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メディアの「罪と罰」

メディアは「デジタル時代の動的な説明責任」をはたせ

 

「開いた口が塞がらない」―財務副大臣の辞任

 何か問題が起きた時、政治家がいつも口にするのが「説明責任」ということばだ。例えば岸田首相はことあるごとに「国民のみなさんに対し、責任を持って、ていねいに説明していく」「国民への説明を徹底していきたい」と話す。だが現実には、国民に向かって、自分のことばで、ていねいかつ徹底的に「説明責任」をはたしたことは現時点で一度もない。

 2023年11月、神田憲次財務副大臣が辞任した際もそうだった。税理士資格を持っていた神田は固定資産税を滞納して計4回もの差し押さえを受けていた。「辞任ドミノ」が続く岸田政権では第二次内閣改造後三人目の政務三役の辞任だったが、よりによって課税を担当する財務省の副大臣が滞納を繰り返していたという事実が明らかになると「開いた口が塞がらない」「納税者を馬鹿にしている」と国民の間からは厳しい怒りの声が上がった。

  にもかかわらず、岸田首相はこの時も「任命責任については重く受け止めている」「政府一丸となって緊張感を持って職責を果たし、国民の信頼回復につなげていく」などと、どこか他人事のように話すだけだった。要するに今の日本では、「説明責任」ということばが権力者にとって極めて都合のいい「マジックワード」、要はそのフレーズを繰り返すことで「権力者が誠実に説明責任を果たすのを期待する」ことを結果的に人々に諦めさせ、「何をいっても事態は変わらない」と思考停止に誘うだけの空疎な常套句に成り下がっているのだ。

 他方、この国のメディアは「客観報道」と称して権力者の欺瞞に満ちた言動を「そのまま、客観的に」伝えることで無責任な権力者のふるまいを事実上追認しているケースが多い。そんな「ニセの客観報道」を通して事実上の「共犯関係」にあるともいえるメディアが、では自らの報道に関しては十全に説明責任をはたしているのかといえば、答えは「NO」といわざるをえないだろう。故ジャニー喜多川氏の所属タレントに対する深刻な性加害問題をめぐり、メディア各社はこの問題を長年見過ごしてきた責任を問われているにもかかわらず、自らの過去の報道について行った検証報道はごく表面的なレベルにとどまっているからだ。

 そんな危機的な状況にあるからこそ、メディアはニュースに対する人々の疑問に正面から速やかに答えていくとともに、ブラックボックス化して外部からは見えない「取材過程の可視化」を過去に例がないほど進めることを通して「デジタル時代にふさわしい動的(dynamic)な説明責任」を果たしていく必要がある。「検証の刃」を自らに突きつけられないようなメディアには他者を厳しく批判する資格がなく、またその程度のメディアが行う権力批判は説得力と迫力を欠き、結果的に人々の信頼をも得られないことは明白だからだ。

 

デジタル時代のメディアの説明責任とは

 1月30日に岩波書店から出版された『メディアの「罪と罰」――新たなエコシステムをめざして』の第8章では「デジタル時代のメディアの動的な説明責任と「取材過程の可視化」」について詳述している。ここではその骨子を紹介する形で以下考察を進めていきたい。

 「デジタル時代の動的な説明責任」には大きく分けて二つあると私は考えている。

 一つ目は、メディアのニュースの取り上げ方や報道の仕方(もしくはニュースが報道されないこと)をめぐって人々が疑問や不信感を抱いた時、ネットを通じてその場でメディアに質問を投げかけ、メディア側も「おざなりの答弁ではない答え」を可能な限り速やかに回答する「動的な(dynamic)説明責任」のためのスキームを新たに創って稼働させることが必要だ。人々との間で深刻な根詰まりを起こしている「信頼性の回路」を一日も早く回復させることはメディアにとって喫緊の課題だからだ。「動的な」という意味は、これまでのような通り一遍の「静的(static)な対応」を乗り越え、デジタル時代にふさわしい説明責任を果たしていくという趣旨だ。

  メディア各社は一般企業と同じように広報部(室)を設けて読者や視聴者からの質問を受けつけてはいる。だが多くの場合は回答までに時間がかかる上に、その回答も人々が満足できるレベルにはほど遠く(実質的に回答しない場合も少なくない)、「いただいた貴重なご意見は今後の新聞製作(番組制作)の参考にさせていただきます」といったあたりさわりのない対応で済ませているのが現状だ。それでは「市民と本気で向き合っている」とはいえず、ましてやメディアとして「十分に説明責任をはたしている」とは到底いえないだろう。

