や「不規則発言」にさらされたため、二回目はそれを踏まえて「混乱の起きないスムーズな会見」を目指したかったのだろう。旧ジャニーズ事務所が10月10日付で公表した「NGリストの外部流出事案に関する事実調査について」という文章では、「9月7日記者会見においては、(中略)一部の記者が、司会者による指名を無視して会見会場で大声で質問する、ヤジを飛ばす、不規則発言を繰り返す等の無秩序な言動を繰り返していた」との認識を示すとともに、「質疑応答の進行をより整然と秩序立てて進める必要があると考えていた」などと記されている。だが結局のところメディアをコントロールしようとした試みは失敗するとともに、旧ジャニーズ事務所の改革に対する真摯さと本気度にも疑念をもたれる結果で終わった。

 この会見の根本的な間違いはそもそもどこにあったのだろうか。

  旧ジャニーズ事務所や会見の運営を任されたFTIコンサルティングが理解できていなかったのは、民主主義社会において「記者会見とはそもそもどういうものか」という根本的な理念についてであり、加えて国際標準の会見の実態に関する具体的な知見だっただろう。

  記者会見とはそもそも会見する側(政治家や行政庁や大企業など何らかの『権力』を持っている側)が一方的に言いたいことを述べて終わる場ではない。また一人の記者が複数の質問をするのを禁止したり、厳しい質問をする記者を意図的に遠ざけたりするための場でもない。さらには問題の本質に迫らない生ぬるい質問だけを許しながらあくまで権力側のペースで「整然と秩序立ててスムーズに会見を進行させる」ための場でも断じてない。

  他方、「権力者の行うことはすべて悪だ」と最初から決めつけてけんか腰で相手に質問を繰り出す場でもなく、自らの主張を長々と語ったり「権力を追及する」自らの姿勢に自己陶酔しているのではと外部から受け取られるようなふるまいを繰り返したりする場でもない。

  記者会見とは本来、国民の「知る権利」を負託された記者がことばを使って権力者と真剣勝負を行う場だ。また何らかの問題が発覚して釈明を迫られている権力側に対し、権力者との間で単独で行われる「ウラの取材」を別にすれば、記者が「問題の真相」に迫っていくための「オモテの取材」における重要なプロセスの一環でもある。さらには権力者が自発的には語りたがらないネガティブな情報を含む内容や思惑に対し、記者が本質を衝いた質問をその場で重ねて迫ることでそれらを何とか引き出そうとする「闘いの場」であり、記者が自分の実力を試される場でもある。そうである以上、旧ジャニーズ事務所が会見のルールを勝手に決めてメディアをコントロールしようとしてもできないのはあたりまえの話だ。

 

質問を制限して得られる「全体の公平性」は「ニセの公平性」にすぎない

 10月2日の記者会見に臨んだ背景について、FTIは先述の10月10日付の文書の中で、「FTI(特に記者会見業務の担当者)」としては10月2日の記者会見は「限られた時間内でジャニーズ事務所に再発防止策等を説明させるとともに、ヤジ等の不規則発言等により質疑応答の進行が無用に妨げられることなくできるだけ多くの記者からの質疑に十分に回答できるようにする必要があった」などと説明している。記者会見の運営を任された側としては「全体の公平性」の確保を何より重要視していたとも受け取れる内容だ。これを受けて司会者は会見の冒頭、「会場の使用時間などお時間に限りがありますので、なるべく多くの方からご質問いただけますよう1社1問でお願いします」などと要請した。

 だが、ここで何より大事なポイントは、繰り返しになるが旧ジャニーズ事務所はそのトップが事務所に所属する子どもたちに性加害という重大な犯罪行為を長年にわたって行ってきた当事者企業であり、記者からの様々な質問に対して(たとえそれがどれだけ厳しい内容であろうと)真摯に答えなければならない立場に立たされているという厳然たる事実だ。

 その点を踏まえれば「一部の記者の長々とした質問で時間を取られる事態は避けたい」「会場の使用時間に限りがある」などの理由で記者の質問回数を制限するなどの行為は論外な上に、質問者の数だけを増やして確保されると事務所側が考えた「全体の公平性」はせいぜいが「見せかけの公平性」か「ニセの公平性」にすぎないといわざるをえないだろう。

 なぜなら記者の最初の質問に対する相手の答えが不十分であったり問題があると感じたりした場合、記者はさらに掘り下げた質問をその場で相手に行って本音に迫っていかなければ事の真相にたどり着くことはできないからだ。そして忖度抜きに「ほんとうのことを解明していく場」として本来の記者会見はある。その意味でも、一人の記者に認める質問の数を制限することで「全体の公平性」が確保されるなどという理屈はジャーナリズムの本質を理解していない者の詭弁に他ならない。「更問禁止」は悪い冗談の域を出ない話だろう。

 

「ルールを守っていく大人たちの姿を見せたい」?

