ドキュメンタリーを俎上にあげる/七沢 潔
上映会ともなれば、監督は万雷の拍手で迎えられてトークが始まり、映画の背景などが滔々と説明され、テーマとなった社会問題に関する質問が飛び交う。だが、そこでは作品としての映画の良し悪しはあまり論議されない。「あの編集はないだろう」とか「解釈が上滑りだ」などと言おうものなら、会場の冷たい目線の集中砲火を浴びるだけだ。
つまり、誤解を恐れずにいえば、ドキュメンタリーは往々にして特定の社会問題への意識を共有する特別な観客によって、無批判に甘やかされてきた。それは、特にドキュメンタリー映画が社会運動の懐で育ち、運動を支える有力なメディアであり続けたことと関係している。たとえば原発に関する作品が少なかった3・11前、あるいは日本軍「慰安婦」など誰も触れたがらない昨今に、希少な映画を提供する作家が称えられた様を思い浮かべればよい。
だが作品としてのドキュメンタリーは良質な批評にさらされてこそ鍛えられ、向上する。そうならなければ、劇場映画がそうであるように、一般の観客が入場料を払ってでも見たい映画にはならず、内容的にも、経済的にも自立できない。公からにせよ、民間からにせよ、いつまでもカンパに頼る、保護対象の表現であり続ける以上は、最高でも延べ観客数10万人という壁を越えられないだろう。
テレビ・ドキュメンタリーもまた同様の壁の中にいる。受信料に支えられるNHKで、いまやドキュメンタリーが視聴率10パーセント以上を稼ぐことは滅多にない。日付をまたいだ深夜しかドキュメンタリー枠がない民放は言うまでもない。
客観的に見れば映画にせよ、テレビにせよ、ドキュメンタリーはずっと貧しているのだ。
この連載は、「清く、貧しく、美しい」ドキュメンタリストたちの作品をあえて解体し、良いものはなぜ良いのか解き明かし、良くないものには辛口の批評を加えることで、その成長を促そうとする。異論は出るかもしれない。でも、それが議論のきっかけになるならば、こちらも望むところである。