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メディアの「罪と罰」

「墜落」を「不時着水」と言い換えてはならない

 

 「最後までパイロットが頑張った」から「墜落」ではない?

 鹿児島県の屋久島沖で米軍の輸送機CV22オスプレイが2023年11月に墜落した事故では搭乗員8人全員が死亡した。日本国内で起きたオスプレイの事故で死者が出たのは今回が初めてだ。この事故をめぐる一連の報道は、この国のメディアに巣食う「自発的隷従」(16世紀フランスの法律家エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ)とも呼ぶべき、権力を持った側からの「圧力」に弱く素直に隷従してしまう体質の一端を図らずも露呈する結果となった。

 「最後の最後までパイロットが頑張っていた」からオスプレイは「墜落」したのではなく「不時着水」だったと米軍や日本の防衛省が説明すると、その説明と明らかに矛盾する「エンジンが火を噴いて爆発した」との生々しい目撃証言や、機体の残骸が激しく損壊して海上に浮かんでいたという事実が確認されていたにもかかわらず、「客観的な情報やデータを集めて自律的かつ主体的に判断する」というジャーナリズムの基本原則をまるで放棄したかのように権力側の報道統制的な言動に従い、「不時着水した」と報道したテレビ局が現れたからだ。

 「たかが一つのことばの使い方にすぎないのでは」というとらえ方が仮にあるとすれば、それは間違いだ。一般論として、軍事能力を備えた組織は自らが引き起こした事故に関するネガティブな評価を矮小化したいとの衝動にかられがちだ。だがそれにメディアが無批判に追随してしまえば、「撤退」を「転進」と言い換えるなどことばをデタラメに使ってこの国を戦争と破滅に導いたかつての「大本営発表」につながっていく恐れが現実にあるからだ。

 国民の生命や財産を脅かしかねない緊急事態が迫っていたり発生したりした時、そのニュースを、メディアがいかなるスタンスで、どんなことばを用いて伝えるかーー有事の際の報道ではその点が死活的に重要だ。政治家を始めとする権力側の思惑や言動に流されず、一定の距離を保ちながら冷静かつ客観的であり続けられるか、メディアは問われている。

 「台湾有事」を始め世の中がきな臭くなってくる中、かつて「大本営発表」の一角を担って戦争推進の旗を振ったメディアは「大本営発表」の復活に抗うためにも、現実味を帯びてきている「有事の際の報道のあり方」について、ことばの細かな使い方を含めた議論を深めてその内容をあらかじめネットなどで公表しておくべきだ。それが「デジタル時代のメディアの説明責任」の取り方であるということに加えて、メディア各社がどんな方針に沿って有事の際の報道を展開するのか、この国の主権者として、また民主主義社会に生きる市民として、読者や視聴者にはそれらをあらかじめ知っておく権利があるからだ。

 そしてこの問題を考える時、参考になるのは英国の公共放送であるBBCの取り組みだ。BBCは1990年の湾岸戦争や2003年のイラク戦争の際も具体的な「報道に関する指針」を公表している。そこには「どのような方針のもとで戦争を報道するかをBBCは視聴者に説明する義務がある」との明確な問題意識がある。

 BBCについては、フォークランド諸島の領有をめぐってイギリスとアルゼンチンとの間で1982年に「フォークランド戦争」が起きた際、イギリス軍を「我が軍」(our troops)とは呼ばず、当時のサッチャー首相が激怒したという逸話が有名だ。時の政府からどれだけ圧力をかけられようともひるまず、BBCは「英国軍」(British troops)ということばを使い続けた。日本のメディアもBBCのこうした肝の据わった報道姿勢から多くを学ぶべきだろう。

 

日本側の飛行中止要請後もオスプレイは飛び続けた

 「墜落」か「不時着水」か。オスプレイの事故では国による説明が二転三転した。昨年11月29日の時点では宮沢博行防衛副大臣が「不時着水した」と報道陣に説明したが、翌30日に米軍が「墜落だった」と説明を翻すと日本側も見解を改め、「墜落」を初めて認めた。