 この記者会見にはさらに気になった点があった。

 「NGリスト」を作成したFTIコンサルティングは、会見の進め方について事前に旧ジャニーズ事務所側と打ち合わせていたことを認めているが、その際NGリストを見たジャニーズアイランドの井ノ原快彦社長が「これどういう意味ですか? 絶対当てないとダメですよ」と発言したという。だがその井ノ原社長は実際の記者会見の場で、旧ジャニーズ事務所側が一方的に取り決めた会見ルールをめぐって会場が紛糾すると、「こういう会見の場は全国に生放送で伝わっておりまして、小さな子どもたち、自分にも子どもがいます。ジャニーズジュニアの子どもたちもいますし(中略)ルールを守っていく大人たちの姿をこの会見では見せていきたいと僕は思っていますので、どうか、どうか落ち着いてお願いします」と記者をなだめ、拍手を浴びた。「神対応」と絶賛する声もSNSに上がった。

  だが、「ジャニーズ事務所に入って芸能界で活躍したい」という子どもたちの素朴な夢につけこみ、会社のトップが極めて深刻な性加害を事務所の多くの子どもたちに行ってきた問題の責任を問われている会見で、「一部の記者が無秩序な言動を繰り返した以上、質疑応答の進行をより整然と秩序立てて進める必要がある」との理屈で加害企業である事務所側が勝手に決めた会見ルールをめぐってもめる記者たちに対し、あえて「子ども」に言及した上で、「ルールを守っていく大人たちの姿を見せていきたい」と求めることで事態の鎮静化をはかろうとした井ノ原社長の姿勢には違和感を感じた人も少なくなかったのではないか。

 この点について、『フランス・ジャポン・エコー』編集長で仏フィガロ東京特派員のレジス・アルノー氏は「井ノ原は、ジャーナリストを黙らせるために、あるいは会社の想定したとおりに会見を進行させるために、「子ども」を利用した」と指摘。また「何十年もの間、井ノ原とジャニーズ事務所の幹部たちが最も遵守してきた“ルール”は「オメルタ(マフィアによる沈黙の掟)」だった。創業者が何百人もの子どもやティーンエイジャーに性加害を行っていたのを、「うわさでは聞いたことがある」として、それを知ろうとすることを避けてきた。井ノ原やジャニーズ幹部がこれ以上口にしてはいけない言葉があるとすれば、それは「子ども」ではないだろうか」と述べてジャニーズ側の対応を厳しく批判した(1)

 さらにアルノー氏は、井ノ原発言に対して一部の記者が抗議するどころか拍手喝采を送ったことを取り上げ、「今回の会見は日本の主要メディアの最悪な部分を暴露したのだ。つまり、記者たちは生やさしい質問をするだけで国民の知る権利の役に立たないだけでなく、同時に同胞であるはずのジャーナリストが質問しようとしているのを邪魔する」として記者会見における日本の記者の姿勢も批判した。日本で日々行われている記者会見が抱える問題点を的確に差し示す重要な指摘だった。

 

17%VS91%――際立つジャーナリストの自己評価の高さと人々の評価の低さ

 テレビ局や新聞社、雑誌社などメディア企業に勤める人たちが何度でも立ち返って直視すべき数字がある。17%VS91%がそれだ。

 メディアと信頼の問題を世界中で幅広く調査している英オックスフォード大学ロイタージャーナリズム研究所が2019年に発表した「ロイター・デジタルニュースリポート」にその数字が掲載されている(2)。四年前の数字ではあるが、問われている本質はいまも変わってはいないか、さらに悪化しているかもしれない。このリポートによると、「ニュースメディアは権力を持つ人々やビジネスを監視していると思うか?」との問いに対し、「監視している」と答えた人々の割合は日本の場合、調査対象38カ国中最低の17%だった。ところがこの数字を、ジャーナリストを対象にした別の調査と比べてみると、日本では断トツの91%のジャーナリストが「権力監視は自分たちの重要な仕事だ」と回答したという。

