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メディアの「罪と罰」

「市民の側に立つメディア」は絵空事か 早野透という政治記者がいた

 

「丸山真男と田中角栄は地下水脈で繋がっている」

 1月30日に岩波書店から出版した『メディアの「罪と罰」新たなエコシステムをめざして』の中で、新聞やテレビなどのメディアは「市民の側に立つ・市民のための公共メディア」としての姿勢を鮮明にしていま一度生まれ変わるべきだとの考えを私は強調した。「台湾有事」が声高に指摘される中、日本を巻き込むような危機的事態が近い将来起こり得ると仮定した場合、「市民の側に立つ」姿勢を平時において示せないようなメディアが、有事の際は政府の「大本営発表」を垂れ流すことになるのはほとんど疑問の余地がないからだ。

「市民の側に立つ」とは、記者が、権力者の懐に入り込みながらも権力側に取り込まれず、物事の真相に迫った上で、知り得た事実をありのままに市民に伝えることを意味する。

 「メディアが『市民の側に立つ』? いまのメディアにそんなことできるわけがない」。そんな冷ややかな声もあるだろう。だが、それはほんとうに「絵空事」なのだろうか。

 「権力を持った政治家や官僚組織、大企業や捜査機関をニュースの『主語』にする代わりに、ふつうの市民を主人公に据えて、日々の暮らしや政治、経済、時には国際政治の動きを人と人のつながりの中で描いていくことこそがこの国のメディアにとって重要だ」。そう考えた政治記者が朝日新聞にいた。東京大学法学部在学中は戦後民主主義を主導した丸山真男教授のゼミで西洋政治思想史を学び、入社後は政治部に所属して首相の田中角栄にとことん食い込み、田中がこの世を去るまで取材を続けて2022年に77歳で死去した早野透だ。

 「角栄は、田中派という多数支配、強権支配に走っていく時期もあったけれども、その思想の根底には少数意見への想像力があった」(1)「戦後民主主義のもっとも根底的なところで、丸山真男と田中角栄は地下水脈で繋がる」(2)。そう考えた早野は同時に「公共性」(コモン)というものを、国家が国民に対して「上から」施すという意味の官製用語としてではなく、「人と人の間にある具体的なもの」ととらえ、「市民を主語にする報道」を通してそれを「地べたから」問題提起することで豊かにしていこうとした。

 「民衆の、民衆による、民衆のためのジャーナリズム、それがわたしたちの希望である」(3)。そう唱えた早野は2005年、朝日の夕刊一面に「ニッポン人脈記」という連載プロジェクトを立ち上げて全力を傾注した。それはともすれば官僚主義的で硬直的な紙面を作りがちな朝日を始めとするこの国のメディアを具体的に改革するための抵抗でありチャレンジだった。この原稿では権力に肉薄しながらも決してすり寄ることのなかった早野の思想にフォーカスすることでジャーナリズムの「もう一つの可能性」について考えてみたい。

 

「君ね、まったく面白くないんだよ」

 「この世の中には、さまざまな思いの人々が暮らしていて、そこに渦巻く人々の感情の発露がある。ときに、それが大きく、集団で危険なカーブを描くときもある。ファシズムが忍びよる。社会部記者は、そうした人々の日常の営みのなかにいて、危険信号を発信する。だから、政治記者だけではない、経済記者も社会部記者も、すべて、この国が戦争などの事態にならないように監視し、報道していなければならない。それがジャーナリズムの究極の目標ではないか。私たちの父母の時代、大日本帝国を翼賛して戦争をあおった戦前のメディアがいかに、ジャーナリズムの精神に違背していたものか、その反省を忘れてはなるまい」(4)

 「ニッポン人脈記」の連載原稿は、「女が働く」「市民と非戦」「排泄」「うつ病」「民主主義」「ハンセン病」などありとあらゆるテーマのもと、そのテーマに関係する有名無名の人々のエピソードをつなぎながらそのテーマを深く掘り下げていくスタイルが一般的だった。

