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連載 はかまたさん

冤罪死刑囚と投票


 昨年10月22日、総選挙。
 大型の台風が接近し、静岡県浜松市は大荒れの天候だった。袴田ひで子さんは既に、市役所で期日前投票を済ませていた。
 しかし、その横に弟・袴田巖さんの姿は見えない。
 2014年12月の総選挙で投票所に入る袴田さんとひで子さん
  <2014年12月の総選挙で、ひで子さんが投票するあいだ、袴田さんは廊下で待っていた。>

 前回の総選挙が行われたのは、2014年12月。はかまたさんが東京拘置所から釈放されて、8カ月あまりが過ぎたころである。
 社会に帰ってきた当初、48年ぶりに取り戻した日常に緊張があったのか、ほとんど外出せず、表情に感情の色が浮かぶことも少なかった。
 だが、釈放から半年が経過すると、見違えるように笑顔が増えた。ひで子さんと散歩を楽しみ、県外へ出かけるようにもなっていた。

 2014年12月14日、投票日の午前中、姉が弟に声をかけた。

「きょうは選挙だで、投票所に行って、浜松城の近くを散歩しよう」
「選挙か。誰に投票するかな」
「あんたは投票権ないんだよ」
「……そうか」

 やや寂しげながらも、納得した様子の袴田さん。
 姉の投票と散歩に付き合い、2時間後に帰宅した。

 当時、袴田さんの選挙権について、地元の選挙管理委員会に取材すると次のような回答だった。

「袴田さんは(2014年の)7月に住民登録をされたので、選挙人名簿にお名前は載っています。ですが、まだ無罪が確定していません。再審請求中も公職選挙法の規定が適用されます。従って、選挙の入場券は発送されていません」

 公選法では、禁固以上の受刑者は選挙権を失うと規定されている。
 足利事件で再審無罪を勝ち取った菅家利和さんは、17年あまり服役した後、無期懲役の刑が停止された。
 しかし、無罪確定前の2009年8月の総選挙では、やはり投票することができなかった。

 袴田さんは釈放された身でありながら、即時抗告審の長期化で権利が阻害されてしまっているのだ。
 拘置所の高い壁を乗り越え、毎日を自由に過ごしているようでも、目に見えない法の壁がまだそびえている。

 このころの袴田さんは1日の大半を自宅で過ごしている。
 新聞を読み、テレビを眺め、午後になるとひで子さんと買い物に出かける。日記をしたため、支援者と将棋を指すこともある。特別なことは何もない。
 穏やかな表情から不満はないようにも映る。
 死刑の恐怖に怯えた獄中48年を経て、また、釈放から半年あまりが経過したこのころ、袴田さんは何を思っていたのか、獄中で何を考えていたのか。近くにいて、それが気になった。

 寡黙な袴田さんは自ら話すことは少ない。そこで、好きなコーヒーを持って日参した。すると、カップを両手で包みながら語ってくれることがある。
ある日の昼下がり、コーヒーを飲みながら笑いが絶えなかった

<ある日の昼下がり、コーヒーを飲みながら笑いが絶えなかった。>

――拘置所ではラジオを聴いたりするんですか?
「歌謡曲なんか聴いたね。美空ひばりとか島倉千代子とかね」

――坂本九は?
「坂本九はいい歌を歌っていた。アメリカでヒットしたね。でも、富士山に落ちちゃった、飛行機が」

――それはニュースで知ったんですか?
「私はなんでも知ってるんだな。儀式の問題で」

――印象に残っているニュースは何ですか?
「ニュースではみんな、野球でどこが勝ったかとか、そんなことばかり気にしている。政治的には、ハイジャックとか田中角栄の問題があった。目白に大きな山があって、そこで生活していた。そこを田中角栄が持っていれなくなって売り払い、袴田巖が買い取ったんだな。東京一のところを。それを私が今日まで維持しているんだな」

――シンポジウムなど、あちこちに呼ばれて大変じゃないですか?
「呼ばれりゃ、話くらいしにゃしょうがない。権力とはそういうものだということだね」

――きょうは投票できなくて残念でしたね。
「呼ばれりゃ選挙に行ってもいいが、袴田巌は最高裁にも勝った強い人間だから、別に行かんでも問題ない」

――釈放後の生活はどうですか?
「世界の人間がね、みんな困らんように、そういう考えで工夫、指導しなきゃしょうがない。袴田巖のお陰で、世の中がだんだんよくなってきている。どんな権力にも最高裁にも負けなかった袴田巖、一番強い袴田巖のお陰でね」

――コーヒーの味はいかがですか?
「なかなかいいね」

 時おりこちらの目をしっかりと見ながら、古い人名や出来事がスラスラと口から飛び出してくることに驚いた。
 袴田さんならではの表現方法がとられ、解釈が難しい部分もある。
 そんな個所では、姉のひで子さんが、

「袴田巖のお陰で、だって」

 と合いの手を入れ、ケタケタ笑っている。

 昨年の総選挙と同時に行われた、最高裁判所裁判官の国民審査。
 最高裁より強い弟を持つひで子さんは、法の番人に対しどんな判断を下したのだろうか。

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著者略歴

  1. 青柳雄介

    ジャーナリスト。一九六二年東京生まれ。雑誌記者を経てフリーのジャーナリスト。これまで事件を中心に社会、福祉、司法などの分野を取材。袴田巖氏が釈放された二〇一四年から密着取材を続ける。

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