  だからこそ、蔓延する「メディア不信」や「メディア無視」の濃い霧を晴らすためにも、デジタル時代にふさわしい動的な説明責任をはたす責任がメディアにはあるとともに、人々には自らの疑問点に対する説得力のある答えをメディアに要求する権利があるのだ。

 デジタル時代にメディアがはたすべき説明責任の二つ目は、多くの人々がブラックボックス化していて不満に感じている「取材過程の可視化」をめぐり、前例がないほどの範囲と深さで徹底的に取り組むことで「見える化」を進めるということだ。

 

台湾の住民参加型行政プラットフォーム「Join」から学ぼう

 まずは一つ目の「動的な(dynamic)説明責任」のためのスキーム作りについて考えてみよう。その際参考になるのは、台湾のデジタル担当相として著名なオードリー・タンが関わった「市民であれば誰でも政治について電子請願という形で自由に意見を表明できる住民参加型の行政プラットフォーム」=「Join」の仕組みではないかと私は考えている。

 オンラインの公共インフラ空間を使って誰もが政治的な提案をネットで請願できるこの「Join」には、市民から出されたアイデア(発案)に対し、60日以内に5000人以上の市民の署名(賛同)が集まれば政府は必ずその請願を議題に取り上げて検討し、2カ月以内に担当部局が検討結果を公表しなければならないというルールが決められている(1)。 

 ではこのタンの革新的なチャレンジを、いかにして報道の文脈に採り入れ、新たなスキームに落とし込んで実行していくか。

  メディアが動的な説明責任をはたすためのスキームは、台湾の市民が政府に対する信頼感を醸成させるという点で成果を上げた「Join」との比較でいえば、市民からの疑問に応える期間を例えば「最短の場合は24時間以内、最長でも7日まで」のようになるべく短く設定した上で、①同趣旨の質問が10人以上集まればメディアは必ず質問を取り上げて回答する②検討過程で交わされた議論についても公開可能な範囲をネットで公開するなどの改良を加え、市民とメディアがより一体感をもてるような工夫を施す必要があるだろう。大事なポイントは、「メディアが一市民の疑問にまともに答えてくれるわけがない」と考えている人々の予想を大きく裏切るだけの熱意のある対応を行う仕組みを整えて実行することだ。

 こうした改革を実行するためには、もちろんメディア側も人々のクレームに対する防御的で消極的な態度を、リスク管理という観点からも根本的に改める必要がある。

  実際にメディアがこうした取り組みを実現する仕組みを構築する際は、a)回答内容の取りまとめに関する最終決裁権者を誰にするか、b)その決定を踏まえて誰が前面に立って対応するか、c)メディアの回答が炎上するなど不測の事態が発生した場合のマニュアルをいかに整備するか、d)大量自動投稿を可能にするbotなどによる反復投稿を含めた偽の質問を見破る方法をいかに確立するか――など、従来の危機管理態勢をもっと動的に整備する必要性に迫られることにもなるだろう。

 

「悪いことを追及すべき立場の人間がなぜ麻雀ができるのか教えてほしい」

 デジタル時代にメディアがはたすべき説明責任の二つ目である「取材過程の可視化」をめぐる作業も一つ目の取り組みと同様、死活的に重要だと筆者は考えている。なぜなら多種多様なメディア批判がこれまで繰り広げられてきたにもかかわらず、メディア内部の人間と外部の人々との間の意識が依然として決定的にズレているということに、メディア側が鈍感で一向に気づいていないか、気づこうとしていないという現実があるからだ。

 「ニュースはどこかいかがわしく、信頼できない」という思いを人々に抱かせるにいたった責任の多くはもちろんメディア側にある。そのきっかけとなったケースの一つは2011年3月11日に起きた東京電力福島第一原発事故をめぐる報道だろう。そこで人々が目の当たりにしたのは、原発ムラの「政・官・業のトライアングル」にとどまらず、学者やメディアまでが組み込まれた「原発利益共同体の五角形」とでもいうべき閉じた関係性の不透明な実態であり、その中にどっぷりつかったメディアの報道のありようだった。

 さらに直近でいえば2020年5月、新型コロナウイルスの感染拡大を受けた緊急事態宣言が出されているのをよそに、週刊文春がスクープして発覚した、東京高検検事長と産経新聞記者や朝日新聞の元司法担当記者が賭けマージャンを繰り返していたケースだ。事件発覚後、女優の大竹しのぶは朝日新聞の連載コラムでこの問題についてこう書いた。 