 プロジェクトの主宰者として、また全体を牽引するキャップ役として、自ら取材をしながら原稿を書く。同時に他の後輩記者が書いたすべての原稿に目を通し、「一面掲載にふさわしい原稿だ」と納得できるまで意見を述べ、記者やデスクと徹底的に議論するのが早野の流儀だった。ふだんは穏やかだが、原稿のクオリティーに対してはとりわけ厳しく、入社30年目だろうが新人だろうが「この原稿ではダメだ」と思えば妥協は一切なかった。

 権力側を主語にする原稿や発表ものを垂れ流す原稿が主流の紙面を大胆に作り変え、「ふつうの市民を主語にする紙面」に変革していくためには、そのことに批判的な「抵抗勢力」を納得させ、ある意味で組み伏せるだけのクオリティーの高い原稿を日々出し続ける必要があった。また権力側にすり寄るような報道に歯止めをかけ、「ニュースの主語を市民に奪い返す」ことで読者により強く深く訴えかけていきたいという問題意識が早野にはあったという意味においても、「ニッポン人脈記」はただ単に人々の営みを伝えるだけの情緒的なプロジェクトではなかった。

 テレビにも出るようなベテランの政治記者が原稿を担当した時のことだ。原稿を一読した早野はその記者を呼び出し、「君ね、まったく面白くないんだよ」と言い放った。そして連載を通じて十数回にわたって原稿を書き直させた。ベテラン記者は後輩の前で大汗をかきながら早野の特訓を受け続けた。そんな光景を目の前で目の当たりにしたある記者は「その取材記者が、取材先を含めた社内外に対する自己顕示欲を満たすために原稿を書いているのか、それとも取材相手にほんとうに心を揺さぶられて全身全霊を傾けて書いているのか。早野さんはすべて見抜いている」と感じた。

 

「発表もののニュースと人々のニュース、どっちが重いと思っているんだ!」

 チームには早野のほかに専属のデスクが3人配属され、社内公募で集まってきた記者の原稿に手を入れて完成品に仕上げていった。編集局長室で紙面委員をしていた私も2009年からチームにデスクとして加わり、約3年間にわたって早野とみっちり仕事をした。

 東京本社にある編集局の大きなスペースは政治部や社会部、経済部など既存の部が占拠していたため、実験的なプロジェクトチームだった「ニッポン人脈記」には本館と別館をつなぐ廊下の途中にあった、うなぎの寝床のような窓のない狭いスペースが割り当てられた。

 そこに早野キャップとデスク3人、時々の原稿を担当する何人もの記者が集い、原稿の中身や写真の扱いなどをめぐって時に夜遅くまで熱い議論を交わした。そんなことからチームはいつのころからか「早野学校」と呼ばれるようになった。どんな小さな市民集会でも必ず足を運んで取材するのをモットーとしていた早野は毎夕、取材ノートや資料で膨れ上がった重そうなショルダーバッグを少し太り気味の肩に食い込ませて汗を拭きながら部屋に現れ、冷蔵庫にあったアイスクリームをおいしそうになめながら笑顔で談笑に加わった。

 夕刊一面下が定位置となった「ニッポン人脈記」は、「2001年9月11日に米国で起きた同時多発テロぐらいの超弩級の事件や事故でなければ休載しない」との約束を早野が編集幹部と交わした上で始まったが、実際には一面から外して二面か三面に移すか休載することもたびたびあった。その際は、その日の夕刊を仕切る当番編集長が、人脈記のデスク経由で早野に連絡をし、早野のOKを得てから記事を外すというルールになっていた。