 朝日新聞の報道によると、29日の夕方ごろに米軍から防衛省に事故の説明があった際は「米軍の説明は「Unplanned landing(計画外の着陸)」だったという。だが記事によると事故場所は海上だったことから、防衛省がこれを「不時着水」と「読み替え」、宮沢防衛副大臣が同日夜に記者団に対し「最後の最後までパイロットが頑張っていらっしゃったということですから、不時着水」と説明した。ところが30日の時点で、木原稔防衛相が参院外交防衛委員会で「墜落した」と発言。その理由について、記事は「米側からは本日になって墜落、クラッシュという表現で説明があった」からだと伝えている(1)

 「不時着水」だという防衛副大臣の説明を受けながらも新聞各社は「墜落」と表記したが、一部の民放テレビは防衛省が説明を切り替えるまではそのまま「不時着水」と報道した。これに対し、自衛隊出身の佐藤正久・自民党参院議員は30日、SNS上で「これは不適切、佐藤も訓練班長として数多くの事故対応にあたったが、誤魔化しは住民との間で不信感が増大し訓練再開か遅れる。パイロットがコントロールしようとしたら不時着、しなければ墜落は無理筋。これは墜落」と書き込んで防衛省の対応を批判した。

 オスプレイは2016年12月にも沖縄県名護市の沿岸部で墜落しているが、この時も機体が大破したにもかかわらず、米海兵隊は「キャンプシュワブ沿岸の浅瀬に着水した」と発表。防衛省も「不時着水」との表現を使い、沖縄のメディアを除く他の多くのメディアは「不時着水」と報道していた。

 また防衛省は11月30日午前、米軍側に対し、安全が確認できるまでの間はオスプレイの飛行を中止するよう要請したが、この要請を事実上無視するように米軍のオスプレイは日本国内で飛行を続け、オスプレイが配備されている沖縄県などからは政府の対応を批判する声が上がった。その後、米軍は12月6日、世界に配備しているすべての種類のオスプレイの飛行を一時的に止めると発表した。

 

「米軍の言い分を検証せずにおうむ返しするなら主権国家とはいえない」

 オスプレイの飛行停止をめぐる日本政府の「弱腰」とも受け取れる対応を見ると、日本における米軍に対する特別な権利を認めた日米地位協定や日米合同委員会の存在が「壁」になっているとはいえ、「はたして日本はほんとうに独立した主権国家なのか、それともアメリカの「属国」か?」という根源的な疑問を改めて人々に抱かせることにもなった。

 主権国家とは、当該国家が国内的には最高の権力であるとともに、外部の力には従属せず、また自分を上回るいかなる上級権力も存在しない、自らのことを自分の判断で決定できる国のことだ。その意味で今の日本は主権国家の名に値するのか。この点について、琉球新報は社説で日本政府の対応を厳しく批判した(2)

 「日本国内でのオスプレイ墜落で初めて乗員の死者が出たのだ。事故原因が不明なまま飛行を続けるのは異常であり、到底納得できない。(中略)日本政府の対応も弱腰と言わざるを得ない。木原稔防衛相は安全が確認されてから飛行するよう米側に要請したという。このような曖昧な要請では効果は望めない。(中略)防衛省によると、事故発生後から30日午前7時までに、米軍普天間飛行場にオスプレイが計14回離着陸していたという。県民の命を軽視しているとしか思えない。(中略)30日になって木原防衛相が「墜落」と修正した。それも、米軍が説明を修正したからという。日本の主体性はどこにあるのか。米軍の言い分を検証せずにおうむ返しするだけなら、主権国家とはいえない」

 米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古への移設計画を始めとするこれまでの日本政府の一連の対応でも顕著だが、この国の主権国家としての主体性は、琉球新報が指摘するように、とりわけ対米関係においては極めて脆い基盤の上に成立していることが今回の政府の事故対応からも改めて浮き彫りになったということができるだろう。

 この移設計画に関して国は28日、新たな区域の埋め立てに必要な設計変更を県に代わって承認する「代執行」をした。国が地方自治体の事務を代執行するのは初めてであり、地方自治のあり方が問われる異例の事態となったが、政府は今年1月10日、軟弱地盤が広がる大浦湾での埋め立て工事を始めた。代執行で知事権限を奪い、あくまで工事を強行する政府の姿勢に対して、沖縄県の玉城デニー知事は「乱暴で粗雑な対応だ」と厳しく批判した。

 