 「命をかけて必死で働いている病院関係者の方々、誰の面会も許されず、病院で亡くなった方もいるだろう、先行きが見えず自殺した方もいた。そんな状況の中で、悪いことを追及すべき立場の人間がなぜ、麻雀ができるのか教えて欲しい。事実を正しく報道すべき新聞社の方がなぜ? 怒りを通り越してなんだか恐怖さえ感じてしまった(2)

 この受けとめ方こそが市民感覚そのものだと筆者は感じる。だが問題が発覚した当初、メディア関係者の中には「検察幹部によくそこまで食い込んだ」といった頓珍漢な反応を示す者も少なからずいた。市民とメディアの距離はそれほどまでに離れているということだ。その距離を少しでも縮めていくためにも、メディアで働く当事者は前例のない深さと範囲と新たなやり方で自らのリアルな姿を人々の前に開示しなければならないといえるだろう。

 メディアが発信する情報の品質を外部からチェックする手段や回路が存在しないからこそ、メディアは外部からは一切見えない取材過程の「見える化」に全力で取り組むこと。さらに記者や番組制作者が取材の過程でどんな事実に遭遇し、その中からどういう理由で事実を選択的に選んで最終的な記事や番組にまとめていったのか、試行錯誤の流れもオープンにしてあとから人々がネット上で確認・検証することができるようなデジタル上の工夫も要るだろう。

 そんな「追跡可能性」(traceability)や「検証可能性」(verifiability)を確保する回路、つまりは情報やニュースに関して市民に向けた「新たな信頼保障の仕組みと流れ」を創ってオープンにすることがデジタル時代には必要なのだ。

 

「radical transparency」の精神で「取材過程の見える化」に挑め

 説明責任をめぐるこれら二つの取り組みに挑戦する場合、参考になるのは先述したタンのモットーでもある「ラディカル・トランスペアレンシー」(徹底的な透明性、radical transparency)という考え方だ。

 「政治において信頼を積み上げてゆくためには相互のコミュニケーションを促し、透明性を高めることが大事だ」。そう考えるタンはデジタル担当相就任以来、「徹底的にオープンで透明性の高い手法をとる」ことにこだわり続けている。その考えを支える精神こそが「ラディカル・トランスペアレンシー」だ。タンはこう指摘している。

 「徹底的にオープンにする。作るところを見せる。プライバシーを守っているところも見せるということが信頼につながり、成功につながります」(3)。また政府に対する市民の信頼を取り戻そうと考えたタンが主導して取り組んできた「オープンガバメント(開かれた政府)」作りの要諦についても、タンは「すべてのプロセスを明らかにすることによって、市民の行政府に対する信頼が高くなり、それがまたさらに市民を政治参加させるという好循環につながります」と述べている(4)

 いくつもの画期的な試みに果敢に挑むことで台湾におけるデジタル民主主義を実現してきたタンのこうしたことばからも、人々の信頼を獲得する上で「過程を見せる」ことがいかに重要か、が伝わってくる。だからこそ、日本のメディアも言い訳程度に表面をなでるような「取材過程の可視化」でお茶を濁すのではなく、「ラディカル・トランスペアレンシー」の名にふさわしいレベルにまで「取材過程の見える化」の徹底に挑めるかどうか。各社の本気度が外部からもはっきり見えるだけに、メディアにとってはまさに正念場となるだろう。

 この取材過程の「見える化」は、プロセス自体を販売可能な商品とみなす「プロセスエコノミー」の観点からも極めて重要だ。なぜなら制作過程の「プロセス」こそは、ほかの誰にも真似のできない、その会社独自の経験が詰まっていて第三者からも関心を持たれる可能性を秘めた価値や商品になりうるからだ。

 いま必要なのはおそらく逆転の発想だ。人々の心に届く深い報道を展開していくためにも、取材プロセスを公開して自らをさらけ出し、「メディアは決して間違えない」という意味での「誤った無謬性」とは無縁の、メディアとして時に悩みを抱えた脆弱(vulnerable)な存在であることもオープンにしながら、そのことによって逆に支持者を増やしていくという新たな報道スタイルの開発。それこそがいま求められているのだ。

 

世論の熱狂と「言論一致」の怖ろしさについて

 「台湾有事」を始め、きなくさい雰囲気が社会の一部に漂い始めている昨今、過去に犯した戦争礼賛報道でいくつもの「罪と罰」を背負っている日本のメディアは今後どうなっていくか。作家の半藤一利は、1931年の満州事変の際にすべての新聞が軍部擁護に向けてなだれを起こした現象に関連して次のように指摘している(5)