 ジャーナリストの自己評価の高さ(=甘さ)と人々の評価の低さ。この落差こそが「メディア不信」や「報道不信」を生んでいる様々な問題の根っこにあるということを、メディアで働く多くの人々は意識すらしていない。だからこそ現実には権力者にすり寄る「御用メディア」によって権力者が発表したままを伝える「客観報道」が「大本営発表」のように垂れ流され、「メディアの「罪と罰」」と呼びたいような惨憺たる報道が繰り返されるのだ。

 ちなみにニュースメディアが「権力を監視している」と人々が最も評価した国はブラジルの56%で、カナダが49%、フランス47%、アメリカ45%、イギリス42%、イタリア33%、韓国21%などだった。またジャーナリストが考える自らの権力監視の役割への認識度合いと、「監視している」と受け止めた社会の側の評価の差が際立っていたのは日本以外では韓国(86%VS21%)、アメリカ(86%VS45%)などで、反対にイギリス(48%VS42%)やドイツ(36%VS37%)では大きな認識の差はみられなかった。

 人々が「メディア不信」を募らせている原因の一端は、メディアが口先では「権力監視が仕事」といいながら、実際には「取材」という壁の裏側で権力者と馴れ合って記事や番組を作っているのではないかといった疑いを持たれているという点を含め、肝心の取材過程が「ブラックボックス」化していて外部からは一切見えないことにある。

 その点、記者会見は取材の舞台があらかじめ設定されていてテレビカメラも入っているため、見方によっては「取材過程があらかじめ可視化された空間」になっているともいえるだろう。仮にそうとらえるとすれば、記者会見は記者が「権力監視を実際に行っている」姿を視聴者に見せる格好の機会ともなる。とはいえそんな感覚を持ったメディアは現実には存在せず、テレビ画面で人々が目にするのは「権力と対峙している」という緊張感を1ミリも感じさせないままに下を向いて黙々とパソコンに文字を打ち込んでいる記者の姿だ。

 だが、記者会見場にいる記者が本来やるべき仕事は会見の一問一答をいち早くパソコンに打ち込んで上司であるデスクやキャップに報告したり、一秒を争って会見の記事を作って発信したりすることではない。そうではなく、自ら手を上げて権力者に問題の根幹に迫る質問をしたり、厳しい質問を受けて一瞬たじろいた権力者の表情を読み取ったり、別の記者が重要な質問を権力者に遮られた場合は関連質問をして「援護射撃」を行いながら物事の真相に迫っていくことだろう。なぜなら事件は記者会見場という現場で起きているからだ。

 

記者会見における「国際標準」とは何か

 では、記者会見における「国際標準」とは何だろうか。

 例えばテレビで時々中継されるアメリカのホワイトハウスで大統領や大統領補佐官が行う記者会見を見れば明らかだが、そこには予定調和などは一切存在しない。大統領と対峙した記者は忖度抜きのことばによる真剣勝負を挑み、大統領の説明に納得がいかない場合は更なる問いをぶつけて本音を引き出そうとするあまり会見が時にヒートアップすることもごくふつうの光景だ。その場には大統領と記者のやりとりには目もくれず黙って下を向いて最初から最後までパソコンを打ち続ける記者などは存在しない。大統領は本当のことをいっているのか、あるいは事実をねじ曲げたり質問をはぐらかせたりしてはいないか、言葉の裏に隠された思惑は何か。大統領のすべての言動を見逃すまいと、出席した記者の誰もが必死の表情で記者会見に臨んでいる様子が画面からは見て取れるだろう。また英国の公共放送であるBBCの記者が政治家を取材する際に見せる厳しい姿勢も日常的な光景だ。

 つまりは権力者に対する忖度抜きに緊張感のある厳しいやりとりがごくふつうに繰り広げられるということ、それが記者会見時の国際標準の平均的な姿ということになるだろう。

 1月30日に岩波書店から出版する拙著『メディアの「罪と罰」 新たなエコシステムをめざして』では、そのメディアが権力監視を始めとするまっとうなジャーナリズムの精神をしっかり持った上で日々の報道を行っている「ホンモノ」のメディアか、それとも権力者にすり寄り、「市民の側」に立つフリをしながら実際には「権力を持つ側」に立って権力者をひたすら擁護・礼賛するだけの「御用メディア」なのかをシビアに見極めるためのポイントを第1章「『メディアの報道は何かおかしい』と思っているあなたへ」の中で10個にまとめてみた。その第八番目が「そのメディアは『政治報道改革』に取り組んでいるか?」であり、そこでは政治報道を改革する一環として記者会見改革の必要性に言及した。