「自発的隷従」――ド・ラ・ボエシの洞察力

 権力を持った側の意向を忖度して権力者に自らすり寄っていくというマインドセット(考え方)について、16世紀フランスの法律家で『エセ―』を書いたモンテーニュの親友としても知られるエティエンヌ・ド・ラ・ボエシは、独自の鋭い洞察力に基づく人間観察の末に得た考えを自著『自発的隷従論』の中で次のように展開している(3)

 「人はまず最初に、力によって強制されたり、うち負かされたりして隷従する。だが、のちに現れる人々は、悔いもなく隷従するし、先人たちが強制されてなしたことを、進んで行うようになる。そういうわけで、軛(くびき)のもとに生まれ、隷従状態のもとで発育し成長する者たちは、もはや前を見ることもなく、生まれたままの状態で満足し、自分が見いだしたもの以外の善や権利を所有しようなどとはまったく考えず、生まれた状態を自分にとって自然なものと考えるのである」

 こうしたド・ラ・ボエシの記述が第二次世界大戦以降の日米関係のあり方を想起させる中で、「これが稀な「親米国家」形成とその持続の秘密ではないか」と指摘したのは、『自発的隷従論』に解説を寄せている東京外国語大学名誉教授の西谷修だ。

 西谷は日本が敗戦後、アメリカの占領統治下に置かれた後、日米安全保障条約でアメリカの「核の傘」に入った経緯に言及。日米地位協定に具現されているような形でアメリカに従属した結果として「日本にとってあたかも「自然なもの」であるかのような環境が作られ、国際政治であからさまにアメリカに追従することは言うに及ばず、経済においても文化においても、アメリカに従い、アメリカを範とし、「アメリカのようになる」ことが理想のように求められてきた。(中略)要するに「アメリカ」は日本にとって「自然」な準拠のような位置を占めてきた」と述べ、主体性を欠いた日本の対応を批判した(4)

 アメリカに「自発的に隷従する」こと自体がふだんは意識に特段上らないほどに「血肉化」し日常化したこの国の特異なありようがそこに見て取れるだろう。

 

「市民の側に立つ・市民のための公共メディア」として必要なこと

 1月30日に岩波書店から出版される拙著『メディアの「罪と罰」――新たなエコシステムをめざして』では、そのメディアが権力監視を始めとするまっとうなジャーナリズムの精神をしっかり持った上で日々の報道を行っている「ホンモノ」のメディアか、それとも権力者にすり寄り、権力者をひたすら擁護・礼賛するだけの「御用メディア」なのかをシビアに見極めるためのポイントを10個にまとめて提示した。

 その第1番目が「そのメディアは「市民の側に立つ・市民のための公共メディアと」といえるか?」であり、第3番目が「そのメディアは自社独自の「オンリーワンの報道」を展開しているか?」だ。そして報道に際してはいうまでもなくメディアの「ことばの使い方」が重要だ。メディアは政治家の欺瞞的で無責任なことばを「そのまま、客観的に」垂れ流すことが許されないだけでなく、自らのことばの欺瞞的な使い方に関してもこれまで以上に感覚を研ぎ澄ましていく必要があるということも一章を割いて詳述した。

 フランスの作家、アルベール・カミュはかつて、ジャーナリストとは「その日その日の歴史家」なのだといったが、その歴史はことばで刻むものであり、空疎なことばをいくら積み重ねても「その日その日の真実」には決してたどり着くことができないからだ。

 いまのメディアにとって必要なのは、例えば安全保障関連の問題では、米軍や防衛省の説明を「いわれるままに、そのまま」垂れ流すのではなく、日米の安全保障当局者に深く取材をした上で、同時に彼らの価値観を含めたマインドセットのあり方に流されず、たとえ取材条件が限られていたとしても客観的な情報やデータなどを可能な限り集めた上で、「あくまで市民のための公共メディアである」というスタンスに立って自分のアタマで考え、言い換えれば政府からは独立した立場で安全保障や軍事に関する自立した報道を展開することだ。

 そのためにも「ことばの使い方」が非常に重要なのはいうまでもない。安全保障の分野は「ブラックボックス」化していてメディアを含めた外部の監視の目は極めて入りにくい。その上、何か情報が出てくる際は政府や軍によってその内容があらかじめコントロールされていることに加えて、その情報も断片的なものにとどまりがちだ。さらに有事の際は国の安全保障当局が言論を統制する動きを様々な形で強めてくることも想定の範囲内にある。

