見た目
痴漢から助けてくれた人は……
外見で判断を間違うことはよくある。ずいぶん昔の話だが、京王井の頭線で、ヤンキー風の男性と背広を着たおとなしそうな 男性が両隣に立った。満員電車の中、押されて背広の男性の方に体が行った。しばらくすると、後ろからぐいぐい腰を押し当てられた。すると、少し離れたところから「テメーなにやってんだよ!」と、怒鳴りつける声が聞こえてきた。
痴漢は背広男、怒鳴りつけているのがヤンキー風のお兄さんだった。渋谷駅に着くと背広男は走って逃げ、ヤンキー風のお兄さんが「大丈夫か?」と聞いてきた。私は、怖くて声もあげられず、だだ頭を下げて、そのまま学校に向かった。外見で人判断してはいけない、と感じた出来事だった。
野宿者の写真展が伝えること
モデルは野宿者の人たち。彼らの普段の姿の写真と、それらしい格好をして撮影した写真が並べられていた。見ているだけで、心がざわざわしてくる。同時に、いつでも誰でも野宿者になりうるのだということ、自分はたまたま恵まれた環境にいたおかげで今があるのだということ、どこの国で誰の子として生まれるのか、それは偶然でしかないことを教えてくれる。
東ドイツに生まれるか、西ドイツに生まれるか、いつの時代に生まれるか。金持ちの家に生まれるか、貧乏な家に生まれるか……。
旧東ドイツの友人たちは、当時は確かに人権侵害はあったものの、貧しい人たちにも安定した未来があった、貧しいなりに生活の保証もされていたと、口々に言う。壁が壊れて移動の自由が手に入ったかわりに、安定した未来が奪われた。東西統一は喜びであったが、同時に、すべてがカネの社会に放り出されたのだ、と。
今なお続く東西格差が、東ドイツを中心に沸き起こっている移民排斥運動ペギーダ台頭の一つの要因となっている。奪われたものの大きさがそこにはある。
「隣人」と共にテーブルを囲む
いまはボロボロの難民も、戦争や国内紛争がなければ、自国で大きな家に住み、豊かな食事と家族との団らんがあったのだ。この写真展は、そのことも連想させてくれる。
そう、この写真展は、汝の隣人を見よ、そして考え、行動せよと言っているようだった。以来、この教会で食事をするときには、教会のまわりに座っている人たちにも声をかけ、一緒に食事をとってもらっている。
私はまだドイツ語ができない。言葉が通じないから会話もできない。でも、私のために彼らはテーブルを共にしてくれる。
写真展会場の入り口、ふたつの野宿者の写真