 ある時、早野は「ニッポン人脈記」の記事を一面から外す最終判断をした編集局長を人脈記チームの部屋に呼びつけ、厳しくしかりつけた。

 「君ね、こっちはどんな思いで人々の営みを伝えているかわかっているのか? 日銀の政策金利のニュースなど、一過性のものじゃないか。金利が1%変わったという記事を、多くの読者がほんとうに読みたがっていると思っているのかね? 人々とともにあるべき新聞社にとって、そんな発表もののニュースと人々のニュース、どっちが重いと思っているんだ!」

 社内で偉そうに振舞うことだけは一人前のその編集局長もその時ばかりは身を縮こませて「申し訳ありません」と小声で謝罪のことばを繰り返した。早野にとって「民衆の、民衆による、民衆のためのジャーナリズム」ということばは単なるスローガンではなく、「日々の原稿を通してそれを実践する」という思いは決して生半可なものではなかったのだ。

 

「新聞には期待していなかった」読者からの反響はすさまじかった

 時に「官報」と揶揄される朝日の記事のスタイルが夕刊一面で大きく変わったことに対し、「新聞にはもう何も期待していませんでした」という読者からの反響はすさまじかった。共感する手紙やはがきが連日、何通もチームに届いただけでなく、時には一本の記事に対して数百件の共感メールが寄せられることもあった。「次回はぜひこのテーマを取り上げてほしい」といったリクエストや、「ここにこんな人がいる」などの情報提供も相次いだ。

 このプロジェクトは、人と人の間に埋もれて見えにくかった「公共的な問題」や「公共的なつながり」を一本一本の原稿が掘り起こし、それら(コモン)を豊かなものにしていく取り組みであるとともに、現状に抗い、異議申し立てをする人々の熱い思いを紙面で可視化する試みでもあった。別の言い方をするならば、権力側があらかじめ制御した情報を、市民に対し「上から」伝えるのをメディアとして手助けするのではなく、市井の人々が持つ様々な生きた情報を「下から」広げて、公共的な議論がわき起こるのをメディアとして少しでも応援しようとする企てでもあった。

 2005年4月1日に掲載された初回の「プロローグ」では、早野自身が熱烈なファンでもあった女優の吉永さゆりを取り上げ、自らインタビューして原稿を書いた。吉永は16歳で名作「キューポラのある街」に出演して以降、「愛と死をみつめて」、寅さんシリーズのマドンナ役など数多くの作品に出て大女優への道を進んだ。「夢千代日記」では胎内被曝した芸者を演じ、その時に被爆者と知り合った縁がその後の吉永を動かしていく。翌86年、吉永は自分で選んだ「原爆詩」の朗読を始め、2004年には「映画人九条の会」結成に参加した。

 「イラク戦争支持とか先制攻撃がどうとか……。ここはしっかりみんなで考えて、声にださないと大変なことになるという危機感が強いんです。憲法9条は読めば読むほどすばらしい。一人一人の命を守るという原点に世界が帰ってくれたら」

 そんな吉永のことばを伝えた原稿のラストを、早野はこう締めくくっている。「私たちはつながりあい支え合って、戦後60年のニッポンという共有空間をつくっている。どこから来てどこへ向かおうとしているのか。いま、ここに生きる人々の物語を始める」

 その後も早野は自ら精力的に原稿を書き続けた。「「国家再建」の思想」シリーズでは、元首相の中曽根康弘の足跡をたどる過程で自民党政調会長(当時)だった与謝野馨や「政界最後のフィクサー」福本邦雄、「臨調」で行政改革を切り盛りした瀬島龍三、劇団「四季」の浅利慶太らを取り上げ、その人間模様を活写した。また「市民と非戦」シリーズでは反戦活動に取り組む若者たちとともに、恩師の丸山真男にまつわる人々を描いた。左翼活動家の安東仁兵衛や元みすず書房編集者の小尾俊人、「丸山真男手帖」の編集リーダー川口重雄、哲学者鶴見俊輔、作家小田実、「べ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)の事務局長を務めた吉川勇一、憲法学者奥平康弘、元首相三木武夫の妻の三木睦子、歌手加藤登紀子、加藤の夫の藤本敏夫らの生き方を通して民主主義のいまを見つめ、この国のありようを考えた。