 そうしたいくつもの壁を突き破って市民に必要な情報をリアルタイムで届けるためには、何よりも記者自身が「自分たちは市民のための公共メディアなのだ」という意識をたえず強く持っていなければ当局の統制的な動きにあっという間に飲み込まれてしまうだろう。

 

「イギリス国民を国旗の下に団結させたりするのはBBCの仕事ではない」

 こうした観点からメディア各社は、「大本営発表」体制に取り込まれた過去の反省を踏まえつつ、ことばの使い方を始めとして有事の際にどんな報道を行うのかを具体的に取り決める「戦争ガイドライン」(仮称)のような内容をあらかじめ議論して決めておく必要がある。その際は先述したようにBBCが時々の政府と対峙してきた取り組みが参考になる。

 1982年7月の「NHK文研月報」に掲載された「もうひとつの“フォークランド紛争”~報道姿勢でBBCと政府が対立~」と題したリポートによると、「政府与党によるBBC批判の口火を切ったのは、ジョン・ペイジ議員で、同議員は5月3日、BBCテレビのニュースが国防省の発表とアルゼンチン側の発表を同じ次元で扱っていると非難し、「昨夜の“Newsnight”でピーター・スノーは『イギリス側の発表を信用すれば……』という言い方をしていた。こうした態度は利敵行為に等しい」と批判したとされる(5)

 “Newsnight”はBBC第2テレビの夜のニュースだが、リポートによると、アルゼンチン側の言い分が多すぎるという批判に対し、BBCは10日、国防省の非協力的態度により南大西洋地域の映像が入手できないことに苦情を述べる声明を発表した。さらにBBCはこの日、もう一つの声明を発表したが、それは「BBCの報道は国益に反する」という趣旨の動議が保守党議員により下院に提出されたことに反論するもので、この声明には次のような下りがあるという。「BBCのジャーナリストは、下院のだれからも愛国心について教えを受ける必要はない」(強調は筆者、以下同)

 またこのリポートによると、事態がさらに険悪化したのは同じ10日、BBC第一テレビの報道番組“パノラマ”が政府の方針に対する批判論を紹介して以降だという。これを受けて翌11日の下院ではサッチャー首相がBBCを名指しで批判する展開になった。

 「わが国のメディアが自由であるということは、われわれが大いに誇りとするところである。しかし、敵が利用し得るような情報や意見の相違点を報道することによって、わが国民の一部の人たちの声明が危険にさらされるかもしれないときには、番組の中でそのことを考慮するよう要請する」

これに対し、BBCのリチャード・フランシス・ラジオ総局長は5月11日にマドリードで開かれた国際新聞編集者協会の総会の席上、予定していた演説草稿を離れ、しかも怒りの色をほとんど隠すことなく、サッチャー首相とビム外相に対し次のように反論したという。

 「イギリス軍の士気を高揚させたり、イギリス国民を国旗の下に団結させたりするのはBBCの仕事ではない。われわれの仕事は主戦論を唱えることではない。混乱した憂慮すべき事態について、将兵自身とその家族に対し、国民全体および全世界に対し、最も信頼できる情報を伝えることがわれわれの仕事なのである

 近い将来、日本が有事に直面したと仮定した際、時の政権に対するこうした決然とした姿勢を、日本の公共放送であるいまのNHKは、はたして取ることができるだろうか。

 

「NHKはジャーナリズムたりうるのか」

 元NHKエグゼクティブ・プロデューサーの桜井均は2014年、朝日新聞が発行していた月刊「Journalism」同年6月号の中で、当時の籾井勝人元NHK会長が就任会見で「国際放送は国内とは違う。領土問題については、明確に日本の立場を主張するのは当然のこと。政府が右と言うことを左と言うわけにはいかない」と発言した点に触れて次のように指摘している(6)

 「いま問われなければならないのは、公共放送NHKが言論機関として、「表現の自由」をはじめとする市民的・政治的自由を実現させるために“開かれた市民的フォーラム”の役割を社会に対して果たしているか、その責任の重さである。そもそも「公共放送」は誰のためにあるのか。放送法の理念である「公正・中立」はいかなる意味に理解されてきたのか。そして、NHKはジャーナリズムたりうるのか」