 『メディアの「罪と罰」』では、その流れの中で、ニューヨーク・タイムズ(NYT)の政治エディター、デイビッド・ハルブフィンガーの記者会見に対する考え方を紹介している。朝日新聞社の問いかけに応えたものだが、朝日新聞社が発行していた月刊『Journalism』の記事を引用する形でハルブフィンガーの考えの一部を以下に紹介してみたい(3)

 

――「日本では政治報道への批判の一つとして、首相の記者会見に先立って事前にいくつかの質問を首相側に示す慣行が指摘されますが、米国でもそのようなことはありますか?」

NYT「我々にはありません。それは馴れ合い過ぎです」

――「ジャーナリズム倫理に反するとお考えですか?」

NYT「はい、反します。なぜならジャーナリストたちが自分たちをショーの一部にしてしまうからです。パフォーマンスの一部になってしまいます。好ましくないことです」

――「日本では首相の記者会見で記者たちの質問が生ぬるいという批判もあります。トランプ大統領の記者会見で、トランプ氏に『フェイクニュースだ』と非難されながらもCNNの記者が執拗に質問を続けたシーンは人々の記憶に焼き付いています」

NYT「そうした根性(guts)がなければ、この仕事はやらない方がいいと思います。(中略)(権力や不正の)監視には、市民を代表し、強靭さと勇気を持つ公平で独立したジャーナリズムの存在が必要です」

 日本のメディアが記者会見に臨むこの厳しい姿勢から学ぶべき点は多々あるだろう。

 

性加害問題をめぐるメディア各社の検証は極めて不十分

 話をジャニー喜多川氏の所属タレントに対する深刻な性加害問題に戻せば、新聞社やテレビ局、雑誌社などは長年にわたってこの問題を見過ごしてきた責任をいま厳しく問われている。1980年代に元タレントが手記を出版したり、週刊文春が報じた記事をめぐってジャニーズ事務所などが発行元の文芸春秋を訴えた裁判で「セクハラ」があったとする記述を真実と認める判決が最高裁で確定していたりしたにもかかわらず、日本の多くのメディアはBBCがドキュメンタリーを放映するまでまともに向き合おうとはしてこなかった。その点を厳しく批判されているのだ。

 ところが新聞社やテレビ局などがその後真摯な反省を踏まえて自らのこれまでの報道について十分な検証報道を行ったかといえば、検証はいずれも表面的なレベルにとどまっていて、本気で検証作業に取り組んだとは言い難い極めて不十分な内容にとどまっている。

 各社の検証番組や検証記事では「問題の深刻さや影響の大きさが十分に認識できていなかった」「とりわけ男性への性加害という問題に対する認識が不足していた」などの似たような文言が並んだが、そこには自社が「なぜ問題に気づきながら長年にわたって放置してきたのか」という疑問に応える本質的な部分が欠落していた。「権力を持っていた旧ジャニーズ事務所にどんな忖度を行ったのか」「当時の関係者は具体的にどんな関わりをしていたのか」「実質的に人権問題よりもビジネスを優先させたのではないか」などの点をめぐり、過去にかかわったすべての関係者に聞き取りを行うなどして問題を深く掘り下げ、その上で具体的な再発防止策を打ち出すまでの検証を行ったメディアはまだ一社も現れてはいない。

 

検証報道はなぜ表面的で不十分なものにとどまるか

 先述した拙著『メディアの「罪と罰」』の中で打ち出したホンモノのメディアを見極めるための十のポイントのうち、メディアの自己検証の必要性は第五番目に置いている。「そのメディアは自らの報道を厳しく自己検証してその結果を発表しているか?」だ。

 性加害問題をめぐるこれまでの自社の報道に対して各社なりに反省をしたはずの検証が不十分なレベルにとどまっているのはなぜか。そこには、自らの組織のOBが深く絡んだ問題を現役の社員が徹底検証することの難しさが浮き彫りになっているといえるだろう。