 

「宵町草のやるせなさ こよひは月もでぬそうな」――大逆事件と「宵町草」

 だが早野の最高傑作は、1911年、ジャーナリストで思想家の幸徳秋水らが明治天皇の暗殺計画を準備したとされて大逆罪(天皇・皇族に危害を加える犯罪)で死刑となった大逆事件を取り上げた二つのシリーズだったと私は考えている。

 「大逆事件は、天皇の暗殺を企てたかどで12人が死刑、12人が無期懲役になり、天下を震撼させた。だが、ほんとにそんな計画があったのか、社会主義者らを一網打尽にする権力の陰謀ではなかったのか」。そんな問題意識のもと、早野は「権力になびかず、自分の意思・思想・情熱を貫いた人たちのことを書きたい」といって大逆事件に鋭く切り込み、事件に関連する様々な立場の人々の深い苦悩や思いに徹底的に寄り添い、縦横無尽に展開した。

 2009年5月に掲載された「大逆事件残照」シリーズの初回は、愁いを含む美人画や「宵待草」の歌で知られる竹久夢二を軸に描いた。夢二が作詞した有名な宵待草はこんな歌詞だ。

 まてどくらせどこぬひとを 宵待草のやるせなさ こよひは月もでぬそうな

  1910年に大逆事件が摘発されて幸徳秋水らが逮捕されると、夢二も2日間留置されたと伝えられている。夢二日記には警察官に尾行監視されたとの記述が随所にあった。

 そんな夢二の大ファンの一人だったとして、早野は政治学者で東京大学教授の篠原一を紙面に登場させてこう描いた。「蔵書の大半を伊豆大島の書庫に送ってしまったのに、夢二画集全5巻は手元に置く。『日本のインテリの世界では口に出しにくかったけど』、若いころから夢二の詩画に心ひかれていた」。その画集には「待てど暮らせど来ないのは、自由な社会、大逆事件後の人々のやるせなさでもあるんじゃないか」と感じた俳優の米倉斉加年(まさかね)の宵待草論が載っていた。早野の取材に対し、篠原は「いい文ですよ。やはり宵待草は、大逆事件なんですよ」と述べた上でこう語った。

 「夢二は女性を愛し、子どもを愛し、貧しき細民を愛し続けた。夢二のリリシズムは戦争や権力への抵抗ではなかったのか。だからいまなお、夢二と同じように体の中に権力への抗体を持つ人々の気持ちをそそるんではないかと思うんです」

 2010年1月に掲載されたもう一つの大逆事件シリーズの初回はとりわけ見出しが秀逸だった。夕刊一面が定位置だった「ニッポン人脈記」では、横に10文字程度でいかに魅力的な見出しをつけるかをめぐってチーム内でいつも議論し、時には激論になったが、誰よりも原稿を深く読み込み、掲載日前日に記者やデスクの間で確定した見出しを「やはり違うぞ」といってひっくり返すのはいつも早野だった。そして「なぜこの見出しではだめか」をその場で滔々と語り出すのが早野の常だったが、原稿に対する愛情の深さに裏打ちされたその理屈をさらにひっくり返すことは誰にも出来なかった。ちなみにこの時の見出しはこうだ。

 「おぼろ月夜に女と二人」 

 大逆事件に連座して26歳で絞首刑に処せられた古河力作を早野は描いたが、力作の弟の三樹松が遺した文章から見出しを取り出した。「僕も身につまされて、あるテロリストの唄った『死ぬならば断頭台か、さなくんば、おぼろ月夜に女と二人』の句をふと思ひ浮べた」

 天皇制国家による巨大な冤罪事件を描くシリーズの見出しとして、通常であれば考えられないような色気と凄みのある「これぞ早野流」といいたいようなセンスだった。

 