 その上で、NHK会長が問われるべきこととして次のように述べた。

 「編集権を持つ(NHK)会長が問われるべきは、尖閣、竹島などについて「国際放送」と「国内放送」ではスタンスの違いを設けるのか、あるいは、国内放送でも政府方針を踏襲するのか、という重要な点である。なぜなら、公共放送には領土問題や歴史認識など近隣諸国との間に意見の違いがあるときには、ただちに「開かれた議論」の場が求められるからである。本来なら、その姿勢は、国内外を問わず貫かれなければならないが、実際の国際放送は、政府見解を外国に伝えるという「国益放送」の役を担わされる可能性が高いのである」

 桜井は続けて、2006年当時に総務相だった菅義偉の言動に触れてこう指摘した。

 「2006年、菅義偉総務大臣(当時)は「北朝鮮の拉致問題について重点的に扱うよう」NHKに「放送命令」を出して、多くの反発を受け、「要請」と変えた経緯がある。国際放送における政権との「危うい」距離感が、いつのまにか国内放送にも転移する可能性が見え隠れするのである

 桜井が具体的に指摘したこれらの懸念は、近い将来、あるいは現実のものになるかもしれない。NHKを始めとするメディア各社はここまで述べてきたいくつかの懸念や危機感を「我が事」として真摯に受け止め、まずは自社内部で有事の際の報道のあり方をめぐる議論を始め、深めていくべき時ではないか。その際のポイントは、繰り返しになるが、いまのメディア各社が「市民の側に立つ・市民のための公共メディア」として覚悟を持って危機の時代に臨んでいけるかどうかという点に大きくかかっているということがいえるだろう。

 

BBCの「戦争報道の指針」が問いかける

 2003年3月、BBCはイラク戦争に備えた「戦争報道の指針」(War Guidlines)を公開した。NHK放送文化研究所の『放送研究と調査』2003年10月号に掲載された「戦争ガイドラインに関する一考察」によると、BBCの「イラク戦争の報道に関する指針」の中の「報道の言葉づかい」という項目では、「我々がどのように報道するかは、報道内容の信頼性と同じくらい重要である。我々は客観的でなくてはならない。我々の主な仕事は感情的にならずに情報を提供することだが、人々の試練や苦悩について伝える際には、感情に配慮することは適切だ」と指摘。その上で、「特にBBCのリポートの多くが世界各地で放送されるため、通常は英国軍(British troops)」という言い方が適切だ」と規定している(7)

 また「情報の差し止め」という項目では、「現在進行中、あるいは今後予定されている作戦の危険」に関連したものに限定した上で、戦場の英国軍当局や国防省の要請に応じて「我々はしばらくの間、報道を差し控える準備ができている」が、同時にそうはいっても「必要以上の期間にわたって報道を控えるべきではない」とも述べている。

 この点についてもBBCは主体性を放棄していない点に注目する必要がある。なぜなら指針は「判断力が必要となるような問題については敏感であるべきだが、決定するのは我々であって、国防省や作戦部隊ではない」と明記しているからだ。

 また、「戦争への反対」という項目では、「ここでも、公正さの概念が適用される。あらゆる見解を、深さと広がりを反映するような形で、その割合に従って報道すべきである」としている点が重要だ。

 指針はこう続く。「我々は、英国(そしてその他の地域)における軍事行動への大規模な反対を報道に反映させ、視聴者が議論について情報を得て、これを検証できるようにする必要がある。戦争に反対を表明し、抗議デモを行う人たちについては、全国的、そして国際的な現実の一部として報道すべきである」

 時の政権に忖度して戦争反対の動きを取り上げないか、報道するとしてもごく小さく扱うといったアンフェアな報道は一切行わず、あくまでフェアな立場で、視聴者である市民が政府の判断や軍の動きなどをめぐって議論や検証ができるように情報を発信していく、とBBCは対外的に明確に宣言しているのだ。公共放送としてのこの判断とそれを公表しているという事実に対し、ある種の驚きを禁じ得ないのは筆者だけだろうか。