 なぜならOBと現役社員は仕事の面でも人間関係でも地続きのようにつながっているため、OBに対する聞き取りを厳しく行っていけばOBとその組織の関係が壊れてもめごとが起こる可能性がある上に、OBから仕事を直接引き継いだ担当者も現役社員の中にはいることから「厳しい批判の刃」はブーメランのように我が身に戻ってきて現在のビジネスに支障をきたしたり新旧経営陣の責任問題に発展したりする恐れが現実に出てくるからだ。メディア企業の現経営陣には「とにかく面倒なトラブルは避けたい」「今のビジネスを優先させたい」などの思惑も強く、各社の検証チームは「検証報道をしました」という体裁は整えつつも、実際には「おざなりの検証」で済まそうとしたとみられてもやむをえないだろう。

 他方、朝日新聞は2007年から08年にかけて、1931年の満州事変以降の「戦争報道」を、朝日新聞を真ん中に据えて徹底検証した年間プロジェクト「新聞と戦争」を展開したが、そのプロジェクトで総括デスクを務めた筆者が実際に直面したのも同じ問題だった。

 取材メモ捏造事件などで窮地に陥っていた朝日のジャーナリズムを立て直すため、ロンドンでヨーロッパ総局長をしていた外岡秀俊(2021年12月死去)が急遽請われ、2006年4月から1年半にわたって編集局長に就任した。その下りは拙著第2章「朝日新聞の最暗部にメスを入れるーー「空前絶後」の編集局長、その早すぎる死」に詳述した。

 「新聞と戦争」はその外岡が編集局長に就任する条件として当時の幹部に認めさせた末に実現したプロジェクトだったにもかかわらず、取材班が戦時中に戦争礼賛報道を行ったOBらへの聞き取りを始めようとすると、一部の幹部社員らは「一体何の権限でお前たちは朝日の「負の歴史」をあぶりだそうとしているんだ」「相手は生きている先輩だぞ。今さら過去の古傷をほじくり返すとは失礼ではないか」といって取材班に圧力をかけてきた。

 だが「新聞と戦争」取材班は一歩も引かず、「必要がある」と判断すれば病院に入院中だった高齢の元社員のもとをたずねていき、医師の了解を取り付けた上で、医師と看護師の立ち合いのもとで「あなたはなぜあの時、戦争礼賛の記事を書いたのでしょうか?」と迫った。そこまで厳しくやらなければ「徹底検証」とはいえず、「検証報道はうわべだけのニセの検証報道になってしまう」という危機意識が取材班や外岡にはあったからだ。

 「新聞と戦争」は、自らが所属する組織の最暗部を可能な限り掘り下げる検証作業を進めながらそのことによって同時に明日のジャーナリズムや朝日新聞への「信頼」を取り戻したいというアクロバティックな問題意識を秘めたプロジェクトでもあった。

 そうした実体験からいえることは、元OB社員のプライバシーや人権には一定の配慮を示しつつ、先輩―後輩、現役―OBといった組織内部の人間関係のしがらみに対してはすべての忖度を捨てることで乗り越えながら、問題が起きた最初の原点にまで立ち戻り、そこから今日までのすべての期間を対象にして厳しい姿勢で検証作業に全力で取り組まなければ「問題の真相」に到達することはできず、また元OB社員の具体的な関与のディテールにまで深く踏み込んで掘り下げない検証は「検証」の名に値しないということだ。さらにその一線を突破しなければ再発防止策を含めてその組織が未来に活かすための具体的な教訓をつかみ取ることも難しいといわざるをえないだろう。

 だからこそ、過去の報道に対する自らの説明責任を十全にはたさないままにメディア各社がこのまま「見せかけの検証」レベルで検証を終えてはならない。なぜなら、他者に対しては説明責任を厳しく求めるにもかかわらず、いざ火の粉が自分に降りかかってきたら自らの報道を検証の俎上に載せ、他者に要求するのと同程度の厳しさで検証していくだけの見識や覚悟がないようでは「ダブルスタンダードだ」との批判を免れるのは難しく、そのメディアが行う「検証報道」に対する人々の信頼もなくなってしまうからだ。

 要は、メディア各社は自らの「説明責任」に関する「信頼性」の根幹そのものが人々からいま問われているのだということを改めて認識する必要があるということだ。

 

メディア各社は具体的な「記者クラブ改革」に挑め

 記者会見改革に向けた取り組みは過去にも何度かあった。例えば日本新聞労働組合連合(新聞労連)は2010年3月、「記者会見の全面開放宣言 記者クラブ改革へ踏み出そう」と題する文書を発表した。それはこんな呼びかけの文章で始まっている(4)