「丸山先生と角栄は戦後という時代の上半身と下半身ではないか」

 先述したように早野は東京大学法学部で政治学者の丸山真男に学び、朝日新聞社に入社後は地方勤務を経て政治部に所属して田中角栄元首相の番記者を務め、1993年に田中がこの世を去るまで「角栄番として」取材を続けた。だがそれは割り当てられた役割としてではなく、自分から志願したのだと早野は強調した。その理由について早野は評論家佐高信との対談でこう述べている。

 「丸山先生は、戦争を引き起こした日本社会の特質、そして戦後という時代を解析しようとして、多くの論考を書き、講演をし、社会運動にも関わった。戦後最大級の知性という立場で、この時間の連なりを思索しながら生きたと思うんですね。角栄は、敗戦によって焦土と化した日本で政治家となり、道路を造り、橋を造り、経済を興し、中国と仲直りをし、懸命に働いてきた人なわけです。だから僕のなかでは、丸山先生と角栄というのは、戦後という時代の上半身と下半身ではないかという思いがある」(5)

 またこうも語っている。「僕は敗戦の年に生まれて、「戦後」と同じ数だけ歳をとっていく。戦後とは何なのかと、自分の体で考え続けることになる。僕はたまたま丸山先生に思想史を学び、角栄に取材というかたちで政治と人間を学んだ。まるでとんちんかんな組み合わせだと言う人もいるでしょうけれど、僕はふたりに同じものを感じた。戦後とは何か、それを考えるうえで、ふたりは繋がってくる」(6)

 一般的には、田中角栄というと「金権政治」の象徴的存在として語られることが多いが、早野は角栄の別の一面も見ていた。1947(昭和22)年に角栄が初当選して第一回国会にデビューした際の出来事について早野はこう解説している。 

 「そこで自由討議があった。はじめての民主主義で、国会をどう運営していいのか、誰もわからなかった。だから最初は各議員が登壇して一〇分ずつ、自分の思いを語るという試みをおこなったわけです。角栄のテーマは民主主義論だった。「自由討議の存在理由は、(中略)尽くされぬ論議、隠されたる意見、少数意見を遺憾なく発揚するにあるのであります」と切り出して、(中略)「議員はひとりというも、これが背後に一五万五〇〇〇人の国民大衆があって、この発言はまさに国民大衆の血の叫びなのであります」と語った。丸山先生が思索のなかから民主主義を語ったとすれば、これはある意味で「上から」ですよね。しかし角栄は「上から」でなく、「若き血の叫び」と唱えつつ、新潟三区を走り回った。体の底からの民主主義です」(7)

 さらに元首相安倍晋三の政治と比較した上で、角栄流の政治をこう定義してみせた。

 「安倍晋三の政治は、二九〇議席を獲得すれば何でもできるみたいな地点に行き着いている。それと角栄はまったく違う。丸山先生は、デモクラシーとは理念だけでなく日々行動で獲得するものだと言っている。制度として「民主主義が達成させた」と安心した瞬間に、それは民主主義ではなくなるということです。民主主義とは常に求め続けるもので、不断に闘い取ってこそ民主主義だということを、丸山先生は言い続けた。そういう意味では、角栄は理屈よりも行動で民主主義を実現し続けた人だったから、丸山真男的デモクラットと言えるかもしれない」(8)

 理念形としての西欧民主主義と、権力闘争にあけくれる政治の泥沼の中にうごめく民主主義。両者をともに体感して自分流の政治取材を究めた早野は、その過程で学んだ民主主義の精神や「人と人のあいだに宿る公共性」のエッセンスを「ニッポン人脈記」に注ぎ続けた。

 