 ちなみに現在のBBCも「戦争・テロ・非常事態」などに関するガイドラインをネット上で公開している(8)。この中の「正確性と中立性」という項目では、BBCのレポーターや通信員が自分たちの仕事に関連してソーシャルメディア上でつぶやくコメントが、BBCの本番のリポートと同じ重さを持って人々に受け止められることに注意を促し、レポーターらは「正確性と中立性」に関して終日気を抜かないよう呼びかけている点が注目される。

 「戦争ガイドラインに関する一考察」を執筆した筆者の岡本卓は「BBCの指針は、BBCとして戦争をどのような方針のもとで報道するかを視聴者に説明する義務がある(いわゆるアカウンタビリティー)との認識でまとめられ、かつ発表されている点にも我々は留意すべきであろう」と述べているが、この指摘も極めて大切なポイントだ。

 「戦争報道の指針」は、有事の際の報道のガイドラインである以上、先述したように、NHKを含む民放各社や新聞社なども平時の時点で戦争報道に関するガイドラインを作り、それらをそれぞれ公開すべきだと筆者は考えている。厳しい言い方になるが、こうしたガイドラインを自社の「ブラックボックス」の中に入れて市民の目から遠ざけたままの状態で有事の報道をしようとすることは、一種の「ごまかし」だと批判しなければならないだろう。

 権力側から「墜落」を「不時着水」と簡単にいいくるめられてしまうようなメディアが2023年の時点で存在することがすでに明らかになった以上、繰り返しになるが、メディア各社は「有事の際の報道のあり方」をあらかじめ外部の目にさらしておく必要があるのだ。

 メディア各社はいま、こうした点も含めて「デジタル時代のメディアの説明責任」に積極的に取り組んでいくことが求められているといえるだろう。

 戦争当時のメディアといまのメディアは「地続き」でつながっている。いくらデジタル技術が進化しても人間の感性がそれと同じように「進化」することはないからだ。その意味で、メディア企業で働く人々のメンタリティーもほとんど変わっていないということができる。

 だからこそ、メディア各社は自社の戦時中の「暗黒の歴史」を自ら学び直し、それらを現在と未来に活かしていくための具体的な方策を詰めた上で、その方針などを「ブラックボックス」の中に隠さずオープンにすることを通して、メディアの信頼性を少しでも高める努力をしておくことが求められているのだ。

(文中敬称略)

 

(1)朝日新聞2023年11月30日

(2)琉球新報2023年12月1日社説「オスプレイ飛行継続 主権国家の体をなさず」

(3)エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ(西谷修・監修、山上浩嗣・訳『自発的隷属諭』、ちくま文庫、35頁。

(4)前掲書、235~239頁。

(5)村井仁「もうひとつの“フォークランド紛争”~報道姿勢でBBCと政府が対立~」『NHK文研月報』昭和57(1982)年7月、NHK総合放送文化研究所、放送世論調査所、42~46頁。

(6)桜井均「NHKはジャーナリズムたりえているか 「公共性」と「国益」の違いを明示せよ」、月刊『Journalism』214年6月号、朝日新聞社、89~97頁。

(7)岡本卓「戦争報道ガイドラインに関する一考察」、『放送研究と調査』2003年10月号、NHK放送文化研究所、17~25頁。

(8)

https://www.bbc.com/editorialguidelines/guidelines/war-terror-emergencies/guidelines/

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著者略歴

  1. 松本一弥

    ジャーナリスト.1959年生まれ.早稲田大学法学部卒.朝日新聞入社後は調査報道記者として経済事件やオウム真理教事件などを担当.その後月刊『Journalism』編集長,『論座』編集長,夕刊企画編集長を歴任.この間,早稲田大学政治経済学部や慶應義塾大学法学部でメディア論や取材論を教えた.退社後は慶應義塾大学Global Research Institute客員所員を経て現職.
    単著に『55人が語るイラク戦争 9.11後の世界を生きる』(岩波書店),『ディープフェイクと闘う「スロージャーナリズム」の時代』(朝日新聞出版),共著に『新聞と戦争』(朝日文庫上下巻).総括デスクを務めたプロジェクト「新聞と戦争」では取材班とともに石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞,JCJ(日本ジャーナリスト会議)大賞,新聞労連ジャーナリズム大賞を受賞した.

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