 「新聞は、戦争とともに繁栄し、黄金時代を迎えるという法則があると聞くが、それが見事に立証されている。そしてそこでは、ニュースの最重要な特性である客観性が、センセーショナリズムに侵され、特大の活字でくり返され、軍部の選択したコースへ読者を誘導していく役割だけをはたすことになる」

 いまの時代は仮に近い将来に戦争が起こったとしても紙の新聞が「繁栄」することはないだろうが、真実性が極めて疑わしい情報や言説が大量に流されている「ポスト真実」の時代にあって、戦争に向けて人々を鼓舞する言説であふれたようなネットメディアが経済的に潤うということは大いにありうるかもしれない。

 半藤は前述の指摘に続いて、問われるべきは新聞と世論の関係のあり方だとしてこう述べている(6)

 「問題は新聞と世論ということについてです。この微妙な相関関係は一筋縄ではいかない難問です。ジャーナリズムが煽ることで世論が形成され、世論が大きな勢いになってくるとこんどはジャーナリズムが引っ張られる。(中略)昭和史からも、国連脱退、盧溝橋事件、日独伊三国同盟など、いくつもの新聞社のハッスルぶりの例を引っ張りだすことができます。そうして煽られた世論の熱狂の前には、疑義をとなえて孤立する言論機関は、あれよあれよという間に読者を失っていく。数多く新聞があろうと、つまるところは、アッという間に同じ紙面になる。結局は一紙しかないにひとしくなるのです。挙国一致ならぬ言論一致、ほんとうに怖いことというほかはありません」

 世論とジャーナリズムの「煽り、煽られる」関係性の中に自らがはまっていないか、メディアは絶えざる自己チェックが必要だ。また、偽情報や偽動画を駆使した「ディープフェイク」、さらには様々な陰謀論に人々がだまされないようにするためにも、厳しい取材で得られた確かな事実のみで構成するニュースの重要性がいよいよ増してきている。

 そうしたホンモノの情報やニュースを確実に届けるためにも、まずはメディア自身が人々から高い信頼を得られるための自助努力にもっと本気で取り組むことが必要だ。その意味でも、繰り返しになるが、他者を批判するメディアが、自らの報道に関しても同程度の厳しさで検証してその結果を適宜公表するというフェアな姿勢と覚悟が不可欠なのだ。

 また、世論の熱狂に水をかけるような冷静な言論機関が権力側と国民側の双方から批判を浴びて孤立する危険性も十分ありうるだろうが、そうした事態を避けるためにも、危機の時代にジャーナリズムの使命をはたす覚悟を持った言論機関同士がふだんから定期的に話し合いの場を設け、連携の度合いを深めておく重要性も今後増してくるに違いない。

 そして「熱狂する世論によって支えられた言論一致」で出来上がる言論の統制空間を突き破っていくためにも、メディア各社はそれぞれが「デジタル時代にふさわしい動的な説明責任」を十全にはたして人々の信頼を得ていく努力を地道に積み重ねていく作業がますます必要になってくるだろう。(文中敬称略)

(1)大野和基インタビュー・編『オードリー・タンが語るデジタル民主主義』NHK出版新書、3~4頁、17~21頁。

(2)朝日新聞2020年5月22日、「大竹しのぶ まあいいか:二六七 なぜ今、なぜあなたが」

(3)「集団知がさまざまな問題を解決する 台湾デジタル担当大臣 オードリー・タンさんが語る未来」『Japan Innovation Review、JBpress』2020年11月2日 https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/62751

(4)大野、前掲書、20~21頁。

(5)半藤一利『あの戦争と日本人』文春文庫、380頁。

(6)前掲書、381頁。

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著者略歴

  1. 松本一弥

    ジャーナリスト.1959年生まれ.早稲田大学法学部卒.朝日新聞入社後は調査報道記者として経済事件やオウム真理教事件などを担当.その後月刊『Journalism』編集長,『論座』編集長,夕刊企画編集長を歴任.この間,早稲田大学政治経済学部や慶應義塾大学法学部でメディア論や取材論を教えた.退社後は慶應義塾大学Global Research Institute客員所員を経て現職.
    単著に『55人が語るイラク戦争 9.11後の世界を生きる』(岩波書店),『ディープフェイクと闘う「スロージャーナリズム」の時代』(朝日新聞出版),共著に『新聞と戦争』(朝日文庫上下巻).総括デスクを務めたプロジェクト「新聞と戦争」では取材班とともに石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞,JCJ(日本ジャーナリスト会議)大賞,新聞労連ジャーナリズム大賞を受賞した.

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