「ニッポン人脈記」の手法でイラク戦争を検証したい

 「ニッポン人脈記」取材チームのデスクだった私は2010年のある時、2001年の9.11からアフガニスタン空爆を経て2003年の「大義なき戦争」であるイラク戦争になぜアメリカが突き進み、小泉政権がそれを支持したかをこの連載プロジェクトで検証したいと考え、A4一枚の企画書を作って早野に提出した。メディアは目の前のニュースをただ追いかけるだけでなく、じっくり時間をかけてことの本質に迫る「スロー・ジャーナリズム」(検証ジャーナリズム)にもっと力を入れるべきだとの考えがあったからだ。加えて、戦争のような巨大なテーマでも「ニッポン人脈記」の手法で検証できるはずだとの思いがあった。

 企画書を一読した早野は「ぜひやるべきだ」とその場で賛成し、全面的に応援してくれた。私はデスクとして日々の連載原稿をさばきながら自分の出張の準備を進め、スーツケースとパソコンを手に、イラクやアメリカ、ドイツ、フランス、イギリスをひとり旅して3か月間、イラク戦争に関わった当事者たちに会い続け、帰国後は国内の関係者に話を聞いた。

 イラク人小児科医やイラク国内の病院で奮闘する日本人看護師、イラクで罪のないイラク市民を何人も殺し、帰国後は深刻なPTSDを発症して自殺願望に苦しんだ元米軍兵士、米軍発信の情報でメディアをコントロールしようとした米国防総省の女性報道管、情報公開法を駆使しながら米国防総省のウソを暴いて問題提起を行ったハーバード大学教授、誹謗中傷にひるまずブッシュ政権を批判し続けた批評家スーザン・ソンタグの息子、国連でイラク戦争開戦反対の演説を行ったフランスの外相、イギリス世論の誘導を画策したブレア政権と闘った元BBC会長、米英の兵士によって殺されたイラクの市民や子どもたちの数を数え続けたNGO「イラク・ボディ・カウント」のメンバー、小泉純一郎内閣の官房長官...。

 帰国後は「イラク 深き淵より」のタイトルで2010年7月から9月まで、「ニッポン人脈記」紙上最長の23回の連載を執筆した。原稿をていねいにみてくれたのは、早野からキャップ役を受け継いでいた外岡秀俊だ。編集局長・ゼネラルエディター(GE)や編集委員を務めた外岡については『メディアの「罪と罰」』の中で一章(第2章 朝日新聞の最暗部にメスを入れるーー「空前絶後」の編集局長、その早すぎる死)を割いて詳述したのでぜひ読んでいただきたい。連載は幸いにも好評を得て英訳され、「FROM THE ABYSS OF THE IRAQ WAR」のタイトルでインターナショナル・ヘラルドトリビューン紙にも掲載された。また『55人が語るイラク戦争 9.11後の世界を生きる』と題した単行本を岩波から出版もした。

 振り返って、朝日における私のメンターは早野と外岡だった。二人のような記者がいなくなった朝日の現状を思う時、自分はいかにラッキーだったかと改めて思わざるをえない。

 

「ふつうに生きている市民の感じ方から政治のありようを考えたい」

 早野は「ニッポン人脈記」に全力投球する傍ら、週一回の政治コラム「ポリティカにっぽん」を書き続けた。「できうればわが想いを政治の現実に反映させたい」との思いも強く、朝日を退社した後もデジタル版で二週に一回、「新ポリティカにっぽん」を書いた。

 「ポリティカにっぽん」は政治記者早野の代表的な仕事であり、早野が死去した際の朝日の記事でも言及している。また早野の業績を振り返る記事でも、おそらくはその時々の記者がコピペして貼りつけたのであろう、判で押したように同じ略歴が掲載されているが、そこには早野が「ニッポン人脈記」を主宰したことについては一言も触れられてはいない。