「「新聞の危機」が拡大しています。(中略)しかし、危機の時代にあっても、市民の知る権利に奉仕し、権力を監視する新聞ジャーナリズムの意義はいささかも薄れてはいません。むしろ逆境にいるからこそ、後ろ向きにならず、改革すべきところは改革し、新聞再生に努めることが求められています」。宣言はそう述べた上で、まずは「記者クラブに所属していない取材者にとってニーズが強く、記者クラブ側にとっても取り組みやすいと思われる記者会見の全面開放をただちに進めることから始めましょう」

 当時、新聞労連委員長だった現朝日新聞編集委員の豊秀一は月刊『Journalism』(同年8月号)の中で、「私たちが3月に「宣言」を公表したのは、記者クラブが抱える問題をこれ以上放置し続ければ新聞そのものの危機につながりかねないと考えたからだった」と述べた上で、新聞労連が1994年2002年にも「記者クラブ改革の提言」を取りまとめたにもかかわらず「閉鎖性・排他性という現実がほとんど変わっていない」ことを振り返りつつ、議論の出発点としては「記者クラブ解体論には立たない」とのスタンスを示しながら「記者会見の全面開放」を目指す考えを強調するに至った経緯を説明している。

  新聞労連のこうした改革に向けた具体的な取り組みは貴重なものだったが、その後、記者会見の開放に向けた現実の動きがこの国で起きたかといえば、一部には変化が見られるものの、全体的には「閉鎖的で排他的」な状況は大きくは変わってはいないのが現状だ。

  だが、繰り返しになるが旧ジャニーズ事務所による会見をきっかけに逆照射されている記者会見や記者クラブの問題を今回もこのままやり過ごしてしまえば、メディアに対する人々の不信感はいっそう深まり、長い目でみればまわりまわってメディア各社の経済的な存立基盤をも脅かしていく事態になっていくことだけは間違いがない。

  国民から「知る権利」を負託されているメディアの記者として、あるいはメディア企業の経営者として、この国の民主主義を機能させて前へ進めるためにも、「閉鎖的で排他的」と長年にわたって厳しく批判されてきた記者会見や記者クラブの改革に勇気をもって挑むのか、それとも旧ジャニーズ事務所のトップによる極めて深刻な性加害問題の時の対応と同じように見て見ぬ振りをしながら今後も問題の隠蔽に加担し続けるのか。

  いま問われているのはメディア各社の経営者や現役の記者一人ひとりの覚悟だ。

  最後に、1994年提言をまとめた冊子にジャーナリストの原寿雄が寄せたことばを月刊『Journalism』2010年8月号から引用する形で紹介したい。

  <「記者クラブは、国民の知る権利実現のために、権力機構の中に築かれた民主主義の橋頭堡である」――こう公言できるのはいつの日か。最後は記者たちの心構えである>

(文中敬称略)

 

(1)レジス・アルノー「「井ノ原氏に拍手」に感じた日本メディアのヤバさ 1回目の会見と決定的に違ったポイント」東洋経済ONLINE https://toyokeizai.net/articles/-/706245

(2)

https://reutersinstitute.politics.ox.ac.uk/sites/default/files/2019-06/DNR_2019_FINAL_0.pdf

(3)城俊雄『ニューヨーク・タイムズのデイビッド・ハルブフィンガー政治エディターに聞く』、月刊『Journalism』2023年1月号、朝日新聞社、7頁。

(4)豊秀一「記者クラブをどう改革すべきか 新聞労連からの提言」、月刊『Journalism』2010年8月、48~53頁。

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著者略歴

  1. 松本一弥

    ジャーナリスト.1959年生まれ.早稲田大学法学部卒.朝日新聞入社後は調査報道記者として経済事件やオウム真理教事件などを担当.その後月刊『Journalism』編集長,『論座』編集長,夕刊企画編集長を歴任.この間,早稲田大学政治経済学部や慶應義塾大学法学部でメディア論や取材論を教えた.退社後は慶應義塾大学Global Research Institute客員所員を経て現職.
    単著に『55人が語るイラク戦争 9.11後の世界を生きる』(岩波書店),『ディープフェイクと闘う「スロージャーナリズム」の時代』(朝日新聞出版),共著に『新聞と戦争』(朝日文庫上下巻).総括デスクを務めたプロジェクト「新聞と戦争」では取材班とともに石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞,JCJ(日本ジャーナリスト会議)大賞,新聞労連ジャーナリズム大賞を受賞した.

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