 官報的な紙面を作りがちな朝日にあって、「ニッポン人脈記」は政治部や経済部、社会部などの無言の抵抗と闘いながらもあくまでふつうの人々を記事の主語に据えて熱い紙面を作り続ける大きなチャレンジであったにもかかわらず、組織としての朝日新聞はこのプロジェクトの重要性を早くも記憶の彼方に忘れ去ってしまったかのようだ。

 だが、早野自身の思いは明確に違っていた。早野はこう書いている。

 「わたしは「政治記者」として、日本政治の権力の攻防を至近で見てきた。しかし、それだけではいけない、反体制の側からもいろいろ知りたいと思い、取材もした。そのバランスのなかで、ふつうに生きている市民の感じ方から政治のありようを見たい、考えたいと思ってきた。われわれジャーナリズムは権力ゲームの観客席にいるわけではない。民主主義のジャーナリズムは、われわれ自身がプレーヤーである」(9)

 こうした考えを明確に持った上で、早野は「ポリティカにっぽん」と「ニッポン人脈記」双方にそれぞれ精一杯の愛情を注いでいたのだ。だが、その重要性を理解しない面々がその後の朝日の執行部を占めるようになった結果として、「ニッポン人脈記」は2013年3月、8年間の格闘の日々に幕を下ろすことになっただけでなく、執行部は後継企画に対しても人員を減らし続けてチームを解体に追い込んでいった。その結果、朝日は「権力を持つ側がニュースの主語になるのがあたりまえ」の「ありきたりのメディア」に舞い戻ってしまった。

 早野は朝日を代表する政治記者だったが、そんな早野に対しては古巣の政治部内でも時に反発の声が上がることがあった。「田中角栄一人に食い込めば自民党政治のすべてがわかるといったことは昔話だ」「そんな取材手法はもはや古い。いまは各派閥に記者を貼りつけるなどして総合的に判断していかなければ政治は見えてこない」。そんな反発だった。

 だが、かつて政治部に在籍した別のベテラン記者はいま、こうした反発に異論を述べる。

 「早野さんの政治手法をいくら否定しても意味がない。時代は変わっても、政治家ととことんつきあい、それでも厳しく書くべき時は書く、政治記者にはそれしかないからだ。むしろいまは政治記者の質が下がっていることが心配だ。そもそも「深い取材とは何か」がわからなくなっている上に、デスク自身もその経験がないので部下に教えることができない。プロフェッショナルなジャーナリズムが尊重されないという意味で、本当に危機的な状況だ」

 

「ジャーナリストにとって一番たいせつなのは『権力への抗体』を持つことだ」

 これまで「市民の側に立つ」メディアがいかに重要かをめぐって縷々述べてきたが、「ニッポン人脈記」のような連載を構えなければそれが実現しないかといえば、もちろんそんなことはない。連載形式によらずとも、一人ひとりの取材記者やメディア幹部が「市民をニュースの主役に据える」必要性と重要性を心の底から理解した上で日々の報道を通じてそれを果敢かつ愚直に実行していけば、そのメディアは格段に市民感覚と現場感のある生き生きとしたニュースを発信できるようになる可能性が生まれるだろうと私は考えている。

 なぜなら権力の側に引き寄せられがちだった取材記者が自らの立ち位置を改めてふりかえって反省することによって、その記者の視野と問題意識が広がり、それまで捨象してきた取材対象者や取材現場が意識の中に同時に複数立ち上がってくることが予想されるからだ。

 例えば安全保障分野の取材を行っている記者がいるとしよう。その記者の主な取材対象は、ふつうは日米両政府のその分野の担当官僚や自衛隊幹部、大学教授、インテリジェンス関係の担当者らに限られているだろう。その狭いサークルの中で交わされる議論も、有事におけるシミュレーションを通じて浮かび上がる問題点や課題の洗い出しに特化しがちだ。しかもその机上の想定をいわば統治者になり代わって「上から」行うことに慣れてしまい、仮に有事の際の民間人の避難や民間企業の協力取り付けなどを検討する際も「上から目線」の「合理的な議論」で済ませてしまいがちだ。

 そこに決定的に欠けているのは、情報統制が想定される中で、大混乱の現場で逃げ惑い、右往左往して生命を危機にさらさざるをえない大勢の市民の生身の苦しみや怒りに対する思いであり、有事後に発生する多数の死者や傷病者の問題を含め、一気に変容するであろうこの国の現実にどう向き合っていくのかをめぐる幅広い観点からの議論だ。そしていうまでもなくジャーナリストは「逃げ惑う」人々の側の一員である。

 ジャーナリストにとって最も大事なことは何か。早野はこう書いている。

 「わたしたちジャーナリストにとって一番たいせつなこと、それは「権力への抗体」を持っていなければならないということである。例えば、どんなことがあっても、権力におべっかを使うようなことがあってはならない。かといって、なにか反体制の理屈をこねくりまわすことではない。力あるものに対して、ただへそを曲げていればいいということでもない。もっと深く、ものごとを見つめ、正しく認識すること、ひとりよがりの正義であってはいけない、そんな精神の柔らかさを持ち続けること、それが不当な権力や理不尽な圧迫をはねかえす力になる」(10)

 権力者のいいなりになって批判記事を一切書かない御用記者ばかりが増えていく中にあって、「民主主義のジャーナリズム」を生きるプレーヤーとして権力者にこびへつらわず、「権力への抗体」をしっかり持った政治記者がいまこそ必要だということに疑問を持つ人は立場やイデオロギーの違いを越えてもおそらくほとんど誰もいないだろう。

 「自分は権力ゲームの観客席にいる」という勘違いから記者が一刻も早く目を覚まし、「市民の側に立つ」メディアに生まれ変わっていくという覚悟を一人ひとりの記者やメディア企業の幹部が真摯に持とうとしない限り、そして政治報道を始め「権力報道」のあり方を具体的に改革していかない限り、メディアは今後ますます人々の信頼を失っていくに違いない。逆にいえば、そのことを一人ひとりの記者が腹の底から自覚して問題意識を研ぎ澄ませていけば、メディアを取り巻く事態が反転する可能性もまだわずかだが残されている。あとは報道に携わる幹部や記者の覚悟次第だ。人々はその点を注視し続けることだろう。

(文中敬称略)

 

(1) 佐高信、早野透『丸山真男と田中角栄「戦後民主主義」の逆襲』、集英社新書、93頁

(2) 前掲書、68頁。

(3) 早野透「あしたのことを見続け、書き続ける ジャーナリズムは民衆の希望のために」早野透、月刊『Journalism』2017年2月号、朝日新聞社、32頁。

(4) 前掲書、27頁。

(5) 佐高信、早野透、同掲書、23~24頁。

(6) 同掲書、69頁。

(7) 同掲書、91~92頁。

(8) 同掲書、97~98頁。

(9) 早野透、前掲書、28頁。

(10) 前掲書、32頁。

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著者略歴

  1. 松本一弥

    ジャーナリスト.1959年生まれ.早稲田大学法学部卒.朝日新聞入社後は調査報道記者として経済事件やオウム真理教事件などを担当.その後月刊『Journalism』編集長,『論座』編集長,夕刊企画編集長を歴任.この間,早稲田大学政治経済学部や慶應義塾大学法学部でメディア論や取材論を教えた.退社後は慶應義塾大学Global Research Institute客員所員を経て現職.
    単著に『55人が語るイラク戦争 9.11後の世界を生きる』(岩波書店),『ディープフェイクと闘う「スロージャーナリズム」の時代』(朝日新聞出版),共著に『新聞と戦争』(朝日文庫上下巻).総括デスクを務めたプロジェクト「新聞と戦争」では取材班とともに石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞,JCJ(日本ジャーナリスト会議)大賞,新聞労連ジャーナリズム大賞を受賞した.

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